樋口礼央という男 ②
三人揃って『1-B』と表記された教室に入る。保育園からの旧知の仲であるのに、まさか高校生にもなって同じクラスになるとはと三人で笑いあってから、もう二ヶ月以上が過ぎた。
とはいえ、盾子の祖父が設立に関わった学校であることから、彼は同じクラスになった理由の察しはついてはいた。
金持ちの癖にやることが地道過ぎると感じたが、それを口に出してしまってはお終いだ。自分たちは長く一緒に居すぎたのだ。いまさら三人の関係が大きく変わるこなどそうそうあるまい。
その彼の考えを嘲笑うかのように、その少女は現れた。
「礼央くぅぅぅぅぅぅぅん!!」
教室に入るなり、少女は風切り音と共に礼央に飛びつく。肩甲骨辺りまで伸びた茶髪を後頭部で一纏めにし、所謂ポニーテールにしているのだが、まるで犬の尾にように揺れている。
礼央をその胸に抱きしめるやいなや、頭に頬ずりまでしている。
「うぉい!! 毎日発情してんじゃねぇよメス犬!!」
「黙れエロ猿!!」
「礼央も嫌がってんだろ!?」
「嬉しいもん!!」
「んな洗濯板でゴリゴリされて喜ぶ奴がいるかよ!」
「あるし! 肋骨隠すくらいはあるし……」
礼央にとっては入学時に始まった日常のやり取りではあるものの、さすがに抱き締められるのは恥ずかしい。
「別にゴリゴリはしないが、さすがに恥ずかしいのでやめてくれると助かる」
「今日も見た目に似合わない低めの声が素敵♪」
「ふう、離れてくれると助かる」
「もー、礼央くんったら照れ屋さんなんだからー」
そういう問題ではなく一般的に恥ずべき行為だと思うのだが彼女には関係ないのだろう。全ての感情を素直に吐露することが彼女の正義なのだ。
「はいはい、四宮さんもそろそろ離れてあげてくれる? 礼央はこれからやる事があるしね」
「むー、はぁーい」
「何故、タテ子の言う事は聞くんだ……」
「盾子ちゃんとアンタを一緒にしたら失礼じゃん」
どこにぶつけたらいいか分からないイライラを噛み締める秀吉を余所に、名残惜しそうに離れる少女、四宮リン。
入学式の日に礼央に告白して以来、毎日この調子でアピールと呼べるのか怪しいアピールを繰り返している。
礼央には即日振られているが、
「他に好きな子はいるの?」
「……そういう理由ではない」
という会話から、振り向いてもらえるチャンスはあると判断したようだ。礼央が強く拒絶も受け入れもしない為、いまだにこの状況である。
ある意味で宙ぶらりんな状況ではあるが、彼女のメンタルはこんな事では折れないらしい。
「タテ子……俺は何かする事があったか」
「数学」
「あぁ、数学の宿題か? いやいや、昨日あんだけ数学のタケ爺に言われて忘れるわけが……」
チラッと視線を向けた秀吉の目には、眉間に微かに皺を寄せた礼央がいた。
「いやいや、お前っ、名指しで注意されてたよな? わかりましたって答えてたじゃん!?」
「やっぱり空返事だったのね」
「むむっ、ずっと礼央くんを見てた私が気付かなかったのに……。はっ!? まさかやはり盾子ちゃんも!?」
「んなっ!? ちがっ、そういう話じゃない!!」
顔を真っ赤にした盾子がコホンと一呼吸おき、
「と、とにかく、さっさとやっちゃいましょう。私も手伝うから」
「助かる。しかし、窓際の席はいかんな。海風が気持ち良い」
「なるほどー、それであんなに機嫌良さそうな顔してたんだね」
「で、メス犬はやってんの?」
「やってますー正解かはともかくー。エロ猿こそどうなのよ」
「俺は教科書や問題集の問題は全部やって、授業と別のノートに纏めてあるから」
「サル、お前は頼りになる奴だ」
「はいはい、礼央は自力でやりましょうね」
「どうしてもか……」
「どうしてもよ」
微かに表情を暗くしつつ、礼央は件の窓際の席に着く。この時期は海から潮の香りが運ばれ、夏を意識させてくれる。
こんな毎日が彼は好きだ。たとえ言葉にも、表情にも出さなくとも、彼は愛おしく守りたい日々だと、そう思っている。
たとえ、どれだけ数学に苦しめられようとも。