優しい約束
家々の壁をすり抜けている黄色い糸は、街灯の明かりなど関係なく暗がりでも色味を失わない。ゆっくりだけど僅かながら動いている。
【竹刀を持って、どこに向かっているんですか?】
先ほど一度自宅に戻って黒い竹刀袋を持ち、現在、マリナちゃんがいる方向とは逆に向かって黄色い糸を辿っている。
「お前、周りに何か変わったもの〝視える〟か?」
【変わったもの? えぇ……と、特に何もないですけど】
「そうか」
マリナちゃんにも、この女にも視えない糸――俺と女に結ばれている糸と同じなのかどうかわからない。それにこの黄色の糸は何と繋がれているのかわからないけど、これには何か意味があるのか。
【あなた、さっきからおかしいですよ? 下ばかり見ていますし。静かですけどいつものような静かな感じではなく、変に威圧感を持った感じがします】
「……そうだな」
女の言う通り。今の俺って奴は、癇癪起こしたガキのよう。必死に抑え込んでいるのが自分でわかる。それは、
――マリナちゃんの為……。
【無表情なのにものすごい形相のように見えますし、何だか怖いです、あなた】
怖い、か。たしかに俺は、マリナちゃんの為と考えながらも、ただこの暴発しそうな怒りをあいつにブチ撒けたいだけだろうと思う。
幽霊にお願いされて聞くなんて、俺自身、やろうとも思わない。
【竹刀片手に町を徘徊……。もしかしてあなた、夜な夜な小ずるい悪党を懲らしめる正義の闇討ちさんですか?】
「あい?」
唐突でアホな質問に、思わず間抜けな声を上げる。
「何だ、正義の闇討ちって? 闇討ちっていうのは、どう考えても悪党の戦法だろ? 正義とは真逆だろ」
【いえね、私、思うんですよ。小ずるい悪党って強面でいかにもって感じのお兄さんをたくさん引き連れているじゃないですか? でも普通に考えてみると、そんな強そうな人が大勢いる中に一人で行って、勝てるわけがないよねぇ、って】
「フィクションだ、フィクション。現実的にそんな簡単に物事が上手くいってたまるかよ」
【なるほど。お互い、口裏を合わせていたんですね】
「お前の頭はどうなってやがる? 言語変換機能でもついているのか?」
こいつはこんな時にどんな思考回路してやがるんだ? 初めにお前が、マリナちゃんからお願いされたっていうのに、まったくその意識の欠片さえないのはどうしてだよ。
ああ、もう無視するしかないな、無視。
【もしかして賄賂? 『これをあげるからやられてくれないかね、君たち?』、『いいよ』、という感じで】
「すげぇアッサリと承諾しやがるな、そいつらは。どれだけの金額を積めばそんな回答が返ってくるのか知りたいわ」
【私だったら、イチゴ一年分で手を打ちますね】
「食いモンに釣られるな、アホ」
ツッコミいれちまった。おもしろくねぇのに笑えてくるわ、もう……。
何だかこいつのペースに乗せられている気がする。怒りのテンションが一気に急降下。
項垂れるような俺――すると、黄色い糸が壁から離れて直線的になる。
街灯が等間隔で照らす道の先から、小刻みに左右にユラユラと揺れ動く人影。
灰色のジャージ姿にメガネ。あいつだ。
と前から来るあいつを見た瞬間、自分の目を疑いたくなり、ギリッと歯軋りするほど歯を噛み締めた。
黄色い糸の終着点は間違いなくあいつに向かっている。が、あいつ本人に結び付けられているわけじゃない。
【あの人、フラついた足取りなのに、〝子供を背負っていますね〟? 危ないです】
あいつが〝背負っている子供〟は〝ただの子供じゃない〟。
物悲しくて辛そうだけどどこか優しげ、あいつの〝背中にしがみついた男の子〟はそのような表情。
グッと竹刀が入った竹刀袋を持った左手に力が篭る。
黄色い糸――マリナちゃんと同じようにあの男の子の右手小指に結ばれていた。
「ねえ? お兄さん?」
躊躇なく俺はあいつに声を掛ける。怒りを抑え、努めて冷静に。
【え? あの人が今回やられる小ずるい悪党さんですか?】
うぅん……お前、ちょっと黙ってくれないかなぁ、頼むから。
「ひっく、うぃ……。ガキ、なんらぁ(何だ)……?」
呂律が回っていない。酔っ払ってやがる、こいつ。反省しているならまだしも、ひき逃げ起こしておいて酒を飲んでいるとか、いよいよもって救えない奴だ。
俺の怒りの沸騰が限界値を超えようと……、
【鳩みたいな顔していません、この人? どんな悪事を働いたんですか? あ、糞の後始末をしていないことですね。歩道橋の下とか、鳩の糞だらけですもんね】
……おい! まだその話を続けんのか? お前はどれだけ俺の怒りを挫けば気が済むんだ? それと目の前のあいつは人間だから、トイレの作法ぐらい知っているわ。
【観念してください、鳩顔の悪党さん。町を綺麗にしないあなたに、私たちは怒っています】
怒りの矢印がお前に向かっているわ、俺。
「あんらよぉか(何か用か)……? ひ、ひろをおびとめやらって(人を呼び止めやがって)」
変に顔色悪いあいつは、機嫌も明らかに悪くなっていっている。不安ながらも睨み付けながらジリジリと俺に一歩一歩近づいて来た。
「お兄さん、今日、ひき逃げ起こしたでしょ」
瞬間、あいつの足がピタリと止まる。
【え? あの人がひき逃げ犯なんですか? えぇぇぇぇっ!】
「は、はあ? おお、俺はそんな、そんなことしてねぇよっ……!」
動揺――急に素面になったな、お前。わかりやすいわ。
「僕、〝見たんだ〟。お兄さんが、山吹さんところの兄妹を撥ねるところを」
【あなた、見たんなら、何で警察に言わないんですか?】
嘘だからだよ。一々会話に入ってくるなよ。
「こ、このことは……」
「まだ警察には言ってないよ」
【だから何で言わないんですか?】
だから一々会話の最中に入ってくるな、お前。
「――……な、な……」
「なぜって? お兄さん? 僕のこと、見たことない? 僕は何度もお兄さんを見たことがあるよ。僕、お兄さんの近所に住んでいるから」
「そ、そうか。ひ、一人で俺のところに来たってことは、自首をしろと言いに来た、のか……?」
「そうだよ」
そんなモン、欠片ほど思ってねぇよ。
「み、見たときは、お前一人だったのか?」
「うん」
【あれ? あなた、私と一緒に帰ってきましたよね? その頃にはもう、夕方頃でしたよね?】
マリナちゃんが言っていた。『ちょっと遅くなったお兄ちゃんを待っていた』、と。
「そうか。近所の誰にも見られていないと思ったのに……」
小学生の下校時間と中学生の下校時間の間に起こった事故。小学生はもう家に帰っているだろうし、中学生はまだ学校。もちろん俺が帰れる時間帯であるはずがないけどな。
まあ普段から人通りの少ないあの道なら、目撃者はいない可能性の方が高いと思うだろう。
「だったら……」
ジリッと奴の脚幅が開き、少し腰が低くなる。
逃げる、か、俺の口を塞いだらいい、と単純に考えているな。
「だったら、お前が見てなかったことにすればいいだけだ」
選択は後者――あいつは昂然とした形相で襲い掛かって来た。
【わっ! あの人、襲い掛かってきましたよ!】
頭が悪い行動に、俺は竹刀袋から竹刀を素早く取り出して構えると、あいつの表情は面白いように目を見開いて驚愕に一変。
「がはっ!」
間合い詰めるように踏み込み、鳩尾に目掛けて一突きを与えた。
前のめりに悶え苦しみながら膝を付き、声も出ずに地面に蹲ると、微かに身体が震える。
その背中にしがみついていた男の子が奴から降り、その様子をただ見ていた。
「ごめんね、お兄さん。僕、剣道やっているんだ。続ける?」
続けてくれたらすごく嬉しいんだけど。
ゲホゲホっと咳き込む男は、荒い息を吸ったり吐いたりし、呼吸音が小さくなると、
「……よそ見をしていただけなんだ!」
あぁん? よそ見? 襲ってきたくせに、やられたらすぐ言い訳とかいい度胸してやがんなあ。
よし。これ以上、どんな言い訳を言っても無駄だと、そのことを教えてやろうじゃねぇか。
俺は竹刀を両手で持って構えを取ろうとした。
え? と俺は目を見張り、竹刀を持つ手、構えが自然と緩む。
男の子が俺の前に立って、両手を広げていたから……。
「あの子たちを撥ねたのは、俺がよそ見をしていた所為なんだ!」
竹刀を持つ力が完全に抜け、そういうことか、と思いながら一つため息。
俺に襲い掛かってきた言い訳で、『よそ見をしていた』、とかありえないな。
「あの後、家に帰っても落ち着かず、酒を飲んでも気が気でない。ずっとあの子たちの顔が目に焼きついて、不安で怖かったんだ! 俺が悪かった! 許してくれよ!」
男の子は、俺を見たまま首を縦に振る。この男のことはもう許している、と言っている気がした。
「僕にそんなことを言っても意味がないよ、お兄さん。警察に行って、ちゃんと罪を償うためのことをするべきなんだから」
「――……」
「これ以上は言わない。もちろん、警察にも言うつもりもない。お兄さんが犯した過ちは、お兄さん自身が責任を持つことだからね」
「……じ、自首をするよ……」
ごめんよ。ごめんよ。とすすり泣きながら男は、視えない目の前の男の子に何度も何度も謝っているように見え、
その様に、触れられないのに、一切の優しさを与えることができないのに、男の子は応えるように何度も何度も男の頭を撫でる仕草をしていた。
【おにいちゃん!】
マリナちゃんは、一目散に兄である男の子に飛びつく。
そのマリナちゃんの姿に、なぜかモモカの姿がダブった。血の繋がりはないけど、モモカは妹のような存在だからだろうか。
【お兄ちゃんと会えて良かったですねぇ、マリナちゃん】
【うん! ありがとう、おにいさん、おねえさん!】
【ありがとう、お兄さん、お姉さん】
満面の笑みでお礼を言うマリナちゃんとそのお兄ちゃんに、俺は安らいだ安堵の表情が綻びるのを感じる。と同時に、この子たちはもう生きていないんだ、という冷静で現実的なことにも。
「ところで、二人はこれからどうするの?」
死んで、幽霊になってしまったことに対して、これからどうするのか? という意味で訪ねる。
親のこととか他にも色々と未練があると思うが、それを言ってしまうとどうしよもない。ハッキリさせておかないと。
【あ、あなた、こんな小さな子たちにまで、成仏しろ、と言うじゃないでしょうね?】
「それが普通のことだからな」
この子たちには可哀想だとは思うけど、ここに縛られていてもそれはそれで可哀想にしか思えない。
マリナちゃんとそのお兄ちゃんは顔を見合わせると、お兄ちゃんの方が、
【ねえ、お兄さん? ボク、やりたいことがあるんだ】
「やりたい、こと?」
【うん。この道ね、けっこうボクたちのような子供や、大人の人もたまにあぶない目に遭うでしょ?】
見通しの悪い道なのに車や自転車とかも通るからな。
【だからね、この道で、ボクはここで、〝あぶないよって教えてあげたいんだ〟】
「え……」
男の子の言った言葉に、俺はそのあとの言葉を失った。
【ボクらを撥ねたお兄さんに、ボクは何度も罪を償ってと言ったんだ。確かに勇気が出ずにお酒に逃げて、最後はお兄さんにやられて、言われて決心がついた。でもね、あのお兄さん、とても悩んで苦しんでいた。それはね、とても見ていて辛かったんだ、ボク】
この子は自分と妹を車で撥ねて殺した相手であるあの男に対しても、そんなことをずっと思い、伝えていたのか。
【だからね、僕たちのような人が、あのお兄さんのような人が、この道でこれ以上増えないようにしたいんだ。ダメ、かなぁ?】
【いいですよ! 誰が何と言おうともいいですよ! ねえ、あな……た……?】
「え……? あ、あれ? な、涙……?」
女と目が合うと、頬を伝わる雫――俺は自分が泣いていることに気がついた。
【どうしたの? 変なこと、言っちゃった、僕?】
【なかないで、おにいさん。おにいさんがないちゃうと、なんだかあたしまで……】
「ああ、ごめん。何でもないんだよ。ごめんね」
と言って、俺は膝を折ってこの子たちと同じ目線で向き合い、
「そっかぁ。良いことだね、それは」
【ホント?】
「うん」
【あたしもする。マリナもおにいちゃんといっしょにおしえてあげる】
「マリナちゃんもやってくれるの? えらいね」
【えへへ】
お兄ちゃんは無垢な笑みを浮かべるマリナちゃんに優しく頭を撫でる。その姿はとても微笑ましい。このたちは本当に良い子たちだと思う。
「二人とも自己紹介が遅れてごめんね。僕の名前は湊レンヤ。えっと、お兄ちゃんの方は名前を何て言うのかな? 教えてもらってもいい?」
【山吹ケンシンだよ】
「ケンシンくんか。いい名前だね。それじゃあ、ケンシンくんにマリナちゃん?」
名前を呼ばれた二人は、うん? とした表情。
「これからここで、危ない人がいたら二人が教えてあげてね」
【うん! 約束するよ!】
【あたしもする!】
夜なのにパッと太陽のような明るい輝きを持った笑顔が眩しく、頬が自然と緩む。
「……ん? どうしたの?」
突然マリナちゃんが小指を立てて、
【マリナ、レンヤおにいさんとゆびきりでやくそくする】
【あ、ボクもするよ】
と差し出される二つの小さな右手の小指。
「う、うん……。しよう……ね……」
震える俺の小指――本当に良い子たちだ。
この子たちは俺と触れられずにする指きりなのに、とても嬉しそうに喜んで約束をしてくれる。
二人がもう、この世に生きて歳を取ることが出来ない存在だということに心の奥が痛み、それでも優しさに溢れた笑顔に涙を流さずにはいられなかった。