遠い旅路の果て
某県境をまたぐ山々の合間。
ぼくらはその山間にある、そそり立つダムのような関所を前にして足止めを食らっていた。
「ここは私有地だ。戻れ」
巨大なコンクリート壁の手前にある詰所。
そこから現れた警備員は、警備員と言うよりはレスラーのような体つきで、ぼくら二人など瞬く間に畳んでしまえそうなほどに屈強な男性だった。
言われるままに帰りたい。
そして、与名さんと共に温泉へ行きたい。
ぼくが分かりました、と言うより早く後部座席の彼女は「総帥か、あるいは透一郎氏にお伝え下さい。ここを通して頂ければ、三ツ橋に関しての情報をリークしている人物を教えます」
そうして、警備員に車中でぼくに話していた内容のほとんどを伝える。
当然、弟子や猪原秘書のことは省く。
警備員は愚かしいことに、その内容を一言一句、中へと伝えてしまったようでコンクリート壁の一部が横へとスライドしていった。
「案内する」
助手席に乗った警備員に対して、ぼくは思わず制止する声を掛けようとする。
しかし、それは出来なかった。
余計な真似はするなとばかりに、後部から運転席の背もたれを蹴り込まれ、与名さんに釘を刺されてしまったからだ。
案内役がいないと手間が掛かる、と暗に言ってるのだろう。
良心が痛んだ。
関所をくぐっても、ここまでの道中とほぼ変わらない山道がしばらく続く。
五分も車を走らせると、街灯の他に明かりが見えて来た。
高所から見下ろすその街並みは、恐ろしいことに本当の街のようにしか見えない。
ここが個人の敷地内だというのだから、言葉も失うというものだった。
山を下り、区画整理までなされた家々の合間を走る。
郊外を抜けた先は繁華街のようで、ショッピングモールや飲食店、総合アミューズメント施設などの幾つかが立ち並んでいた。
どれも三ツ橋に関連する会社ばかり。
バスなども走っているらしく、ぼくが運転する車の先にバス停が見えた。
さすがに電車は走っていないようだけれど、出歩く人は老若男女問わず。
そこは山に囲まれた片田舎というにはあまりにも場違いで―――違和感の塊だった。
街の中心地。
本来は交通手段か、商業施設があるだろう立地に、古風な屋敷がこじんまりとしてあるところが、その気味の悪さを際立たせている。
「見えてきた」
警備員がそう言ったところで、ぼくはバックミラーの彼女を覗く。
どうでも良さそうな顔をしていたけれど、小さく頷いてくれたので、ぼくは目的地を前にして車を脇に停めた。
「なぜ停める」
警備員は警戒したように、ぼくを睨みつけ、咎めた。
恩を仇で返された気分だ。
「貴方は今すぐ車を降りて逃げた方がいい」
横目で窺うと、彼は何の事だか分からない、といった様子だ。
鈍い。
良識という言葉を信じているのかもしれない。
こんな街を作ってしまう人間にそんなものがあると本気で思っているのだったならば、彼はよほど良い人生を歩んできたのだろう。
与名さんや。
ぼくとも違い。
恵まれていた。
今日この日までは。
「さっき後部座席の彼女が言ったことは、三ツ橋家の恥部になります。あまり人には知られたくないはず。―――貴方、誰か来客があった時にはいつもそうやって助手席に乗って案内するんですか」
男は戸惑った様子で、自らを鼓舞するよう語尾を強くする。
「お前たちが逃げない様に見張れと言われた」
「逆ですよ。ぼくらを連れて来る様に言って、貴方をこの中に引っ張り込んだんです。ありませんでしたか? この敷地内に入って来たはずの車が、いつまでも何日経っても出て行かなかったことが。入り口を見張っている貴方でしたら、分かるでしょう」
心当たりがあったらしい。
次第に顔を青くしていき「まさか、そんな」と自問を繰り返す。
「もう一度、言います。貴方はここで降りた方がいい。命が惜しいのなら尚更」
それで男の逡巡は終わり。
その巨体を震わせた男は、壊すような勢いで扉を開き、助手席から飛び出した。
通行人とぶつかりながらも、来た道へと引き返していく。
ぼくはサイドミラーに警備員の姿が映らなくなるまで見送ってから再び車を走り出させる。
そして、目的の場所では無く、道を左に折れて車を隠せるような場所を探した。
街中の要所にある防犯―――というよりは監視カメラだろうものが見て取れる。
それらで動向は覗かれているだろうから、車を隠すことにあまり意味は無いかもしれない。
まあ。
警備員が逃げ出す手伝いくらいにはなる。
「助かると思いますか」
今やもう曲がり角の向こうに消えた男の姿を、無駄と承知でサイドミラーを見て探すぼくに対し、与名さんは虚ろな目を細めて言う。
「町中に配されたカメラに気付いているだろうに。気休めを言って欲しいのかな」
辛辣だった。
彼女らしい。
自分の敬愛する人がそういう人間に成り下がってしまったことを、悲しく思う。
ぼくは頭を振って、殊更に明るく声を張る。
「私有地の中なのに、不動産屋もあるようですね」
ぼくらは『空き地』と立札の刺さった場所へ車を停めさせてもらうことにした。
ここまで警察署や交番らしき建物は見られなかったので、もしもこの車が撤去されるとしたならば、三ツ橋家の私兵辺りが出てくるのだろう。
「ぼくが先行します。二人は、後から来て下さい」
そうしてぼくは先ほどまで警備員が座っていた助手席の上に、自身の姿を浮き上がらせた。
運転席にはあくびをする女性が一人。
彼女はぼくの言葉を無視したように、後部座席に座る与名さんへと振り返る。
与名さんは、そんな彼女を一瞥してから、ぼくへと指示を出した。
「安全確認は良いけれど、分かっているだろうね」
ぼくは頷いてからいつも通りに胸に手をあて宣誓する。
「たとえ殺人を見かけても決して止めません。また、殺害する瞬間を目撃した場合、その手段、動機、犯人に繋がる一切を与名さんには話しません」
そうして、ぼくは後部座席の与名さんが頷くのを見てから、遠くに望む屋敷へと飛び立った。
闇夜に揺れる枝垂れ柳のように。
ゆらゆらと。
ふらふらと。
ぼくは幽霊そのものとして振る舞った。