戒め
先程まで続いていた賑やかな笑い声は蒼い闇に吸い込まれ、辺りには羊たちの首に付けられた鐘の軽い音だけが忘れたように耳の届いてくる。
プラムは尻尾で地面を払いながら、主の膝から愛くるしく潤む黒い瞳で心配そうに見上げていたが、なにか気配を感じとったのか、主である少女の膝の上でに甘えてへこたれていた耳をぴくんと立てた。
夜の闇の中、一点をじっと見詰めていたが、耳をそばだてながら辺りの様子を探り始めると、確かな気配を感じ取ってなのか急に落ち着きを失くし見つめていた一点に向かって吠え始めた。
「どうしたのプラム?」
虚空を彷徨わせていた少女の瞳は、何時もと様子が違う吠え方をするプラムに気付き視線を動かした。
プラムは主の声にも反応せず闇に向い吠え続けている。
プラムにやや遅れて少年もただならぬ気配に気付き地面に耳を当てた。
「なにか来る。こっちに向かって。……一つ、二つ数が多い、地中を伝ってくる音が舞ってる」
少年がまだ遠くに感じる気配を探っているようだ。
既に眼も闇に慣れていて薄い月明かりもあるが、夜は昼間と比べることが愚かなほどに視界を遮られ肉眼での確認など出来やしないし、空気を伝う音は強さを増した風に流され、風上で火を囲んでいるふたりには届いて来ず、聴覚や嗅覚もあてにはならない。
この状態で闇の中でどんな危険が近付いているのか察知は難しかった。
「いったいなにが近付いているのですか? 覗き魔さん」
少女は不安げな表情を向けた。
「今の俺には分らない。でも大丈夫。いざとなれば俺がなんとかするさ」
地面に耳を当てながら少年が懸命に気配を探っている。
「一つは馬鉄が大地を蹴る音、複数、もう一つ……、魔物か? それとも魔獣か? 恐らく巨大ななにかだけど、……静かだ。まるで風のように、しかも速い。これは……追われてる、のか?」
得体の知れないものは、ぐんぐん加速し蹄鉄の音を引き離そうと速度を上げた様だと少年が最後に付け加えた。
少女は不安が勝りだし、プラムの首に回している片方の手を離し少年のシャツを摘んだ。
「大丈夫。君は羊たちと森に隠れていろ。普通の獣くらい魔除けの術でなんとか出来るだろ?」
少年が眼光炯炯を向けて言った。
「覗き魔さん? ……あなたまさかっ!?」
少女は心配そうに瞳を揺らして震える声を絞り出した。
「もうそこまで来ている早く行け、俺が囮になって引き付けておいてやる」
「ダメっ! 一人で囮になるなんて絶対にダメっ」
少女は自分から全てを奪った仇かも知れないドラゴンの循鱗を宿す少年に向って強い口調で言った。
「俺一人ならなんとかなる。俺は山羊飼いだ。伊達に辺境の土地を長年旅していた訳じゃない。だいじょ――! 不味い伏せろっっ」
――刹那。
地面から伝わる音は蹄鉄が地面を掻く音を残して消えた。
少年が声を荒げて言った。
「えっ!」
少女は悲鳴を上げる事すら出来ず急激に視界は夜空を向いた。
気が付けば少年に飛び掛かかられ地面に伏せさせられ少年が重なる様に覆い被さっていたと思えば、ふたりと羊たちの頭上を一陣の風が通り過ぎた。
山羊を含めた三十頭ほどの羊の群れごと視界の外から飛び越えた風が、近くの大地に触れた音が数回聞こえ、その先で停止した。
「なに……あれ? 化け物?」
少女は視線が夜空に向いていた際に月明かりに照らし出された謎の生物が飛び越えた姿を見てしまった。
少女が見た化け物を少年の眼も捉えたようだ。
「さぁな?」
月夜の中、月明かりを浴び輝く見事な毛並みをした巨大な狼の姿は、人間と関わりの深いどんな動物よりも大きかった。
その大きさは馬体が比較的大きい荷馬を軽く凌駕するほどの巨体が月夜の闇に浮かび上がっていた。
その化け物が薄暗い闇に光る琥珀色の鋭い視線を向けてこちらを見ている。
「っ……」
獣の視線に呼応するかの様に少年が首筋を手で押さえた。二人とも闇の中に輝く獣の琥珀色の眼光に縛られ動けない。
怯えたプラムも吠える事を止めていた。まるで全身に纏わり着くような圧倒的な恐怖に身体を縛らているようでまるで動くことが出来なかった。
左首筋の紋章が七色の光を放ち初め熱く痛い。
少年はその痛みで首筋の封印が、はっきり浮かび上がっているのだと感じた。
その光に、ただならぬ畏怖を感じてか巨大な狼も動かず身構え、その場で牙を剥き出しにしたまま動かずにいる。
「ド……ラゴン、魔法陣に囚われてるみたいです」
少年の首筋に現れた紋章を見て少女が呟いた。守られる様に抱きしめられた少女の眼に映るもの。
「これがドラゴンとその循鱗なの……?」
ドラゴンについては書物に残された記述から姿を想像していた。
「けど思ってたものより、なんと言えばいいのか綺麗……こんなに綺麗なものは見た事ないです」
「こんな時に綺麗か?」
――少年は動けない。動けば少女が狙われる。
「六芒の中に描かれた紋章は魔法陣の檻に囚われたドラゴンの姿は記述にあるものに似ていますけど、それほど禍々しい姿じゃないのですね」
「こんな時になにを呑気なことを言ってるんだ」
「大丈夫。……大丈夫、怖くない」
少女はしっかりとした強い口調で言った。
「どっちがだ?」
――少年は狼から眼を逸らせない。
視線を外せば殺れると本能と熱くなった首筋の循鱗が教えてくれる。
「ドラゴンもあの狼も、循鱗の光がとても温かい様な気がして……不思議だなのですけど。なんというかとっても穏やかな気持ちになってきます」
「一ついいか? 君はちょっぴりだけど魔術を使えた。ならそれを発動する源と魔法陣の仲立ちを出来る者なのだと思うんだ。きっと」
「覗き魔さん? 魔術の存在は知っていると言ってましたよね?」
「ああ、確かに言ったけど」
「どれくらい知っているのです? もしかして本当は使えるんじゃ――」
少年は先読みした言葉を少女の声に重さねた。会話をしている余裕はない。
「俺には使えない。知っていてもそれを扱える術を持ってないから。なにかが起きる動き出す。なんらかの力が働いているってこと、それはこの世に起こる出来事のすべてにおいての道理だ」
――嫌な汗が吹き出し頬を伝う。
「魔術も同じだと?」
「切り出した大きな石を運び出そうとする様で例えれば、人や馬が力の源、石とそれを繋ぐ縄は言わば仲立ち、そして石は陣、魔術の源までは分からないが、限られた人だけが持つなにか特別な意志か或いは、自然界が生む膨大な力を仲立ち出来る者、もしくは両方を出来るものが魔術師。魔法陣は力を呼び出すための指標じゃないかと俺は思うんだ」
巨大な狼と向き合ってから、それほどの時間は過ぎてないはずなのに膠着した時間がやたらに長く感じる。
「一つ頼みを聞いてくれるか?」
「わ、私になにをしろと言うんですかっ」
「俺に施された封印の魔法陣を解いて欲しい」
「ど、どうやって……解けば良いのですか?」
「魔除けの陣を解読したことくらいはあるよな?」
――封印が疼き始める。
「あります。一応……。このことは誰にも言わないでくださいね? 私と覗き魔さんとのふたりだけの秘密ですよ?」
「なら封印に使われた魔法陣を解析してくれ」
「き、急にそんなこと言われても出来ません。解析するには時間が無さ過ぎますし、私が魔法陣を解くには、解読に必要な資料や辞書も必要です。い、今の私には知識が足りません」
「君なら封印を解ける。気がする」
「こ、こんな時にど、どうして、そんな根拠の無いことを自信満々に言うんですかっ! 覗き魔さんはっ」
――何故か分かる。
「封印が疼く、こんなことは初めてだ。まるで解放して貰えることが分かってるみたいだ」
「む、無理ですっ。こんな複雑な陣は見たことがないです。六芒陣ですよ、これ……」
「そうなの? 俺は自分の身体に描かれた魔法陣を見たことが無いからなぁ? そもそも見えない場所にあるし」
「鏡。見たいなら鏡を使えばいいじゃないですか?」
「あっ! ……そ、そんなに都合よく鏡なんか持っている訳がないし、浮かび上がることなんて滅多にないんだからなっ」
「……あっ! 実は気付かなかったんですね」
――張りつめていた緊張感が緩んでいく、心地よい程度に。
どうやら物の怪を目の当たりにして体が強張る余り堅くなっていたようだ。
「いいから解読してみてくれ」
「も、もうやってますっ。……魔術は応用でしたよね?」
「そうだと聞いてるけど?」
「分りましたやってみます」
少女は少年の首に描かれた魔法陣の古めかしい文字を現代語に訳していく。
「あれ? 解かる。私……なんで解るんだろ? こんな魔法陣なんて見たこともないのに……なぜ解かっちゃうんだろ」
少女は解読できる自分に驚いているようだ。
「解るの? 案外簡単なの魔術ってさ」
「そんなこと無いです。こんなの解ける方が不思議なんです。それを解けている自分が一番びっくりしてます」
軽く伏せ身構えていた狼が巨大な身体を更に伏せ低い姿勢で構えた。
「来るぞ! 早くっ」
「も、ももも、もう少しです」
少年が少女を抱き起こしながら膝を立てた。
「解けました! でも、こんなことって……」
不意に少年に強く抱き竦められた少女の顔が急激に赤らみ始めた。
「で、でで、出来ませんっ! 私。……こんな破廉恥なこと出来るわけないです」
少女の顔が熟れた林檎の様に赤く染まりきっている。
「迷っている暇はない様だぞ?」
「わ、わわ、分かりました……。もうっ! し、仕方ないですね……。でもお願いがあります」
「なに?」
「め、眼を閉じてください」
「それは出来ない注文だ」
――眼を離す訳にはいかない。
――刮目しなければならない。
――対峙している眼前の“敵”
と。
「はぁ~。こ、ここ、光栄に思ってください、よねっ! あ、あの……。は、初めてなんですから私……、そ、そのキ、キキ、キス……」
少女は伏せた顔を真っ赤にして呟いた。
「なにが初めてだって?」
「そ、その……。キ、キキ、キス……です」
1オクターブほどトーンを上げた裏返った声で少女が答えた。
「そうなの?」
「もうっ! 知りませんっ。初めてなんだからもっと時と場所を選びたかったです……。はぁー」
少女が溜息を吐き小さくつぶやきながら、何時も持ち歩いている節くれた杖を振り魔除けの鐘を響かせた。
To Be Continued
ご拝読アリガタウ。
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