フェル対モモカ
「彼女、今日はどうしたの? 酷く怖がっているみたいだけど?」
剣道部部室の男子更衣室で着替えていると、フェルが今日一日の女の行動振りを訊ねてくる。
「さあ、知らん。怖い夢でも見て、夢と現実の区別がついていないんだろう」
「何かあったのか?」
「何もない。俺は、な」
「彼女、〝黒い人とか、化け物とかが襲ってくる〟って授業中何度も呟いていたぞ?」
「さぁー。あいつの夢の中の話をされても困るなぁ。俺が見たわけじゃないもの」
「――……。レンヤ、俺に何か隠していないか?」
フェルの声が訝しげを混じった口調にほんの少し変わる。
「隠しているよ。当たり前だろ?」
フェルも俺から何でもかんでも一々報告を受けたいのか?
「それは、彼女の話か?」
「まったく違うなぁ」
ジッとしたフェルが俺の目をずっと捉えて離さないから、俺もフェルの目をずっと見返してやる。
こういうのを好きな人が見たら、どう思うんだろうなこの光景。
男からしたら、気色悪いことこの上ないと思う、などといらないことを俺は考えていると、
「……そうか」
フェルはそれだけ言ってホッと安堵の表情を表した。
「どうした、フェル? 隠し事されているのに落ち着いた顔して?」
「いや、レンヤはいつも通りだからね。落ち着くよ。それに、隠し事があるのに、無理に隠すほうが逆に落ち着かない」
「そうかい」
俺にとって大事なのは、女が襲われるとか、それを助けるとか、そんなことじゃない。あの黒い化け物を見つけてブチのめす、それだけ。フェルの聞きたいことは大事に当て嵌まらない。
【もう、早くしてくださいよぉ。外で待っているの、怖いんですよぉ】
「わっ!?」
フェルが驚く。どうしてか女がすぐ後ろに立っていた。
「おい、お前? 男子更衣室だぞ、ここ?」
【いや、怖いんですよ!】
「何で学校に来たの、お前?」
これで襲われたら、自業自得だからな。
【だってその……】
『三年〇組、湊レンヤくん。至急、生徒会まで来てください。繰り返します……』
話しの最中で生徒会から校内放送で呼び出しを受けた。
「レンヤ、呼ばれている。いつものだ」
「好きにやればいいのになぁ、あいつら」
「あれ以来、本音、心の中が駄々漏れだな?」
「うん」
「ドヤ顔の当然という顔かよ」
「俺は生徒会役員じゃないもの。今はフェルの前だし、嘘を吐く、隠す必要のないものは言う。まあでも、あいつらの前ではちゃんと丁寧にやる」
「猫被りってやつだな」
「処世術だよ。世間一般的な処世術。まあ悪いが部長、ちょっと行ってくるわ」
「ああ。行ってきな。先に稽古しておくよ」
と部長の了承も得て、剣道着のまま生徒会室に向かうため部室から出る。
【ああ、待ってくださいよ、あなたぁー】
生徒会室から体育館に向かう途中。
【あなたが行くとすぐ決まりましたね】
「案が出ているんだからそれをやればいいだけの話だ、あんなモン」
俺が行く必要性ゼロ。結果的に生徒会室に赴いたのは時間の無駄だと判断せざるをえない。
【それでも頼りにされるあなた。そんな中でもちゃんと期待に応えるあなたはすごいですね】
「やっぱりアホだな、お前。俺がやったことなんて、話し聞いて、じゃあこうすればいいんじゃない? と言っただけだぜ?」
【それがすごいんですよ】
「さっぱりわか……」
話しの途中で、校門近くの塀に目がいった。
【あ、あれ……】
犬らしき口元に横に切れ長な白線のような眼。クマのような身体つきにサルのように長い手足。手先足先は大型鳥類の鉤爪。ヘビのようにクネクネした不気味で気持ち悪い尾。
忘れるわけがない。あの、黒い化け物。
【あわわ……何でここに……】
俺は思わず拍手する。
「わざわざ俺の前にご足労いただいて嬉しいわぁ。いい度胸だな、てめぇー!」
【ま、待ってくださいよ! 一人にしないでぇ!】
飛び掛る勢いで行こうとしたら、女に後ろから抱きつかれて身動きがままならなくなった。
「しがみつくなっ、ボケッ!」
俺らのやり取りをよそに、黒い化け物は興味を失った素振りのあと、ネコのように塀の上を駆けてどこかへ。
「あっ、逃げた……」
【危険は去りましたね。よかったで、え、えっと……何だか、機嫌悪くなっていません、あなた?】
あいつを逃がしたし、お前の所為でイライラの貯金が溜まったからだよ。
不完全燃焼――文句も言い足りなければ、あの化け物をブチのめすこともできなかった。
女に話しかけられても無視を決め込み、部室に向かう。
稽古してすっきりさせよう。そう思っていたのに、体育館に入った瞬間、緊迫した緊張がひしひしと満ち満ちと充満していた。
何、この空気?
壁脇で立ち尽くす部員に、何をサボってやがるんだ? と考える前に驚く。
垂れに千歳と書かれた防具を着たフェルと、朱鷺尾の苗字が垂れに書かれた防具を着たモモカが、体育館の中央で対峙していた。
え? 何? この状況?
俺が来たことに誰も気付かない。みんな、面持ちは張り詰めた雰囲気に飲み込まれている。
フェルはフラフラとして息を荒げ、疲労困憊で立っているのも限界に近い様子。
モモカは微動にしないほど静止し、そこには気合も、威圧の欠片が微塵もない。ただ、恐ろしいほど静かに佇んでいる。
稽古をしているとは思えない。
これは試合。いや、試合以上。経験したことも、見たこともない真剣勝負の場に、身震いが自然と起きる。
―――――――――――――――――――――――――――――…………。
二年前とは違う。いや、この二、三ヶ月間の部活中とも違うモモカの真剣が、これほど静かなのに心地が悪いものだとは思わなかった。
【あ、あなた……とと、止めなくて、いいんですか……?】
同じように恐れを抱いている様子の女に言われても、目の前の光景を呆然と見つめることしかできない。というより、身体が反応、動いてくれない。
どうして今、〝この二人が勝負しているのか〟、と疑問の渦が俺の中で駆け巡る。
動きの鈍いフェルの身体が先に動き、力を振り絞るように竹刀が持ち上り、
咄嗟に、
「フェル、やめろっ!」
口が勝手に動き、俺は叫ぶ。が、
「面っ!」
耳の奥を突く一瞬の気勢と、踏み込んだモモカのしなるような剣戟が残像として目に焼きつく。
刀で切られた……。いや、竹刀で人は切ることなんかできない。けどただ、そう見えた。
構えを取ったまま身動き一つ取れなかったフェルは、モモカの打突を面に受け、竹刀がその手か落ちて静かに膝をつく。
床を転がる竹刀が二人の力の差が物語れると脱力感に襲われる。こうなってしまったことに対して……。
【フェル、さん……】
静寂の空き部室――女の呟きのあと、フェルは逃げるように一目散にどこかに駆け出す。体育館入り口近くに立っていた俺は、フェルを避けることもできず、ぶつかられた反動でその場で尻餅をつく。
「あれ? チーくん? あ、レンくーん」
呆然したまま見上げると、面を外したモモカがトコトコとこちらにやって来ていた。
「ん? レンくん、どうしたの? そんなところに座り込んで?」
「モ、モモカ……?」
モモカの表情は、どこをどう見てもいつものほのぼのとした寝惚け顔見える。だけど、
「ん?」
「どうして、どうしてフェルと試合を」
「ああ、それはね。〝チーくんが試合しよう〟って」
普段通りなのにいつもとは違う、えらい威圧感がモモカからヒシヒシと伝わってくる。
「フェ、フェル、が……」
「そうだよ。どうしてなのかなぁ」
ここでモモカの威圧が消え去り、いつものほのぼのとした雰囲気を振り撒いていた。モモカの集中力が切れたからだろうか。
――間を置いて、俺もようやく頭が追いついてくる。
おい、親友? 俺はお前と出会って、初めてお前のことをアホと呼びたくなったわ。と走り去ったフェルに対して沸きあがった怒りと同時にすぐに立ち上がった。
呼吸を整え、努めて、努めて冷静を装い、
「みんな、今日の部活は終わり。もう帰っていいよ」
「え? ど、どうしてですか?」
近くにいた一人の後輩部員が訪ねてくる。
「いいから。今日は終わり」とあくまで普段と変わらないよう答える。
けど、それでも、「でも……」と躊躇しやがった部員。イライラが少し噴出する。
「耳に聞こえるように言ったぞ? 一度で理解して早く帰れ」
この時学校では出したことのない、出したくない、溜まっていたイラつきが一度だけ顔を覗かせた。
部員は少し怯えていたのかもしれない。でも今は気にすることができずすぐさまフェルを追いかけるため部室を出る。
あんのボケッ! どこへ行きやがった!
部室更衣室を始めに、その他校舎の教室、至るところを探す。けど、フェルは見つからない。
帰らせた剣道部員をチラホラ見かけながら、ちょうどあの化け物を見かけた校門近くで、息を切らせた剣道部の顧問と遭遇した。
「どうしたんですか、先生?」
「あ、湊か。いや、千歳が〝剣道部を辞める〟と言ってきたんだが、どうしてか知っているか? それだけで理由も言わずに職員室を飛び出していったんだが……」
辞める……? あいつはそこまで考えんのか? アホかっ!
「なあ、湊? 部活中に何かあったのか?」
モモカに負けたぐらいで剣道部を辞めるとかどういう思考してやがるんだ、あいつは。下のように溜まってんのか?
「おい? 湊? 聞いているのか?」
「あ、はい。フェルなら大丈夫ですよ。ちょっと、行き詰っているだけですから」
「そうなのか?」
「はい。昔からよくあるんです。悩みが吹っ切れれば部活に戻ってきますよ。ですから、退部届けは受けないでください」
戻ってくる、という苦しい言い訳をしていると思う。
「あ、ああ。まあ、退部届けは出とらんから、それはいいが」
悩んで自問自答するフェルは、心内に溜め込むけど行動に移すのは遅い。
「はい。ですから、心配しないでください」
それが今日の一回で速攻のような行動は、よほどモモカに負けたことが自身に影響したということ。
「そうか。じゃあ、先生戻るからな」
顧問を杞憂であると思わせてその場を終わらすと、この分だとフェルの奴は帰ったな、と大体の居所に見当をつけた。
【あの、あなた?】
いつの間にか、女が近くにいることに気付く。
「……何?」
【その、ですね、あ、あの、げ、元気出してください!】
「はい?」
【あぁ……ですからですね。落ち込んでらっしゃるというか、怒っていらっしゃるというか、そういう感じみたいですから……】
「俺はいつも通り」
そんな何か言いたげな顔をするな。俺がいつも通りじゃないのは俺自身でもわかっている。でも、こうでもして切り替えないと落ち着かないんだ。
「レーンくん?」
声にバッと振り返る。
「レンくん、帰りましょう」
「モモカ」
「今日はもう終わり。だから、一緒に帰ろう。ね」
優しく微笑んでいる表情――ギリッと歯軋りしそうな思いがこみ上げ、違う意味で怒りが沸いてくる。
「いや、先に帰りなよ、モモカ」
「あ、レンくん着替えないといけないもんね。待っているよ、私」
「いや、いいから。先に帰りなって」
「ううん。私、待っているから。ね、一緒に帰りましょう」
「悪いからいいよ」
「大丈夫ですよ。気にしないでぇ」
この剣道の時とは違ういつものモモカ。その優しさの一面が俺の中で何かを切れさせた。
「いいからさっさと帰れやぁ!」
「ッ! レ、レン、くん?」
「俺がいいって言っているだろう! しつこいんだよ! 理解力ねぇのか? てめぇいくつだ? お漏らしするほどの小さなガキか? 一人でさっさと帰れ、ボケッ!」
下唇を噛んで耐えるように怯えるモモカ。しかし、怯むのは少しだけで、すぐさまいつもと変わらずの穏やかな微笑みを浮かべる。
「あ、あのね、レンくん……」
と、それが余計に俺を苛立たせた。
「{ピー}、{ピー}、{ピー}。おい、いつまでいやがる気だ? さっさと帰らねぇと喋れねぇようにするぞ、{ピー}の{ピー}が」
怯えた涙目――睨む俺から逃げるように俯いて走りだす。やっちまった、と感じた。
【モ、モモカちゃん……。あ、あなた、いいですか? このままだ……】
「黙れ」
【だ、だけ……】
「頼むから黙ってくれ」
【……は、はい……】
俺が今どういう表情しているか自分ではわからない。女の物悲しげな様子からすると怒っている風にはなっていないと思う。
昨日から溜まっているものが出やすくなっている。
何でこうも連続で面白くねぇ色んなことが次から次へと湧いてくるんだぁ。