Morpheus
陽光が頬にあたっててじわりと温かい。ふかふかとしたベッドは居心地がよく、昨日寝苦しさのために開けたカーテンからは早朝の涼しい風が入ってくる。いつまでも寝転がっていたいが、ベッドサイドのテーブルにおかれたやかましい目覚まし時計のアラームはそれを許してくれない。横を向くと妻もまだ寝ている。
スウランブルエッグと温めたトーストを皿に乗せ、マグカップに牛乳を入れると妻が起きてきた。
「昨晩もとてもうなされていたわ。こう毎日じゃ私の気が狂ってしまうわ。ろくに寝られやしない。カウンセリングでも受けてきたら?」
「嫌だね。カウンセリング? 時代遅れも甚だしい。そもそも夢の中で見る夢について我々はまだ大した知識を持ち合わせてはいないんだ。この記事を見てみろ。何も分かっていないし、分かるためには被験者の人権を無視するしかない」
私が差し出した朝刊には夢の中の夢を探るために夢で行った非倫理的な実験の責任者に対する糾弾が一面にあった。
「夢の中の夢解析による高度な神経系侵襲により人格を保てなくなった被験者の家族がモルフェウス社に対して謝罪要求を行った件で、高等裁判所の第二審では科学の進歩に犠牲はつきものであるが、今回の事件は前例から副次的結果としての人格崩壊は予測しうるものであり、また被験者に十分な事前説明と同意が得られていなかった点からもモルフェウス社に対する責任は重大であるとの判断。今後の神経科学の進歩に大きな障害となるとの批判の一方、被害者たちは勝訴に沸いている。モルフェウス社は控訴についてコメントをしていない、か」
「ま、いまどき夢の中の夢カウンセリングなんて文句を垂れているのは眉唾ものの詐欺商売師か独自の理論を展開したりアブナイ実験に加担して学会に認められない異端児ばかりだろう」
私は牛乳を一気に飲み干した。
職場へと出かけるために職場をイメージした。すると一瞬曖昧なイメージによって辺りがぼやけたが、気が付くと私はオフィスの入り口にいた。
「こんにちは さん。今日もお早いですね」
同僚の がいつも通り挨拶をしてくれた。
「おはよう 。お偉いさんとのカンファレンス前に計画の進捗状況をみたくてね」
「我が社始まって以来の大きなプロジェクトですからね」
デスクにあった書類にはプロジェクトに進捗状況が書いてあったが、どうも私の読めない言語で誰かが書いたようだった。仕方がないので紙媒体ではなく、コンピューターから原稿を読みだすことにした。しかしどういうわけか、それも私には読めない。
「 さん?」
となりのデスクで仕事をしている男に声をかけた。
「この言語を翻訳するソフトってないか?」
「えっ? 翻訳? 母国語の他の何語で読みたいって言うんですか?」
どうも調子がおかしい私は上司に体調不良の旨を伝えて病院に行くことにした。待ち時間の間どこでもない場所で―イメージの共有はさして疲れることではないが、目にしない外界についてはいちいちイメージしないほうが楽である―ゆっくりと朝刊を読んだ。サイエンス欄にはモルフェウス社の事件のせいで現代神経科学の解説ばかりである。
「夢の世界で生きることで我々は事実上数倍の寿命と無限の創造性を手に入れた。しかしながらそれは完全には扱いきれない技術なのかもしれない。どういうわけか、人ひとりのすべてのニューロンによるすべてのシナプスネットワークの物理的な構造を得たとしても、いまだに意識の生まれる仕組みが分かっていないからだ。ある高名な学者は『そもそも我々に意識は存在せず、単にそれは自分が石ころとは違う存在なのだという人間のエゴが生んだ虚像なのだ』と言い切っている。しかしそれらの謎にも関わらず、我々は物理的な仕組みを利用することで意識の一部を共有し夢社会の創造を可能にした。これは現実時間で僅か十年前のことであるが、我々はもうこの社会で複雑な仕組みを築いている。寿命の延長は脳の処理速度を上げることで主観時間をより延長しようという方向性で語られてきた。しかし夢社会の初期より問題となっていた夢の中での夢を新たなトランセンデンスと捉えている学派も存在する。彼らのパトロンになっているのが言わずとしれたモルフェウス社だ。夢の中において我々はどうして眠る必要があるのか、また夢の中の夢についてもさらなる研究によって共有が可能になるのか。その時我々はどうなるのか。我々は何も分からない」
ここまで記事を読んだところで、声が聞こえた。病院につないでいた意識の一部が聞き取ったのだろう。
「 さん、診察の順番ですよ」
「はい」
診察室は簡素な造りだったが、これは診察される患者の脳負荷に考慮してのことだろう。
「今日はどういったことで来られましたか?」
「最近いくつかの場面で言語が理解できないことがありまして、困っているのです」
「ふむふむ。時間の流れをゆっくりにするために我々の脳はかなりの処理速度を必要とします。そのため、一時的に脳の機能の一部がダウンしてしまうことはないことではありません。現実世界のスピードに近づけることで、応急処置にはなります、しかし不可逆的ダメージがどの程度であるのかはここでは分かりません。一度現実世界に下りて行って精密検査をする必要があります」
「そうですか……」
「お時間はありますか? 何しろこっちの時間で考えるとまる一日以上かかってしまう可能性がありますから」
「ええ、本当にこれでは仕事にならないものですから」
「そうですか、わかりました」
瞼に貼られていたテープをはがされた。打ちっぱなしコンクリートの狭く飾り気のない室内は湿っぽく、黴臭い臭いがした。辺りを見回したいが、体は拘束具につながれてピクリとも動かない。いや、ピクリとも動かないということは拘束具は予備のためのものでひょっとしたら筋弛緩薬でも入れられているのかもしれない。眼球すら同じ点を見つめるだけで、口からは管が出て固定されている。見ることができないので分からないが、同じテンポで送気音を出し続ける横にある機械は人工呼吸機だろうか。
目の前には男が座っている。パイプ椅子にどかっと座りこんで、葉巻をくゆらせていたが、逆光のため顔は確認できない。彼の背後には数人の大きな体躯の兵士―立ち方からしてそうであろう―が不動で此方を見つめている。
「気分はどうかね」
男は煙を吐きかけながら私に尋ねた。最悪だ、と言おうとしたが声は出せなかった。
「君がここに来てもう何日にもなる。私は君を開放したいんだよ。わかってくれるかな。外の連中、君らの仲間だが、あいつらが君に一体何をしてくれた? 何を!」
そう言うと突然激昂して男は立ち上がると私の胸倉をつかんだ。
「危険です、大佐」
後に控えていた男のうちの一人が彼をなだめる。大佐と呼ばれた男はゆっくりと椅子に戻っていった。
「非常に骨の折れる作業だ。諜報部の連中はまるで役に立たない。私は君に頼るほかないんだ。わかるか。そのくせ君は自分の名前すら思い出そうとしない……」
葉巻の煙を長くゆっくりと吐き出すと、彼は立ち上がって鉄格子の外へ出ていくと、軍人たちと廊下の先で何やら話し込みはじめたようだが私には内容が聞き取れなかった。これは現実世界なのか? あるいは何らかのミスで他人が見るはずの夢を……
やがて白衣の男たちがやってくると、私の左手首にさしてある静脈ラインから何か薬を入れた。私は意識を集中しようと思ったがまるで駄目だった。
気が付くと私は怪しげな道具が壁一面に並んだ部屋にいた。体には拘束具を何もつけられていないのに動くことはできない。眼球の運動だけが許されているようだ。恐らくこれは通常私が暮らす夢社会ではない。先ほどの白衣の者たちが準備した仮想世界で、全ての物理法則は彼らに従っているのだろう。音もなく鉄の串がこちらに向かって宙を滑ってくると、私の腕が勝手に水平まで持ち上がり、人差し指の隙間にゆっくりと入って行った。真っ白い激痛が訪れた。何のために誰がどうして、と疑問は尽きることが無かった。鉄の串は全ての指先を貫き、体中の腱という腱が刃こぼれをした刀でゆっくりと繊維を一本ずつ引きちぎった。ゆっくりと体が宙を浮いて、背骨にはギシギシを負荷がかかったかと思うと、あらぬ方向へ曲がりだしたが、脊髄神経はどういうわけか激痛を伝え続けた。
時間の間隔がなくなった。何時間か、何日か、何か月か、主観時間が分からない上に現実世界から何倍加速されているかも分からない。結局のところ一秒にも満たないあいだかもしれないし、もうどうでもよかった。
ふかふかのベッドが気持ち良い。カーテンが頬をなでる。我が家だ。妻が声をかけた。目を空けると涙ぐんだ妻がいる。
「私が分かる? 私よ」
「ああ」
話によれば私は軍用の拷問セットの中に誤って入れられたそうである。とんでもない話だが、現実世界で夢管理を行う者の人為的ミスだったそうだ。責任は夢管理を行うモルフェウス社がとり、多額の慰謝料が私に舞い込んだ。とはいえ私はあの一件以降疲れ切ってしまって何もする気にはならない。これは時間が解決してくれるだろうか。医者は精神的ショックによるもので安全な環境でゆっくりと暮らしていけばそのうち治るだろうと無責任なことを言っていたが、どうだろうか。相変わらず、読めないことが問題となった計画についてのレポートは読むことができないし、一部の人の名前は思い出すことができない。
ある朝私が朝刊を取りに行くと、現実世界で政権が変わったことを示す記事が書かれていた。モルフェウス社と癒着していた前政権は非人道的実験について黙認しつつ事実を隠ぺいしていたが、対抗勢力である夢限会が事実を入手し世界に公表したのだそうだ。ゲリラ的作戦が奏功したと書いてあり、この作戦のかなめとなった人物は という名でモルフェウス社に幽閉されていたが、今は夢限会によって保護され脳の損傷を治療中だという。夢限会の幹部は「彼は我々の作戦のために作戦に関する記憶を消去したのです。そのため彼の脳には大きなダメージがある。しかし我々は我々の英雄が我々についてあきらめなかったように、我々も彼のことをあきらめないだろう」と話した。
現実でどうなろうとたいした問題ではない。私は家に入ってコーヒーをすすった。