呪いの糸にしか思えない
川原から見上げる夜の堤防沿いの道――街灯や家々などの町の灯りが、水平線を昇る朝日のようにぼやけたように映る。
周りは暗がりで、俺がいる場所には街灯の明かり。それが一定の間隔で川沿いに並び、数十分おきに鉄橋を通る電車の明かり灯り、影ができる。
剣道の稽古を始めて一時間ほど経ち、息が続かず身体が重く感じ出す。
後輩たちと足並み合わせてする部活の稽古だと少し足りないせいと、部活動自体休むことが多いからか、稽古の量と質を増やしただけで身体が相当鈍っていたことを実感。
ああ、ダメ……。
素振りしていた竹刀を止めると、肩で息をするように疲労感が重く圧し掛かった。
【ものすごい汗ですね。それに、息も荒くて速いです】
「はあ、はあ……。あ? ああ。身体が上手く動かないからな。それでつい余計な力が入っているんだと思う。前はこれぐらいならまだまだいけたはずなのに」
答えつつ、休憩しようと女の近くの木製の背無しベンチに座る。
タオルを手に取り、汗を拭った。うわ、すげぇ汗。
【かなりびしょ濡れですね】
「ああ、そうだな」
やっぱり基本は疎かにするのはよくないな。
【水分の補給は必須です! 私が何か飲み物でも買ってきましょう。スポーツドリンクなどを……】
「やめろ」
【え? なぜですか?】
「いや、いい加減に分かれよ?」
スポーツドリンクだけが浮いて、町中をさまよう噂なんて聞きたくねぇからだよ。
「いえ、私に任せてくださいよー」
「イヤ。飲み物は自分で買ってくる。お前はここに……」
【ならば、これを飲むがよいぞ】
と目の前に差し出されたのはペットボトルだった。中身の無色透明色からしてか飲料水か? 気が利くなぁ。
「おお、ありが、って、おい待て」
差し出された方を見上げる。
【レンヤは夜分遅くまで精がでるのう】
「はぁ?」
前まで見慣れていた変わった髪型に、菫の花飾りで髪を留めたセーラー服のスミレが立っていた。
【ス、スミレさん? なぜここに? え? なぜここに?】
【なぜ二度も訊くのじゃ、娘?】
え? どうして? と俺も頭が追いついていなかった。
【いや、えー、あのその、えっと、なぜここに? あれ? んぅんぅぅん?】
「何言ってるかわかんねぇよ、アホ女。黙ってろ」
アホがアホな対応をしやがったので、俺はまともな思考を取り戻すことができた。
「なぜここにいるんだ、お前?」
【何じゃ? レンヤもそういうことを言うのか?】
「じゃあ、的確に訊いてやる。成仏したのにどうしてこの世にいるの?」
【的確を通り過ぎて、冷たさみたいなものを感じるのは気のせいか?】
「ハッキリ言ってやらねぇと分からないだろ?」
【ちょっとぐらい優しくしてくれてもいいじゃろうに……】
「成仏したのにどうしてこの世にいるの?」
面倒くさいからバッサリを切ってやる。
【うぬぬぬぬぅぅ】
苦虫噛み潰したように唸るスミレ。諦めた様子で一つ溜め息吐いたあと、
【〝一応、成仏はした〟。じゃが、〝ワシはここにおる〟】
「答えになっていない。面倒だから、もう一回成仏してこい」
【酷い言い草じゃあな? 恩人がせっかく会いに参ったというのにのぉぉ】
「口を尖らすな。世話になったが、それはそれ、これはこれだ」
【レンヤはあれじゃのう……えっと、あれじゃ、性格が乾いておるというやつじゃな】
ん? と俺は首を傾げる。が、すぐに納得した。
「それ、ドライってやつを言いたいのか?」
【そう、それじゃ】
「うん、そうか。帰れ」
天国ってどこにあるのか知らんから、夜空を適当に指差す。付き合ってられん。
【酷い奴じゃな、レンヤは!】
「あのな、お前は未練が晴れて成仏した。俺たちの目の前で。なら、この世に戻ってくる必要性はどこにもない」
何か深い事情があるのなら話は別だがな。
【ワシはのう、目覚めたとき、墓の前におったのじゃ】
唐突に話しが変わっては、ないか……?
【〝前の記憶〟もある。そして、ワシの中で残っているものもあるのじゃ】
「残っているもの?」
こいつ、本当に深い事情があるのかもしれない。
【〝未練〟。レンヤとの〝約束〟がのう】
「〝約束〟?」
【そうじゃ。確か、『この身を捧げましょう』と】
「――……はい?」
いや、待て? この身を捧げる? そんな約束した覚えはこれっぽっちもないぞ。
【あなた、スミレさんとそのような約束をしたんですか? へー、そんな恋人同士がするような約束を、ねぇ……】
「女、俺はスミレとそんな約束をした覚えはない」
【あらまあ? とぼける気なんですね? 将来を誓いあうような言葉を女の子に言わせてお・き・な・が・ら】
声に抑揚がなく、ジトっとした流し目には虹彩が消えている。
ちょっと怖いと感じた。幽霊らしくなってきたなぁ、と。けど、言い方に何だかトゲが含まれていからすぐにイラっとする。
「知らんもんは知らん」
【へー、それはあなたの勘違いということではないんですか?】
「俺は知らないと言っただろ? 知らない俺に一々訊くな。スミレに訊け、ボケッ」
睨み合い、とは違うような視線のぶつかり合い。
これはケンカ売ってんのか? そうか、売ってんのか。よし、品物を頂いたから金以外のモノで払ってやろう。
俺はそう思って立ち上がる。
【ピリピリせずに落ち着くのじゃ、二人とも。言葉が足りんかったのう。正確には、『この身を捧げてお力添えを致しましょう』じゃ】
「ああ? ふざけんてんのか、お前? 初めからハッキリと言えよ?」
【そうすぐにカッカするではない】
「お前の言い方が悪いからだよ」
【では、話は最後まで聞くことじゃな】
「それ、俺じゃねぇよ」
話を聞かない、勘違いしたのはアホ女だ。俺じゃねぇ。
【まあワシとしては、この身を捧げるという意味は……そういう意味、として受け取って貰ってもよいがのう……】
少し照れくさそうにし、俯いてチラチラと視線を送ってくるスミレ。何言っての、お前?
「スミレはさぁ、何を……」
【あーら、スミレさん。何をおかしなこと言っているんですかぁ? 長い幽霊生活でボケがきちゃったんですかぁ?】
【むむ。なぁに、お主が勘ぐった通りの意味じゃ、こ・む・す・め】
話を遮られた。しかも、次はなぜこの二人の間でピリピリした雰囲気を作る。俺の話は終わってない。
「ケンカすんな。話が進まない。まあ要するに、俺とした約束が未練として残っている、ということだな」
【そうじゃ】
「じゃあ、それなしで。成仏しに帰ってくれ」
【それは聞けぬ。これは魂の訴えからくるワシ自身の筋の問題じゃからな】
スミレは真剣な眼差しを向けて見据えてくる。
筋を通す、か……。厄介だなぁ。これ以上は言えねぇじゃねぇか。
あまり考えたくはないが、恩人のスミレにこれ以上恩を受けると、俺はそれに報いなければならなくなる。堂々巡りが続くような気もする。
でも、自己満足すれば勝手に成仏すると解釈してもようさそうな気もする。その間だけ、と思っていれば、今はいいか。
スミレだから別に困ることはなさそうだし、未練、約束を満足させる術も思いつかない。それ以上に考えるのが面倒くさい。
「じゃあ、もう好きにして」
【わかった。好きにするぞー】
「ああ」
満面の笑みで嬉しそうに喜ぶスミレ。そのスミレを、俺の左側にいる女は怨念撒き散らす悪霊みたいに顔面痙攣麻痺させて睨みつけている。
この状況がどういった経緯で起こったのかすぐ理解できたけど、治めることを考えるのが面倒くさい。と思いながら竹刀を袋に納めて帰る準備。
俺は関知しませーん。
【もう帰るのか、レンヤ?】
「帰るよ。汗が冷えたからね」
【そうか。では、これは飲んでおくがよい。せっかくの差し入れじゃし、水分は取っておいたほうがよいからのう。ほれ】
スミレは持っているペットボトルのキャップをわざわざ開けて俺に差し出してくる。俺の視線はその下に目がいった。
――……おいおい、マジか……?
【ほれ。飲むのじゃ】
「いらん」
一言バッサリと告げる。
【なぁにぃ!?】
【ぷぷぷ。残念でしたねぇ、スミレさん】
【うるさいわ、小娘!】
ショックを受けたスミレや嬉々する女のことなど頭に残らずさっさと歩き出す。後ろで何か喚いているが知ったこっちゃねぇ。
けど、一つ気になることが増えた。
小指の糸。前にスミレが成仏したあとに結び付けられた紫色の糸が、ペットボトルを差し出したスミレの左手、その左手の小指に結び付けられていた。
あれは菫の花に結び付けられていたはず。
これはどういうことだろうか? あの菫の花が今のスミレということで、この小指の糸はとり憑かれた証みたいなものか?
わからないなぁ……。ただ、呪いの糸にしか思えないわ、これ。
赤色が女。黄色が山吹さんの兄妹。紫色がスミレ。知り合った幽霊全てにこの糸が結び付けられている。
結ばれて困らない、嬉しく思うものは山吹さんところの兄妹だけ。なんてことを考えながら家路を辿った。