プロローグ
僕には家族がいる。
よく中学生に間違えられたり、スーツが似合わないと馬鹿にされるけれど、愛する妻と一人息子が家で待っている。
だから、僕は今日も「ただいま」って言うんだ。
私には家族がいる。
たった一人で私の帰りを待つ子供がいる。
だが、私はもう帰らない。
「懐かしいね」
僕は地面に話し掛ける。
「そうだな」
私は彼に話し掛ける。
「全部、終わったと思っていたんだけどなぁ」
「終わった。もう一度始めるというだけで」
「……うん、そっか」
しばしの沈黙の間、微かに波の音だけが二人の耳に届く。
周囲には土の山や重機が置いてある元海浜公園に二人の男だけが立っていた。
一人は白髪だが、まだ青年と呼べるであろう長身痩躯の男。もう一人は少年と言っても差し支えのない見た目の男。二人は旧知の仲であり、数々の危険を乗り越えた仲間だった。
笑いあい、慰めあい、ぶつかり合い、成し遂げた。
彼らは世界を救ったのだ。嘘偽りなく。
沈黙に耐えられず、自分の決意を促す為に私は口を開く。
「奥さんは元気か?」
「うん、ちょっと元気すぎるくらいだ」
「そうか……羨ましいな」
「お子さんはどうしてるの?」
「おばあ……妻の母がたまたま家に来てくれてな。ちょうどいいタイミングだったので任せてきた、くくっ……」
自嘲気味に笑った自分に嫌悪感が渦巻く。私はいつからこんな笑い方をするようになったのだろう。元々、あまり笑うのは得意な人間ではなかったが、こんな趣味の悪い笑いを浮かべる人間だっただろうか。
そんな私の顔を彼は見ない。見たくはない。誓いを破ろうとしている男の顔など見たくはないだろうな。
だが、
「君に預けた物を返してくれ」
もう一つの誓いは、この『世界』の全てに優先される。
「嫌だと……言ったら?」
陳腐な台詞だ。
「……自分から差し出したくさせることにしよう」
かつて私が父に向けた台詞に、かつて私が父に向けられた台詞で返す。
顔を見なくてもわかるよ。きっとなんでもない顔をしているんだろうね。
彼は頭がいいから、何度も何度もこの会話を想定して練習したんだろう。僕は……どうだろう?
あの日、彼があんなに泣いたのを初めて見た。実の父親が目の前で自害した時でさえ、声を震わせながら耐え忍んでいた彼が、人目も憚らずに泣き喚いた。
だから、泣き止んで虚空を見つめる彼の瞳に暗い光が灯った時、僕は言葉を発せなかった。
違う。ただの言い訳だ。僕は怖かった。大事な友人をまた一人失うかもしれない恐怖に負けた。
「そうか……」
だから、僕はもう彼を止める権利はないのかもしれない。なによりその為の……。
白髪の男がかつてのように手をかざす。
一つ念じる。
氷塊。
すると目の前に長さが1メートル以上はあるだろう氷柱が一本顕現する。
「抵抗する気くらいは見せてくれないか」
少年のような男は下を向いたまま、両手を広げ、大地を踏みしめていた。
大きく息を吐きつつ、
「怖い」
一言だけ呟いた。
白髪の男が目を見開くと同時にビキビキと音を立てながら氷柱の先端が鋭くなっていく。
「嘘だ!! 君が、私の一番の友人が、この期に及んで怖いなどと!!」
「怖くて堪らないよ。そっちだってそうなんでしょ?」
「そうだ、怖い。私はこれから、私が否定し、君と共に成し遂げたことを無に帰すんだ。だが君は違う。いつだって勇敢に、どれだけ恐怖していても前へ向かって歩いていた。私を絶望の底から救い、私に父殺しを決意させた」
もはや声の震えを隠す余裕など失くしていた。
「その君が、君が! 君だけが私を止められる!!」
「僕にはもうその『力』はないんだ」
「まさか……」
「だから、僕にあるのは、この命だけだ!!」
初めて少年のような男は顔を上げた。目には恐怖ではなく、炎を宿しながら。