子供をお風呂に入れるのは大変
濡れた鞄、竹刀を玄関脇に置き、ポケットから携帯を取り出して電話をかける。
「レン? 誰かに電話?」
姉貴に、静かにしろ、という意味でギブスを巻いた左腕の人差し指を立て、唇を押さえる。数コールの後、電話が繋がった。
『もしもしぃ? レンちゃんどうしたのぉ?』
「母さん、姉貴が妊娠した」
『ええぇ~?』
「姉貴が妊娠した。姉貴に赤ちゃんが出来た」
『知ってるわよぉ。そのためにスーパーに行ったのよぉ。お赤飯に、鯛のお頭、お夕飯は豪勢にするわよぉ』
「……そうかい」
『うん。おめでたいわぁ』
「めでたいね」
『でねぇ、お母さん、今帰り道だからぁ、レンちゃんのご用は帰っ……』
母さんを無視して俺は電話を切る。
何をあんなに張りきっとんじゃぁ、あの親はぁっ!
と携帯を鞄に向かって投げ捨てた。
「レン? いきなり、何?」
「失敗しただけ」
「何を? まあ今はいいか。待っているんだぞ。今、タオルを……」
「姉貴? 訊きたくないけど早いほうがいいから今訊くね。そのお腹の赤ちゃん、誰の子?」
「え? んぅ……それは……」
姉貴は顔を赤らめる。でもその表情は、とても嬉しそうで幸せの真っ只中にいる笑顔。
わかってるんだからはよ言え、と思いつつ、投げ捨てた携帯を鞄の上から拾う。
「この子はねぇ……レン、の子供だよ……」
言っちゃったっ、みたいな姉貴の照れ様。自分で言っておいて頭が沸騰している。ブツブツと『レンの子供』と何度も呟いて。
予想通りでも腹が立つ。だけど俺は怒らない。怒る代わりにもう一度電話をかけるから。
『もしもし?』
「フェル? 今、電話大丈夫? 何かしてた?」
『風呂から上がったばっかり。特になにもしていないよ。どうしたの?』
「明日から部活の練習に参加しようと思うんだ」
『レンヤ、まだギブス取れてないじゃないか。何言ってんだよ』
「あかん? ええやん?」
『ええやんって、いやいや。そんな関西系のノリで言われてもダメに決まっているだろ。ちゃんと治してから』
「そうか。あ、ちょっとノリで思い出したことがあってさ」
『え?』
「姉貴が妊娠した」
『はあぁっ!?』
「姉貴に赤ちゃんが出来たの」
『ちょっ! レンヤ、何を……』
フェルを無視して電話を切る。ああ、すごく落ち着く。
あの慌てよう、さすがフェルだなぁ、予想通り。初めからフェルに電話するべきだった。
携帯が震える。フェルから電話がかかってきた。でも、無視。
「姉貴?」
「――……」
まだブツブツ言ってるよ、こいつ。
「おい? 姉貴? 姉貴? 話聞け、こらっ」
「ん? 何だい?」
「タオルはいい。お前はリビングにいろ」
「え、でも」
「その身体なんだ。ジッとしていろ」
「レン……気遣ってくれるんだな。さすがパパだよ。あっ……」
また姉貴は沸騰した。今度は『パパ』という単語を呟いて。
殴りたいな、こいつ。と思うけど俺は怒らない。
さて、次はモモカかなぁ、とフェルからかかってきている携帯を強制的に切って、モモカに電話をかけようとする。
――……。
やめておこう。ハプニングが大惨事になる予想しかつかない。ここはもう一回安定感のあるフェルだな。
切った電話がまたかかってくる。フェルだ。
「もしもし?」
『さっきのはどういうことだよっ!?』
「そのままの通りだけど?」
『いやいや。ちょっと待って、本当に……』
「赤ちゃん、俺の子供らしい」
『――……』
「フェル?」
『今からレンヤの家に行く』
「どうして?」
『どうしてもだぁ!』
そう吼えられえて電話を切られた。ああ、ある意味落ち着く。
「姉貴? 俺のことはいいからリビングでジッとしてろ。あと、お客さんが来ているからな、これ以上決してアホなことはするなよ?」
「パパかぁ。レンがパパ。うふふ」
聞いてんのか、こいつ?
「おい? 聞け?」
「ん? パパ、どうしたんだい?」
ツッコミはしねぇからな。
「お風呂入ってくる。リビングにいろ。」
「パパのあまーい言葉に甘えるよ。あ、またパパって。いやぁん」
いやぁん、じゃねぇよ。
「さっさとリビングに戻れ、アホウが」
「レンが照れ隠ししてる。照れ隠ししてる」
俺の中でウキウキしている姉貴の勘違い話を放置することを満場一致で可決。
「あと、お客さん来てるから。でも、何もしなくてもいいから」
「え? お客さん?」
「ケンシンくんとマリナちゃん」
「ああ、あの十字路の」
「そう。――ごめんだけど、ちょっとお風呂入ってくるから、リビングで待っててね」
黙って待っていてくれたケンシンくんとマリナちゃんに、すまない気持ちで言う。
「あ、はい。でも、こんなときなのに、いいんですか?」
「いいの、いいの」
いいんだよ、ケンシンくん。俺はもう十分に落ち着いたから。
他人が冷静じゃないとき、当人って逆に冷静になれるものなんだ。
まあまあお前落ち着けよ? という風に。
母さんは途中でツッコミが出そうになったから失敗だったが、フェルは成功。フェル、ありがとう。最後の家に来る発言は予想外だったけど。
あ、あれは俺の所為か。まあ、どうでもいいや。
「お構いの一つもできない姉貴と一緒だけど、すぐ戻ってくるから」
「あなたのパパは素直じゃないでしゅねぇ」
姉貴が膨らんだお腹に向かって話しかけている。
制服のズボン裾を折り返して、靴と靴下を脱ぐ。あとはさっさと風呂場まで直行。
湯船に浸かると、冷えた身体が癒されるように温まっていく。
あー、出たくねぇ。風呂から上がるとアホな姉貴に小学生で習う保健体育の授業をしてやらないといけないと思うと。あー、出たくない。
だけど、マリナちゃんのこともあるしなぁ。この話はしたい。気になる。
というか、ケンシンくんは気づいていないのかな? 四六時中一緒にいるんだから気づくよなぁ、普通。
なのに、ケンシンくんは至っていつも通り。それがよくわからないことだ。
まあ、考えるのは話を聞いてからにし……、
「やめっ。ちょっと、やめてっ」
脱衣所から声――誰だ? 覗き魔か? 女の人がいるときに来るもんだぞ?
「濡れてるんだからぁ、ダメよぉ。風邪引いちゃうわぁ」
帰って来たんかい、母さん。でも、知らない声もあったな。
「やめっ……」
「それぇー」
「わぁっ」
ん?
風呂場のドアが開くと、誰か入ってきて、ドアは強制的に閉められる。
黒色のような濃い紺色の髪は短いポニーテールかちょんまげのどっちか。ケンシンくんと同じぐらいの身長で、雪のように真っ白で柔らかそうな肌つきしている。
子供――小さな子供が浴室に入ってきた。ああ、{ピー}がねぇ。女の子だ。
瞬きしない目の中の綺麗な黒い瞳。口をパクパクさせ、声を出したいのだろう。叫びたいのだろう。でも、驚いた表情は可愛らしい顔が台無し。
「い、いいい、いや……」
「叫ぶなら浴室から出て遠くでしてください。うるさいので」
そう言ってやると、女の子はキッとしたように身構える面構えになる。
叫ばなかったな、えらいえらい。
「あ、あな、あなた、何故……ここに?」
「ボク、この家の子供ですけど、何か?」
「ッ……。そ、そう」
「うん」
何ですか、お前? 俺を睨んで。こわっ。
「――……じゃ、邪魔し、くしゅんっ!」
じゃじゃましくしゅん? 日本語で頼む。いや、違うな。あれはクシャミだな。
濡れてるって母さんが言っていたしなぁ。風邪引いちまうぞ、お前?
俺は湯船から出る。女の子は両手で顔を隠した。
すまん。前が丸見えだ。
女の子に変なトラウマを与えてはいけないと思い、タオルで前を隠す。もう、遅いかもしれないけど。
「ほら、座りなさい」
風呂イスに座るように言うけど、女の子はブンブンと首を横に振るばかり。
「いいから座りなさい。風邪引く」
強引に身体を掴んで女の子を風呂イスに座らせる。
「ゆっくりお湯かけるぞ」
了解を得ずに俺は女の子の背中からお湯を浴びせた。
「熱い?」
返事は首を横に振るだけ。まあ、声出ないわなぁ。見ず知らずの野郎と一緒に風呂入ってんだから。
もうトラウマになっているかもしれないけど、あのままにして、風邪でも引いて寝込まれたら洒落にならないので文句は一切受け付けないと決める。
風呂に入る前は身体を綺麗にしないと、な。
――こいつの髪、ちょっと痛んでなぁ。姉貴のシャンプー、使っちゃえ。
――次は身体。姉貴のボディソープ、使っちまえー。
姉貴にはさっき、アホなことで頭使わされたからな。フェルも無駄にテンパらされて。怒られないかもしれないけど、もしも無断で使ったことを怒られても、文句は聞かない。
「さ、湯船に入っていいよ」
でも、女の子は首を横に振るだけだった。まだ恥ずかしいのかよ?
「難儀な奴だなぁ」
俺は後ろから女の子の両脇を持ち上げる。抱きかかえるわけじゃないから、けっこう重い。
暴れもせず、身動き一つしない女の子を湯船に入れ、俺はその後ろに入る。
浸かると女の子が俺にもたれるような形。
「はあぁー、生き返る」
何でこんな重労働せにゃならんのだ、俺? 子供をお風呂に入れるのって大変だわ。ていうかこの子、どこの子?
「なあ? キミ?」
「こんな辱めを受けたのは初めてだわ」
ああ、やっぱりトラウマになった?
「それについてはごめんなさい。でも、あのままだとキミ、風邪を引いちゃう。それだとダメだと思ったから。殴りたいなら、お風呂から上がってからにしてね」
殴るだけなら殴られてあげる。それ以外のことをしたらやり返すけど。
「屈辱」
「罵声もあとからにして。でもその前に教えて。キミ、どちら様ですか?」
もう一度訪ねたら、女の子はこっちに反転した。
こらこら暴れなよ、お前。
「……わ、私のこと、おお、憶えてない、の……?」
「知りません」
女の子は声なくとても、とってーも落ち込んだ。
知らないとマズイの?




