深い青と暖かな橙
今まで迷うことなんてしないし、したいとも思わなかった。
川原で何をするかはわからないが、スミレは俺のために何かをしてくる。それだけで十分。
急いで家を出ようと玄関のところで、
「レン」
「……姉さん」
姉貴に呼び止められる。
ふいに姉貴に対して申し訳ない気持ちで心が痛むが、それはすぐに振り払う。
姉貴にも言わないといけないし、聞かないといけない、から。
「あ、あのね、レン……」
「今までごめん、姉さん」
姉貴が話すより早くに謝る。すると、姉貴はその場で崩れて泣き出した。まるで、小さな子供のように。
「ね、ねえ? どうしたの?」
「……違うんだ、違うんだよ……」
何か伝えたいのか? 俺はその場で膝を付き、
「ゆっくりでいいからさ、言ってよ」
優しく言ってやる。
「ボク、レンに謝らないといけない。迷惑かけて、レンに辛い思いさせて……。わかっていたんだ。ずっとわかっていた。ボクがキミに悪いことをしたのも。レンが自分を抑えつけていること……それが、ボクのせいだってことも……。ごめんなさい」
「いやぁ、悪いのはボクだよ」
俺が未熟だったってこと。十中八九間違いない。
「違うよ、レン。ボクがレンに〝憧れ〟ているのが悪いんだ」
〝憧れ〟?
「レン。キミはあれ以来、ボクに怒ることはなくなったね。キミは頭がいいから、父さんと母さんがボクたちの仲を心配していたのを見て二度と同じようなことはしなかった」
まあ、姉貴に対して程度っていうモンを学んだと言った方がいいかな。
「ごめんね。姉として失格だよ、ボクは……」
「いや、そんなことはないよ」
「ううん。ボクはダメな姉だ。レンの〝悩みも解決できない〟。それに〝あの時、守ってあげられなかった〟」
「え? あの時って、どの時?」
俺、後悔はよくしてたけど、守りが必要なピンチ的な状況は一切記憶にないよ。
「ボクが五歳で、レンが四歳の頃……。ボ、ボクが、男の子に泣かされた、とき……」
姉貴が泣かされて俺が泣かした奴をしばいて、家に帰って姉貴をしばいた時の話だよなぁ、それ。
でも……、
「〝ボクを守る〟っていう、それは何?」
「レンは憶えてないの?」
どれだろう?
「えっと、暴力を振るったこと?」
「その前だよ」
姉貴が泣かされる前ってことか?
「それは憶えてないみたいだね。レン、あの時、キミはいじめられていたんだよ」
ウソー?
「嘘って顔だね。でも、そうだったんだよ。傍から見れば、ね」
「傍から見れば?」
「そう。ボクが泣かされた相手、理由はわからないけど最初にキミを二、三人の男の子を連れて囲んでいたんだよ。そして……」
そこ、記憶にございません。でも、そこからしばくという行為に及んだってことは……。
「それを見たボクが助けに入ったんだよ」
そういうことじゃないと、話が合わんなぁ。
「でも、助けに入ったのに逆に泣かされちゃった」
恥ずかしいというように苦い微笑を浮かべる姉貴。
なるほどねぇ。で、そこからは俺が憶えている通り、キレて相手をしばいたってわけか。
だけど、俺がイジメられていたって風に傍から見えたのに、当の本人である俺は憶えていなかった。ということは、俺にとってとてつもなく関心を引かない小さなことだってことだ。逆に今、気になるなぁ。どういう風にイジメられていたんだろう、俺?
「ダメな姉だよねぇ。助けに入ったのに、逆に泣かされて守られて。しかも、家に帰ってからレンに怒るなんて……」
「ごめん」
「謝らないでよ。謝るのはボクの方だから。だから、ボクは謝るのと同時に言いたいだんだ」
何を?
「さっきも言ったけど、レン、もう自分を抑えるのはやめて」
母さんに言われたことを言われる。姉貴も気づいていたのか……。
「言いたいことは言って。レンは間違っていることは言わないし、しないのをわかったから知っている。ボクは、ずっとそれを見てきたんだ」
姉貴……。
「キミの強さ。その強さに憧れて、キミのようになりたくてずっと見ていたんだ」
話してみないとわからないものだ。憧れというものを持った姉貴が、俺に絡んでくるのはそういう意図もあったということか。
母さんの言う通りだったな。
「なあ、姉貴?」
ん? と、呼び方が違うことにちょっとビクついて震える。けど、息を呑むように真っ直ぐとした眼で俺の言葉を待つ姉貴。
「今度さ、遊びに行こうよ」
パアっと開花した花のように満面な笑みを浮かべる。
「あれ以来、子供らしく姉弟で遊ぶことはなかった。どこか一定の距離があったから。だから、それを埋めるために」
姉貴は嬉しいのか、ホッとしているか、少し涙ぐんでいる。
「帰ってきたら、その話しをしよう。今までのことも含めて」
俺はそう言って微笑んだ。姉貴も笑ってくれた。
「あらぁ、〝おまじない〟が効たのかしらねぇ」
〝おまじない〟? 母さんがいて二階から降りてくる。母さん後ろには女がいた。
「〝おまじない〟って……?」
「レンちゃんの部屋にあるアカネちゃん特製のぬいぐるみよ」
あの珍妙なぬいぐるみに何が?
「レンにあげていたぬいぐるみはね、母さんに聞いたおまじない。赤い糸で千個の結び目で一つのお守りを作る。それを千個作るんだ」
「千個も? なぜ?」
「それはねぇ。赤には魔除けの意味があるからぁ。それがおまじないである、〝千本針〟の祈念の手法なのよぉ」
「〝千本針〟?」
「そう。元は〝千人針〟と呼ばれていたらしわぁ。戦争でぇ、兵隊さんの無事を祈るお守りを千人で千個の結び目で一つのお守りを作るものぉ」
「千人で一つを」
「ええ。スミレお祖母さまが言うにはぁ、大人数の祈願によって目的を達成させるものぉ。アカネちゃんは、一人で千個作ってぇ、レンちゃんに自分の想いを届けたかったのよぉ」
姉貴は恥ずかしそうに照れ、チラチラとこちらを見ている。
そうだったのか。あのぬいぐるみたちにそんな想いが込められていたなんて知らなかった。
「まあぁ、レンちゃんもアカネちゃんもぉ、これからはもっと本音で仲良くやってねぇ」
「うん。わかった」
姉貴の想いが今頃ようやく俺に届いた。これからは大丈夫。この、ボクっ子男勝りな姉貴は俺の大事な〝姉さん〟だから。
「それよりもぉ、急がなくても大丈夫、レンちゃん?」
「いや、母さんが呼び止めたんだろ」
「あ、そうそう。あのねぇ、レンちゃん。呼び止めた次いでにぃ、何も言わずこの子も連れて行ってあげてぇ」
母さんが女の背中を押し出す。
視線を合わせようとしない女。何か、思いつめた感にも似た表情。前までの俺ならイヤと言っていただろう。
というか、姉貴のいる前でこういう話をしていいのか? それとも、姉貴も厄介な力を受け継いだ一人なのか?
交互に俺と母さんを見る姉貴。その表情は不思議そう。
うわっ。姉貴には無いのかよ。羨ま、いや、そうじゃなくて。
「いいのかよ、母さん?」
母さんに一度向けた視線を姉貴の方に向ける。
「あらぁ。やっちゃったわぁ」
絶対ウソだ。
「どういうことなの?」
姉貴が案の定、怪訝で不思議そうにしている。
「アカネちゃん? レンちゃんの秘密を知りたくなぁいぃ?」
「え?」
「おい」
そういう風に言うと、姉貴が変な意識を持つだろうが。
「ひひひ、秘密っ……!」
何て予想しやすい反応を取るんだ、姉貴。ていうか高校生だろ? もうちっと垢抜けてろよ。
「考えていることと違うからな、姉貴。母さん、間違ったことは教えるなよ。〝俺たち〟だから、な」
そこは間違えるなよ。と姉貴と母さん二人に、語尾に念を押して言う。
「わかっているわよぉ。いやぁねぇ」
やばい。胡散臭い感じしかしない。
でも、スミレとのことがあるし、そろそろ行かないと……。
「でぇ、この子を連れて行ってくれるのぉ?」
女をジッと見つめる。俯いたままで何の反応もない。
「うん、いいよ。わかった」
母さんのことだから何かあるのかもしれない。あってはいけないことは母さんを信じることにしよう。
「ありがとおぉ。ちょっと動揺しているけどぉ、この子のことは心配しないでぇ。帰ってきたらぁ、みんなでいろんなお話しましょうぉ。きっと楽しいわねぇ」
「お話って……。俺や母さんはいいけど、姉貴はどうすんの?」
一般人に見えない幽霊がいるよ?
「それに、それって自分が楽しむためにやろうとしているんじゃないのか?」
「あらぁ? 楽しいことはまず自分から楽しまないとねぇ。楽しいことは流行病のように周りに広がっていくんだからぁ。バカにはできないものよぉ」
流行病っていう例えが……。
「それにぃ、怒ったり泣いちゃったりしたあとってぇ、笑いたいものよぉ、人ってぇ。これも自分と周りが積み重ねていく人と人の絆。だからお母さんは楽しいことをして、みんなを楽しくなるようにしてあげたいわぁ」
ちょっと、目頭が熱くなった気がする。
周りのことをこんなにも考える優しい母さんなんだと、再度そう思った。
「母さん」
「ん?」
「俺、まだまだ我侭三昧の子供だと思う。今も……」
母さんに謝らないといけないことがたくさんあることに気づいた。そう、まだ何もちゃんと謝っていない。
「あらぁ、あらぁ。これから時間は十分にあるんだからぁ。だから、気にしないのぉ」
「そうだよ、レン。ボクたちは、〝家族〟なんだから」
「あらぁ、お母さんの台詞、アカネちゃんにとられちゃったぁ」
「ああ、母さん、ごめん」
そうか、家族だもんな……。
ふと、視線を落として気づいた。右手小指から伸びる新しい糸に。
その糸は、青色と橙色。糸の先は、母さんと姉貴の左手小指に結ばれていた。
深い落ち着きのある青。強い暖かさを持った橙色。思いというものが、俺の心に伝わってくるよう。
「俺、できることをやっていくよ。今はこれだけだけど……。ごめんなさい、そしてありがとう」
「照れ屋の息子に感謝されるのってぇ、照れちゃうわねぇ」
俺は照れてないし、母さんはまったくそういう風には見えないけど……。
まあ、いいや。家族のことはこれからいくらでも機会がある。
「来い、女」
と言って女に右手を差し伸べる。ゆっくり顔を上げ、ゆっくりと差し伸ばそうとする左手が触れるとしっかりと掴んだ。
「行ってくるよ」
「はい。頑張ってねぇ、レンちゃん」
「ボクには何かわからないけど、頑張って、レン」
「うん」
――女は俺に引かれるように歩く。
母さんは動揺していると言っていたけど、多分それは俺がやらかしたからだろう。
この女にも俺は謝らないといけない。けど、今は女がいつも通りに戻るまで待つしかない。
しなければいけないことがたくさんある。でも、全部できると思う。




