『総領の甚六』はお人よしであった
さすがの燃費の悪さである彼女の愛車は満タンだったにも関わらず、既にメーターが補給の目安である赤いラインを割っていた。
というか、目盛の外を指している。
夕食を兼ねてサービスエリアへと入った(つい先日にパーキングとの違いを彼女に指摘され笑われてしまった)ぼくは、タブレットに夢中な彼女を置いておいて、たこ焼きをワンパック買って車へと戻る。
事務所で演説を振るっていた時もそうだったけれど、彼女は熱中すると周りが見えない。
それこそ食事を取るのも忘れてしまうほど。
ぼくは彼女の邪魔をしない様に静かにセルフスタンドにて給油を済ませ、目的地を目指して黙々と走り始めた。
狭い車中で二人きり。
言葉も交わさないこの時間がぼくは好きだった。
彼女にとって空気の様な存在であると思われるのは嬉しい。
一緒に過ごしていても、ぼくは気まずい相手では無いということだから。
まあ、彼女の場合は誰あろうとマイペースを貫きそうではあるけれど、そこはあえて気にしないでおこう。
気乗りしない仕事なのだから、せめてこういった時くらいは楽しくしていたい。
そうして彼女とのドライブを再開してから三十分と少し。
ソースの絡んだたこ焼きの、その上に添えられた青のりとかつお節が合わさった香ばしい匂いが、車中に充満したところで「よし。絞れた」と鼻をひくつかせる彼女。
彼女にしては随分と時間が掛かっていた。
何か不確定要素でもあったのか。
脳みそを使ってお腹がすいた様子だった。
腹の音が車内に響き渡るのを、咳払いをして誤魔化す与名さんは、彼女の性別が女性だったことを思い出させてくれる。
後ろ手にたこ焼きのパックを乗せて「食べますか?」と勧めてみた。
奪い取るように持って行かれてしまう。
誰も全部を渡すとは言ってないんだけれど。
そのつもりではいたので、問題はなかった。
「君は本当に気が利くね」
腹の虫を聞き流したことを言ってるのでは無いだろう。
「有難うございます」
事件で暗躍すること以外で、彼女に褒められると素直に喜べる。
面映ゆいと感じつつ、薄らと笑みを浮かべていただろう。
緩んだ唇を引き締め、事故を起こさないように気合を入れ直す。
そうして百面相をしている内に、与名さんはパックに詰められたたこ焼きを食べ尽くしてしまったようだ。
「では容疑者候補を挙げていこうか」
そうぼくに笑って見せる。
とても愛らしい笑顔なのだけれど。
前歯には青海苔がべったりと貼りついていた。
「あの」
「聞きたくないとは言わせないよ。君には私の助手としての務めがあるのだから。きちんとキャストを覚えて置かなければならない」
ぼくが黙ったのを了承と取ったか、彼女は満足そうに頷き、青海苔のついた歯をむき出しにして得意げに語り始める。
「まずは最有力容疑者候補として三ツ橋家の三男『三ツ橋東三』」
そうして、彼女はタブレットに顔写真を表示させる。
頭に白髪の雑じった中年より少し歳がいってるだろう、定年間近といった風体。
頬がだぶついているにも関わらず、なぜかやつれているように見えるのは、彼の目が澱んでいるからか。
日本財界をけん引する一族の一人とは思えない。
「彼はグループの中で飲食系の会社運営を任されているけれど、円安による輸入食材の高騰や、最低労働賃金の底上げなどに伴って収支がマイナスに転じる。円安に歯止めは無く、低賃金アルバイトによる悪ふざけ写真などが風評被害を与え、止めを刺す。三ツ橋グループ系列の飲食店で最有力だった『安旨』は全国一万店舗あったのだけれど、地方から徐々に潰れていき、現在ではかろうじて集客の見込める都市部に千店を残すのみとなっているね。三ツ橋家長男の『三ツ橋透一郎』は現状の日本経済を見て致し方が無いと判断し、三男に赤字補填する為の資金を融通しようと考えている。ところが、総帥はそれを許さなかった。日本が将来にわたって円安であり続けた場合のリスクヘッジを怠ったと見做し、東三の経営手腕に問題ありと総帥は認めた。よって、東三氏を解任し、三ツ橋家の分家筋である『橋俵総明』を社長に任じようとする動きがある。その為の一族会議が定期的に行われていて、今日辺りに決定が下りそうなわけだよ。決定権は総帥にあり、次期総帥は東三の擁護派。動機はこんな感じだね。さてここまでで何か言いたいことはあるかな?」
前歯に青のりついていますよ、とは言えない。
タイミングを完全に外されてしまった。
今、言えばぼくは青海苔が前歯についていることを分かった上で、黙っていたことになってしまう。
だから。
「社長を解任された場合、東三氏はどうなるんです?」
「警備会社だったかな。今より低いポストへ就くだろうね」
「それは効率が悪くないですか?」
飲食業界に勤めていた人間を、別の業界に移動させるなど人材を無駄にしているようにしか見えない。
しかし彼女はそうとは考えなかった。
「分家の人間を社長に据えた時点で、三ツ橋の名を持っている東三氏が同じ会社にいるともっと効率が悪いよ。東三氏が築き上げて来た人脈を持ってして内部派閥を作ったらどうするのかな? 企業内で新社長と旧社長との内紛勃発。ただでさえ景気が悪いのに、社内の空気も悪くなってチャンチャンだろうね」
なるほど、と頷く。
零細事務所の手伝いをしているぼくでは及びもつかない発想だった。
「何か失礼なことを考えなかったかな」
察しが良すぎる。
ぼくは咳で彼女の言葉を払ってから、疑問に思ったことを重ねて聞く。
「しかし、与名さん。東三氏が見捨てられたわけじゃなく、他の業界でそれなりのポストを用意して貰えるのなら、殺人を犯すほどに相手を恨むものですかね」
一から鍛え直すとしても、平社員からスタートということもあるまい。
そうであったとしても、周りの社員が遠慮するだろうことは予想できるので、仕事をする上で気になる人間関係なども優位に進められると思うのだけれど。
「君は誰よりも持たざる者だからね。日々の生活が出来るだけでありがたいのだろうけれど、お金がある人間は、それ以外の地位や名誉を求めるものなんだよ」
「弟子に貢いで貰って生活に余裕がある与名さんが、改造しまくった車を乗り回して、全国津々浦々に駆け回っているようなものですか」
「地位や名誉に繋がるかな、それは」
「お金を稼ぐ以外の目的があるということでしょう」
前歯に青海苔を付けている彼女に、地位や名誉がついて来るものか。
いや。
弟子に慕われているのだから、師匠としての地位や、アメリカで残した実績による名誉を彼女は持っていたりする。
凄い人なのだ彼女は。
普段はそうは見えないけれど。
バックミラーを見ると、「なにかな」まだ質問でもあるのかと、背もたれにふんぞり返って聞いて来る。
『に』と言った時に、青海苔がちらりと見えて、尊大そうな態度を台無しにしていた。
「次をお願いします」
そう促すと彼女は鷹揚に頷き、続いての容疑者候補を挙げた。
画面に映ったのは年若いスーツ姿の女性。
「第二候補としては橋俵とは別の分家になる『三葉紅葉』という彼女が怪しいね。先ほど挙げた話だけれど、東三氏の後釜に誰を据えるかの候補として、三ツ橋家の次男である『三ツ橋威次』が彼女を推していたんだ。実際に彼の手足となって働いた経験があり、かなり優秀だったらしいね。手駒の一人としてグループ内での地位を向上させて、一族会議などでの発言力を上げようという魂胆もあったのだろう。けれど、総帥は女性を筆頭に据えるなど言語道断ということで、取り合いもしなかったようだ」
「時代錯誤な考え方ですね」
百二十歳ということは、一八九五年生まれ。
男女雇用均等法はおろか女性による自由民権運動すら宗二郎氏が成人してから、二十歳を過ぎれば婚期を過ぎたと扱われ、また、夜這いという文化すらも認められていた。
明治に生きた世代としては当たり前だったのかもしれない。
女性を軽視する時代。
けれど時は移り変わる。
過去の探偵と違い、タブレットなどの最新機器を駆使して、情報を仕入れている彼女のように。
応じていかなければならないと思う。
それに。
宗二郎氏の考え方ならば、ぼくの敬う与名さんもまた男尊女卑の対象になる。
見知らぬ誰かが彼女を夜這う想像してみたけれど、あまり気分のいいものでは無い。
法定速度を大幅に超えそうになっていて、慌ててアクセルを緩めた。
「同じ女性としては、総帥の考えは腹が立ちますか?」
同意を求めての、もっと言えば彼女の好感を得ようとしての問いだった。
だけれど、彼女は特に興味も無い様子で「どうでもいいかな。強いて言うならトップがそうだったならば、私は独立するね。そんな会社こちらから願い下げだよ」と素気無い。
多くの弟子に貢がれているわりに偉そうだった。
その様子を見、たとえ与名さんが明治を生きたとして、彼女の周りだけは女尊男卑になりそうだと思える。
「三葉女史を東三氏の次として挙げた理由はなんでしょう?」
能力ではなく性別で判断されたのならば、東三氏よりもよほど総帥に恨みを持ちそうなものだけれど。
あくまでぼくの主観的なものの見方だということか。
人それぞれ、怒りの沸点は違うし、抱く理由も別だったりするだろう。
与名さんが探偵という職業柄、犯人によって危険な目に遭うたびに、ぼくの中で湧き立つ衝動がある。
後ろから来る車を見るふりをして、バックミラーに映る彼女を窺う。
胡乱な目は深く澱んでいて、誰であろうとその考えを読めはしまい。
彼女にもあるのだろうか。
人を殺したいと思う気持ちが。
ただの押しつけだとは分かっている。
分かってはいるけれど。
彼女には清廉潔白で在って欲しい。
ぼくの願いを聞き届けたように、与名さんは三葉女史を二番手に挙げた理由を説明してくれる。
「これは推理というよりは統計だね。女性は殺人を犯しにくい。ほら。これが殺人事件の男女比だよ」
警察白書からの抜粋だろう、そう言って見せられた円グラフには、男性が殺人を犯した比率が九十五パーセントを占め、残り五パーセントが女性を示していた。
「ダーウィンの『人間の進化と性淘汰』は読んだことがあるよね」
さも当然といったように言うのはやめて欲しい。
返事がしづらくなる。
彼女に馬鹿だと思われたくないという気持ちによって、思わず呼んだことがあると肯定したくなってしまったが、見栄を張るのはもっと格好が悪い気がした。
「いいえ」
そう言うぼくに対して、彼女は目を剥いて驚く。
少し傷ついてしまった。
しくしくと痛む胸を押さえつつ、ぼくは言い訳をするように言葉を繋ぐ。
「だいたいの人は『種の起源』しか知らないと思いますよ」
言い訳がましい男であると見透かした彼女は、さも残念そうに溜め息を吐きながら、女性よりも男性が殺人を犯す理由を教えてくれた。
「野生生物の多くは往々にして雄が雌に選ばれる為に、派手な容姿をしていたりするよね。求愛のダンスや、如何に上手く鳴けるかで雌の気を引く。けれど、人は他の生き物より複雑な社会を作ってしまったからね。ただ目立つにしても、芸事があるか、勉学に励むか、スポーツに取り組むかと選択肢が多い。そして、どれもが頭一つ分、抜きん出ることすら難しい。それでも周りから高い評価を得たい、子供を残すために雌を獲得したい―――なんて思うのならば、それはもう周囲の障害を取り除くしかないよ」
自分の遺伝子を残すために。
それこそ死に物狂いになって。
同種族の個体間で争いが始まる。
「殺人という手段をもってしてね」
そう彼女は密やかに怪しく呟く。
「それでも三葉女史は次点なんですね」
与名さんの言い分ならば、女史は容疑者候補として圏外であっても良いように思えた。
「成り上がった女性だからね。自己顕示欲が強く、ひどく男性的でなければ大企業のトップになれる逸材になんてなれはしないだろう? 髪の毛の線も細いようだし、男性ホルモンも高そうだ。知ってるかな? 胎生期に女性は大量のテストステロンを分泌するのだけれど、このアンドロゲンシャワーを大量に浴びると脳が女性的特徴を失うらしいよ。肉食系女子はそういう風に生まれているのかもしれないね」
それはいくら何でも偏見だとは思う。
控えめな社長だって中にはいるはずだし、性欲なんて理性で抑えられる。
現にぼくは与名さんと事務所で二人きりでいるからといって襲い掛かったりはしない。
妄想したことはあるけれど、やる勇気もなかった。
ただまあ、彼女が女史を疑う理由は理解できる。
与名さんの推理を疑うなんてことは、そもぼくの選択肢に無い。
「最後の一人をお願いします」
彼女は慣れた様子でタブレットを操作して次の写真を出して見せる。
他の二人よりもずっと若く、ひょっとしたらぼくと同い年くらいの幼い顔をした少年だった。
学生服を着ているところを見ると、高校生ぐらいだろうか。
詰襟を全て閉じ、優等生然としていているのに、これまでの二人に比べて鬼気に迫る感じがしない。
むしろ穏やかで。
病弱そう。
「他の二人に比べて随分と下がるんだけれどね。共犯を含めて六人に絞ると言っちゃったし、止む無くの選択だよ。ある意味、大穴と言って良い」
だったら挙げてあげるな、とぼくは言いたかったけれど、彼女が話し終えるまでは黙れと言われるのがオチだろう。
ぼくはその少年についての話が終わるまでは静かにしていることにした。
「この愛らしい少年は『三ツ橋一士』」
愛らしい? と、うっかり声に出すところだ。
確かに見た目、可愛らしい感じ。
客観的に見てもそう思う。
何も気にすることは無い。
アクセルを緩める。
「彼はね。総帥の甥孫なんだよ。祖父の名前は『三ツ橋一女』。同じ読みなんだね。総帥は実の孫以上に甥孫の彼へと目を掛けていて、ゆくゆくは長男である透一郎氏の補佐を任されるとも言われているんだよ」
「ちょっと待って下さい」
ぼくはここで割り込んだ。
彼女はこれに関しては気にも留めない。
むしろ、わざとああ言った話し方をしてぼくに割り込ませたのだろう。
歯に付いた青海苔を見せびらかせ「人の話は最後まで聞かないといけないよ」と嬉し気だ。
良い様にされていると分かっていつつも、ぼくは彼女の望むままに質問を繰り出す。
「貴方の言い方だと、この一士という人は被害者側に立ちこそすれ、加害者になる理由が無いんじゃありませんか」
すると、彼女はしたり顔を浮かべてぼくを見やる。
「君は今まで私の話をきちんと聞いていたのかな? 君はここまでに至る間、きっと考えていただろう? 人が人を殺す理由は人によって人それぞれだと。そして、私が候補としては低いと前置きはしたものの、容疑者として挙げているからには必ずそれに見合う動機がある。それを踏まえてみた上で、もう一度おさらいをしてみなよ。推測の段階にまでは至れると思う。主に三ツ橋家の名前に注目するのが良い」
「名前ですか」
ぼくは一士に動機があるということを前提として、タブレットに映し出されていた三ツ橋家の名前を、順を追って思い返す。
総帥である『三ツ橋宗二郎』
三男である『三ツ橋東三』
長男である『三ツ橋透一郎』
次男である『三ツ橋威次』
そして、甥孫である『三ツ橋一士』
彼の祖父である『三ツ橋一女』
なるほど、とある程度の推測は立った。
ただ情報が足りない。
「次期総帥は長男の透一郎氏なんですよね。三ツ橋家は代々そんな感じですか。あと宗二郎氏には弟などはいないんですよね」
お、気付いたな、と言わんばかりに笑む彼女。
その無邪気そうな笑みにハンドルを取られそうになる。
思わず声が詰まって、目線をバックミラーからそらす。
動揺を顔に出さない様に、ぼくは努めて話を進めた。
「総帥の名前は宗『二』郎ですよね。氏が長男であれば、よほど意味が無い限りは『一』を付けるでしょう」
能力があっても女性ならば会社の頭に据えることをしない。
そういった古い風習を尊ぶ家柄ならば、考えられないことは無いだろう。
「つまり現総帥の宗二郎氏には長兄が居て、かつ三ツ橋一士はその孫ということになるわけですね」
「そうだね。そして、総帥は彼を可愛がっている。実の孫を差し置いて」
「何か後ろめたいことでもあるということですか?」
何かの罪滅ぼしとして。
長兄の孫を優遇する。
「総帥の兄は若くしてこの世を去った。徴兵されて戦死したわけでは無いよ、ということだけは言っておこう」
それはほとんど真相だろうと思うのだけれど。
彼女が言及を避けたということは、その長兄が亡くなった件に関して、警察では他殺として扱われていないということだろう。
後部座席では背中が疼くように、居ても立っても居られない彼女が、興奮によって小刻みに揺れ始めている。
楽しみで仕方が無いといった様子だ。
「与名さん」
「なんだい名無君」
「殺人が起こったとしましょう。ただそれが、謎も何もないただの事件だった時はどうするんです?」
まるで冷や水を浴びせられたみたいに、彼女は身震いをしてから、固まった。
事件が起こるかどうかはともかく、事件が起こったらばそれは絶対に謎があるものだと思い込んでいる節が、彼女にはある。
今回もそうで与名さんは何を馬鹿なと笑いながら「陸の孤島。老齢の大金持ち。絡まり合う利害。どろどろの家族関係。ここまで出揃っていて殺しの際に、謎の一つも無いわけないだろう」と、二次元脳丸出しの意見をのたまった。
もっと現実を見て下さい。
とは、彼女を落ち込ませるので言えなかった。
少し機嫌を損ねた様子で、彼女は省エネの為に、タブレットのディスプレイを真っ暗に落としてから、その本体にイヤホンを差し込む。
漏れ出る音は倒叙形式で犯人を明らかにする探偵のテーマ曲。
「着いたら起こすように」
そうして目を瞑り、黙り込む。
そっぽを向く彼女は、まるで拗ねた子供の様。
エンジン音で起こさないよう、アクセルをほんの少しだけ緩めて車を走らせることにした。
二人きりで静かに過ごすこの空間。
人に運転をさせておいて、盛大に寝て過ごす彼女をバックミラーで見、頬が緩むのを感じる。
やはりぼくは彼女が好きなんだな、とそう思った。