樋口礼央という男 ①
春から初夏へと移り変わろうかという6月末。冬には雪積もる、ここ大有賀市でも夏の近づきを感じられた。
樋口礼央はブレザー姿で母の寝室に居た。4個の目覚まし時計が鳴る中で眠る母を起こそうと悪戦苦闘しているのだが全く起きる気配はない。
母はスウェットにTシャツ姿でベッドの上に大の字で寝ている。きっと友人のサルが見れば涎を垂らして襲い掛かるだろう。礼央にとっては毎日の見慣れた風景でしかないのだが。
ふぅっと息を吐くと目覚まし時計を止めて台所に戻り、コンロの魚焼きを覗き込む。鮭の焼けるいい香りがしているが、これはきっと焦げてしまうだろう。
母との決め事として、起きるまで魚を焼き続けるというものがある。寝坊癖の直らない母への苦肉の策だ。焦げた臭いで目が覚めるし、焦げた魚を食べさせられるという苦行が嫌で直るかもしれないという淡い期待が込められている。
「んー……いがぁぁぁぁぁ……すぴー」
もう一つ息を吐くと魚焼きの火を小さくする。毎日、発癌性物質を食べさせるのも忍びない。もう5分寝かせたら起こしに行こう。
しかし、気持ちがいい朝だ。礼央はこの季節が一番好きで一番嫌いだ。もうすぐ、父の命日で、母が年に一度泣く日でもある。
ベランダを開けると暖かい風が部屋を吹き抜け、微かに花の香りがする。隣の部屋のベランダの花の香りだろうか。
「んがー!?」
母の部屋から長い金髪を振り乱しながら怒気を発する鬼が出てきた。サル曰く、スレンダー美魔女の母は身長も高く、世間一般で言う美人ではあるだろう。
「礼央ー!!もう8時なんだけど!?」
「本当だ。じゃあ、行ってきます」
「おぉい、無愛想ドチビ!!」
「大丈夫。今日の魚はまだ焦げてない」
「おっ、ありがとう……じゃねぇよ!?」
母の怒声に背中を押されつつ、家を出る。しかし、自分の息子にドチビと言うのはいかがなものか。ベランダに花を植えたお隣のおばさんの苦い顔に頭を下げつつ階段を下りるとサルがニヤニヤして待っていた。
「相変わらず麗さんはおっかねぇな」
「そうか?」
礼央と並んで歩き出した男は金に染まった短髪にシルバーの星マークの付いたピアス。身長は礼央よりも20センチほど高いだろうか。ちなみに彼女は居ないが遊ぶ女友達は腐るほど居る(自称)とのこと。
そんなチャライを擬人化したような印象すら与える男がサルこと、水瀬秀吉だ。
礼央とは保育園以来の付き合いで、中身はその頃と変わりがないと評判である。
「はぁ、麗さんみたいな美人の彼女が欲しいわぁ」
「……俺に遠慮はいらん」
「いやいや、さすがに本気じゃねぇっての!素直かっ!」
「ん……? あぁ、いや、そういうことか」
「おいおい、天然は一人で十分だぜ」
さすがの礼央も秀吉の言う天然と一緒にされるのは心外ではある。そもそもあれは天然というより、天災に近いと礼央は思っている。
「しっかしよぉ、もう6月も終わるとか早くね?」
その言葉に礼央が同意すると同時にヌッと二人の間に黒い物体が突っ込まれる。
「ジジくさいわねー」
「うえひゃお!?」
黒い物体が発した言葉に秀吉が珍妙な声を上げる。
「タテ子、そういうのはやめてやれ」
「ふふ、ごめーんね」
背中の真ん中辺りまで伸びた髪を上げ、悪戯な笑顔の少女の名前は金城盾子。二人と同じく、保育園からの幼馴染で昨年のミス大有賀に輝いた程の美少女(他称)である。
「いや、まぁ、可愛いから許す!!」
「はぁ!? か、可愛いとか言うな馬鹿サル!!」
「どちらかと言えばタテ子は美人じゃないのか?」
「礼央くんはまだまだお子様ですなー」
「やめて!! 可愛くないから!!」
「いやぁ、タテ子もある意味では天然かも」
「あぁ、タテ子は天然だ」
「礼央には言われたくない……」
ずっと繰り返してきた日常の風景の中で緩やかな坂を上り、かつて海浜公園と呼ばれた場所に建てられた大有賀海浜高等学校に向かって、まるで小学生のようにじゃれ合いながら、男女両方からの羨望と嫉妬を浴びつつ、三人は並んで歩く。