成仏して
勉強机の椅子に腰掛けて十分ほどの間に頭の整理と女の観察。それについて考えを纏めながら休憩した後、再度訪ねる。
懇切丁寧に訊くのがアホらしくなったから今度は率直に。
「色々と訊きたいからもう一度質問をする。で、まず率直に。お前、何者だ?」
沈黙して首を左右に傾げる女。そうかアホだったな、と思い出して、
「おい? もう喋っていいぞ」
と喋ることを許す。
【え? いいんですか?】
「『いいんですか』、と訊いていること自体が喋っているじゃねぇか」
【あ、そうでしたね。すみません。喋っていました】
はにかんだように笑う女。天然かこいつ?
「まあいい。でも、先ほどのような一人で突っ走るのはなしだ。いいか?」
【あ、はい】
「じゃあ、続きでいくつか質問する。お前、もしかして記憶がないのか?」
【えーっと……ないです】
「どこまでの記憶ならある?」
【う~ん、目が覚めたところから、ですね】
「そうか。じゃあ、聞く意味はないと思うが一応聞く。何で宙に浮いているかわかるか?」
女は怪訝な表情をしながら少し前かがみで俺の方をジロジロと見る。
「違う。お前だ、お前。お前が浮いているんだよ」
【え? ああ、私?】
女は下を向き、正座している足の下に手を伸ばす。空気を切る手の素振りが、完全に浮いていると確認できた。
【えっと、わかりません】
「次。自分の身体がどうやって壁からすり抜けたかわかるか?」
【ん? そんなことしましたか、私?】
「これは覚えてねぇか。実際にやってみろ。本当かどうか、俺ももう一度確かめたいからな」
女は後ろに振り向き、恐る恐る壁に向かって手を差し伸ばす。触れる寸前の指が壁と溶け合うように通っていく。
【私、すり抜けています! キャー! おもしろーい! すごいです、私!】
壁がすり抜けるのがそんなに面白いのか、手を交互に壁に通したり、掻き回したりしてキャッキャとはしゃぎ始める。が、
【あっ……!】
バッと何かに気付いてこちらに振り返る。
「そう怯えるな。先ほどのとは違うから怒らないよ」
先ほど怒った理由は、俺と話をする態度を示した癖に勝手に一人で騒ぎ始めたからだ。
「よし、次。三つだけ質問をするから、落ち着いてちゃんと答えろ。いいな?」
ホッと一安心の安堵の表情で胸を撫で下ろす女は頷く。
「どうしてお前には〝影〟が無い?」
こいつが浮いている原理はさっぱりわからないが、どうしてこいつの下に影がない。
女は下を見る。自分の周りを覗き込む。で、落ち着きながら答えた。
【それは、わかりません】
「わかった。次。先ほど、俺の家族がこの部屋に入って来た。だけど、〝お前の姿が見えていないような感じだった〟。それはどうしてだかわかるか?」
家族の女共はこの女、こいつが目の前で壁から飛び出しているのが見えていなかった。ヘッドスライディングか水泳の飛び込みか、あれだけインパクトのある光景、見逃すわけがない。
【えっと……それも、わかりません】
うんうん。予想通り。おおよその見当がついた。
「最後の質問。この俺とお前の指に結ばれたこの赤い糸。これが何だかわかるか?」
この小指に結ばれた糸――この女の左手小指にも結ばれている。これだけは何なのかさっぱり見当がつかない。これは何を意味するのか。まあ短時間ではあったけど、こいつのことだからわからないだろうな。
【え? そんなもの、結ばれていませんよ?】
「はあ? 結ばれているだろ? お前の左手小指に赤い糸が?」
わからないじゃなくて、もしかして〝視えない〟のか? と思う通り、左手をかざして広げてマジマジと見る女は、ただ首を傾げるだけ。
【私にはわかりませんけど、あなたと私には赤い糸が結ばれている、と……。〝運命の赤い糸〟ってやつじゃないですか、それって】
「笑えない冗談?」
【いえ、大マジメですよ。ほら、昔からよく言うじゃないですか? 赤い糸で結ばれた男女は、結婚する運命にあるって。ということは、うわぁー! 私とあなた、結婚するんですね?】
「知らん。訊くな。俺が知りたいことじゃない」
【え? あ、えっとその、じゃあ、何が知りたいですか……?】
「俺が言った〝赤い糸〟のことだよ。何で忘れるんだ? 鳥でも最低二歩までは覚えているぞ?」
【え、あ、すみません】
俺の目から視線を背けて怯え振るえ、萎縮して頭を下げる女。
話をややこしくするプロか、こいつ。これだからこの〝類〟は嫌いなんだ。
眉間にシワ寄せてこめかみを掻きながら、それでも話を進めないといけないから俺は気持ちを抑える。
【でも、すごいです。私に〝運命の赤い糸〟が結ばれているなんて。私とあなたは〝運命の人〟。何か甘い言葉ですねぇ】
〝運命の赤い糸〟――〝決して切れることがない運命の赤い糸で、小指と小指が繋がれた男女は結ばれる運命にある〟という代物。
こいつが〝どういう存在〟か、ということと一緒でさっぱり笑えない。もしそうであるなら、これは理不尽だな。目の前の〝類〟が俺の〝運命の人〟とか。
「なあ、どうして、いや、お前は視えないからあれだけど、これが〝運命の赤い糸〟だと言えるんだ?」
笑えないから投げやり感丸出しで訪ねる。
【えっと、なんとなく……】
「あん? なんとなくだぁ?」
【あ、いえ……違いま、いえ、違わないです。あれ? 何を言ってんだろ、私。でででも、〝運命の赤い糸〟って伝説あるじゃないですか? 赤い糸で結ばれているから、やっぱり〝運命の赤い糸〟なんですよ】
「――……」
答えになってない。けど……。
【あれ? アバウトな感じでしたね。すみま……】
「いや、謝らなくていい」
再び萎縮して頭を下げようとする女を遮る。
「謝ることをしていない。だから、お前は謝らなくていい」
お前は全く知らないんだから。
【でも……】
「いいか。お前は謝ることをしていない。それにお前、〝幽霊〟だろ? その類だったら、そういった不思議なことがよりわかるかもしれない」
だからと言ってこの糸が〝運命の赤い糸〟だと言うのは信じられないし、信じたくない。あくまで可能性の一種として、〝運命の赤い糸暫定〟ってところだな。
【そうですか? ……って! えぇぇぇぇっ!】
仰々しいまでに驚き声を上げる女。うるさい、何をそんなに驚いていやがる。
【わ、私、〝幽霊〟なんですか!】
ああ、それか。ハハ、これはちょっと笑えた。こいつ……、
「今更、何? 影が無くて、壁をすり抜けて、普通の人間には視えない。人間の姿をしていてもこれで生身の人間ですって誰が言える? 頭を使って考えろよ?」
【あ、確かにそうですね……。――………………】
納得する素振りの後、ジッと俺を不思議そうに見つめてきた。
「何か言いたいなら言え。俺を見ていても、俺はわからない」
【あ、いえ。あの、その、ですね。じゃあ一つだけ……。どうしてあなたは〝私が視える〟んですか?】
「昔から俺は、〝視える〟異常な人間らしい」
【〝視える〟、異常な人間ですか?】
「そう。幽霊とか物の怪とかお前のような存在の類をね」
へぇー、と頷いている。何だか凄い人だ、と変な勘違でもしているのか?
お前のような類にこのことを話すと感心するとか初めて知ったわ。
「まあ、そういうこと。で、お前に俺から一つ提案したい」
【あ、はい。何ですか?】
「成仏して」
【……え?】
驚くな、驚くな。大口開けてアホ面丸出しだぞ。それに幽霊っていうのは、大概驚かすことが専門みたいなものだろ? 驚かれる方のお前が俺に驚かされてどうする。
【ど、どうしてですか?】
どうして? 訊かれても俺は当たり前のことしか言っていない。説明しないとわからないのかと思うと、面倒な奴だ。
だからキッパリと、
「俺、幽霊って嫌いなの」
【え? き、嫌い、ですか……?】
「そう」
【えっと、そのですね。私、一応あなたの運命の人になるんですけど……? 私は視えませんけど、〝運命の赤い糸〟で結ばれているから】
「そっちの嫌いじゃない。幽霊の類の方だ。ハッキリ言っただろ」
【あっ。幽霊が、お嫌い?】
「そう。だから、今すぐ成仏して俺の目の前から消えてくれ」
率直に述べたところ、女は目に涙を溜めて今にも泣き出しそう。何で?
「何で泣きそうなのかわからないけど、泣きたいなら飽きるまで泣いてもいいよ。で、そのあとちゃんと成仏してくれよ? 仕方がわからないなら、御祓い師のところに行ってくれ」
女にトドメが入ったようで、大粒の涙を零した。
【うぅっ! ど、どうしてそういうこと言うんですかっ! 私だって生きているのに! そんなあからさまに嫌わなくてもいいじゃないですかっ!】
「生きてないだろ、お前。死んでいるから幽霊になっているんだろ」
【そ、それはそうですけど……。私だって、好きであなたの〝運命の人〟として幽霊になっているわけじゃないもん!】
「だから成仏して。成仏してどこに行くかは知らないけど、死んだらちゃんと成仏しろ」
【あなたに今の私の存在を否定しないでください!】
「いや、死んでこの世にのさばるな。迷惑だろ」
俺のような奴に。特に、俺に。
【理不尽です! あなたなんかに、勝手に決めつけられる覚えはないです!】
幽霊=こいつの存在否定。をしているから理不尽ではあると思うけど、俺は全うな道理、当たり前のことを当たり前に言っているだけ。
〝幽霊〟――生前の強烈な思いでこの世に留まるケースがあるという。それが恨みであったり悲しみであったりという未練というものの形は様々。
でも俺としては、そういうのは俺とは無関係のところでやれ、と思う。
率直に述べると反発して返ってくるから、今度は一から十まで俺の言い分を説明してやろう。
「あのな。お前、生前は生身の人間として生きていたんだろ?」
【……覚えていませんけど、そうですね】
「じゃあ、ちょっと頭を柔らかくして考えてみようか。例えば自分の生前、生きているときに幽霊が自分の目の前に現れたらどう思う?」
【生きている時ですか? えっと……怖いですね。失神しちゃうと思います】
「ああ、そうだな。恐怖を感じるな。訳もわからず現れたら、お前なら失禁するな」
【失禁……! 私、そこまでしませんよ! 女の子に何言っているんですか!】
「ちびること。でも、そんなことはどうでもいい」
女は恥らう乙女のように顔を真っ赤にしてぶつくさと文句を呟いていた。けど気にせず話を続ける。
「で、その幽霊が自分にとり憑いたら、お前はどう思う? ずっと傍にいる状況を、さ」
【……もう夜も眠れないと思います。恐怖とか、ストレスが溜まっちゃって気が狂っちゃいますよ、私】
「へー。だったらそんな存在がずっと傍にいると、それはもう迷惑だよな?」
【はい。迷惑極まりないです。消えてほしいですね、そんな幽霊】
「うん、そうだな。……お前な、今、俺に一緒のことをやろうとしているんだ」
【え……?】
「え? じゃない。お前はさっき、突然俺の目の前に現れて、〝運命の赤い糸〟で結ばれているという確証のないことで俺にとり憑いてんの」
目を大きく見開けて女の顔が徐々に蒼白になっていく。
【私……迷惑を掛けているんだ……】
光彩が消えた瞳から察するに、どことなく不安定な表情が読めるということは、俺の言っていることが理解できたということだと判別して良さそう。
ここはもう一押しだな。
「俺が幽霊の類が嫌いな理由を教えてやる」
女は落ち込んだ表情で僅かに目線がこちらに動く。
「あいつらは何も考えていないから」
【……何も、ですか?】
「テレビとかで怪談話とかがある。全部とは言わないけど、あれって殆ど生きている人間が被害者。まあ幽霊は何か伝えたいことがあるのだろう、だから現れた。それはわかる。けど」
俺はそこで一旦言葉を区切り、
「伝えたいことがあるなら伝わるように伝えろ。現れるだけでわかるか。現れるなら挨拶などの礼儀作法を弁えろ。元々人間だったのなら尚のことそれをやれ。無駄に恐怖を与えるな。他人に迷惑をかけるなと教えて貰わなかったのか。親から何を教わった。死んで幽霊になっても意思があるならそこを考えろ。と俺は言いたい。わかるか?」
一気に捲し立てるように言い切って訪ねる。
【ええ、は、はい。えっと、元々が生きていた人である以上、人の道理に反するようなことをするな、と言うことですよね?】
「そうだな。まあ守らない奴も生きている人間にもいる。幽霊の中には生前、理不尽を受けた奴もいるだろうが、幽霊になって同じことを他人にしていいことはない」
【は、はあ……。でも私、あなたとこうしてちゃんとお話していますよ? 道理的に守っていますから、嫌いだから一方的に成仏しろ、はないんじゃないですか?】
「俺の一つの意見だが、死んでこの世からいなくなったのであれば、些細なしがらみを持たなくて済む。俺なら成仏したほうが楽だ、って考える」
【それはそうですけどー。幽霊の全部が全部、あなたと同じようにできませんよー】
「だから提案しているんだ。お前も俺の言っていることが理解できただろ? なら、成仏できるだろ?」
お前は特に何かを伝えたいとかないわけだし。恨みとかそういうのがあるなら、普通覚えているはず。忘れるようなことなら、大したモンじゃない。
成仏してくれれば、このわからない〝赤い糸〟も多分消えるだろうさ。
【まあ、ええ、そうですね。あなたのこと好きでもないですし……。どちらかと言うと理屈っぽそうなところが生理的に受け付けなさそうですし、初対面なのに色々言われましたから腹が立ちましたねぇ……そう考えると、嫌いですねぇ……】
「そうだろ」
【ふぇ? え? もしかして全部聴こえていました?】
あれだけハッキリ話していれば聴こえるわ。
【す、すみません!】
「何で謝るの?」
【え? だって私、酷いことを言いましたし……】
「どれ? 全部当たっているから、どれが酷いことなんだ?」
【――……】
訪ねたのにボケッとこちらを見ているだけ。いや、早く答えろよ?
【あなた、不思議な人ですね?】
不思議な存在のお前に言われてもねぇ。
「まあ、異常だからじゃないか?」
答えるのも面倒な質問なので適当に答えた。
【異常だと、そういう風に思うんですか?】
「普通の人間が視えないモノが視えるから、まあそうなるんじゃないか?」
【へー。あなたも大変なんですねぇ】
俺自身の異常によって〝視えるモノ〟――その該当する物体にしみじみと共感されても困るなぁ。
【あのー、そういうの、辛くないですか?】
「ん? 別に」
【えぇぇ……。凄いですね? 強い人です、あなた。そういうのが自分にあったら私、困っちゃいます】
「お前は困ることがないから安心しろ。で、そろそろ話を戻していいか? どうするんだ、お前?」
【えっと、何を?】
「成仏だよ」
【あぁ……。その、ですね、成仏するのはちょっと……】
「自分でできないんだったら、神社やお寺に行ってこい。ちゃんと御祓いで成仏できるだろう」
【えぇ、それもちょっと……できればしない方向っていうのは……】
「もしかして、怖いのか?」
【うっ。は、はい】
成仏するとどうなるかわからないから、普通は怖いと思うな。
だとしたらどうするか。こいつに成仏する意思、怖いと思う気持ちがあるとなると神社やお寺で御払いを受けるというのはちょっと難しい。
かといって、俺が一緒に行くとアレ(御祓い料)が発生する。信じてないからそんなことは一切したくない。
あとは、俺が知っている幽霊の知識の範囲だと、幽霊は自分の中の何かに満足したら成仏するぐらい。
だけどこいつは何も覚えていない。生前の記憶なり何らかの手がかりになるものを覚えてくれれば……。名前さえもわからない今の状態ではお手上げだなぁ。
と結論が纏まったら眠たくなってくる。
【ど、どうしたんですか? 急に黙っちゃって?】
「無いものねだりをしていただけ」
【ん? 無いものねだり?】
「考えなくていい。というか俺、寝るわ」
教えるのも面倒。睡眠の途中であったこともふと思い出す。
【あなた、寝るんですか? えっと、私はどうしたらいいんですか?】
「どけ」とだけ言って、ベッドの上で浮いている女をどかせてベッドに潜る。
【あ、あのー? 私、どうしたら……?】
「ん? とりあえず自由にして」
【自由にして、と言われても、どうすればいいか……】
「じゃあ、ここにいれば?」
【いいんですか?】
「何かしたいなら別に構わない。お前がどこに行っても、俺は困らないから」
【うーん、そうですねぇ…………】
とりあえず解決策は起きてから考えよう。幽霊と〝運命の赤い糸〟で結ばれているとか色々なことを考えると頭が痛くなる原因。
【うーんと、えぇ……したいこと? 何も思いつきません。って、あれ? 眠っちゃってる?】
おやすみ。これ以上はもう何も耳に聴こえない。まどろみから一気に深い眠りに。