アホな女
誰?
俺は条件反射的に身をくねらせて転がり、そしてベッドの上から……、
「おっ!」
と間抜けな声で落ちた。
痛い……。天井を見上げ、背中を軽く床に打ちつけたようだと思う。だけど今は痛いとかそういう状況じゃない。一目散に起き上がり、ベッドの上に視線を向ける。
長い赤色の髪がブワァっと扇状に広がり、ヘッドスライディングというか、水泳の飛び込み台から飛び込む瞬間のような格好の人間。
自分の顔が引きつり過ぎて筋肉の筋が歪みすぎた感覚がする。
何で壁から上半身が飛び出してんだぁ……。と目に見た在りのままの光景に呆然と立ち尽くして、
ダダダダッ! と階段を駆け上がる複数の物音が響いて聴こえてきた。
あ、やばい。と扉の方を見る。さっきベッドから落ちた音で、下にいる家族が来やがるみたいだ。
扉と飛び込みポーズの人を交互に見て思考を巡る。
どうするか? 完全に頭が整理ついていないのに、こんなもん、大騒ぎで済む問題じゃない。壁から上半身が飛び出している人間なんて。
部屋に近づく速い足音に部屋に施錠がマジで欲しい。としか考えが纏まらないまま、「レン! どうしたんだ!」と姉貴の声と同時に部屋の扉は開かれる。
あー、見ちまったぁ……。
「……レン、どうした?」
ん? ベッドに視線だけを向ける。目の前にいるのに、大して驚いてないな?
「もしかしてぇ、レンちゃん、ベッドから落ちちゃったとかぁ?」
壁から飛び出している人間が見えていないのか? まさかとは考えたくないが、この赤髪の女、もしかして……。
「うん。そうなんだ」
普段通り平静に答えると、姉貴は強張った心配そうな表情から安堵で、母さんは変わらずのキツネ顔のまま。
「もう、ボクらをビックリさせるなよ」
「ごめん、姉さん」
驚いていたのは俺の方だったよ。
「あらあらぁ。レンちゃん、本当に落ちちゃったの。どこか怪我はしていませんかぁ?」
「うん。してないよ」
「やっぱり看病しようか、レン?」
「いや、大丈夫だよ、姉さん。ちょっと寝苦しくて寝返りを大きく打って落ちただけだから」
お前は眠っている俺に悪夢を見せたいのか? 床を転がり回るぞ。
「ビックリさせたのは、ごめん。でも、ちょっと疲れているのもあるからさ、もう一回寝るよ。みんなは下に戻って」
「そうぉ? わかったわぁ、レンちゃん」
「心配掛けるなよ。ゆっくり休むんだぞ、レン」
母さんと姉貴は、そう言って扉を閉めた。小さな足音が下に降りるのを聞き届け、
「これはどういうこと?」
誰からも返ってこない疑問を呟いてベッドの惨状を見るが、次の瞬間、ビクッと身体が強張る。
――……見てる……。すごく……見てる。視線が合って……いる。
垂れた長い赤色の髪の隙間から、こちらを一視見上げて見据える髪を同じ色をした瞳の眼。
目覚めたばかりと唐突だったことが災いして頭の中が働いて……、
【あ、おはようございます】
働いていない。けど、それは意表を突かれたことによって、混乱という違う働きをし出した。
何て言った? 『あ、おはようございます』? ご丁寧にどうも、おはようございます、とでも返せばいいのか? いやいや。え? はっ?
「君は、一体……」
【あ、すみませんです! こんなはしたない格好で! はしたないので、ちょっと待ってくださいね】
と、女は身を起こす。
壁から上半身飛び出した女の下半身は、壁をすり抜けて桃色の長着和服姿。
和服の裾部分が乱れると、透けるような肌白の長い脚線美を覗かせ、そしてその場で綺麗な姿勢の正座をすると両手で前髪を後ろに流す。
長く淡い赤色の髪によって遮られていた顔立ちは、広い額に少し垂れた眼、小さな鼻筋と唇がコンパクトな小顔に納まっていた。
俺より年上だろうか? 温和そうな綺麗な女性。美人だと大抵の男はそう思うと思う。
だけど、何で宙に浮いて正座している。それに影がないのはどうしてだ。
目の前の人間の形をした物体が、人間離れしている行為に俺は冷静を装いつつ心持身構える。けど、相手の女が聞く体勢が整うとジッと俺を見据えて、
【はい、お待たせしてすみません。何か御用でしょうか?】
礼儀正しく、よく躾けられた従順な飼い犬みたいな印象を受けた。
これだけ素直なら手っ取り早くこいつが何者か訊きたい、ところだけど、一応は警戒も含め、慎重を期して探ることに。
「質問していいかな? 君は、一体誰なの?」
【あ、はい。わかりません】
「そうなんだ。じゃあ、さぁ……」
【私、何者なんでしょうか? まったく自分のことを覚えていなくて。よろしければ教えていただけませんか?】
教えてもらいたい、訊きたいのはこっちの方なんだが。
【あれ? どうしました? あ、あなたもわからないんですね。私と同じですね】
照れくさそうでちょっぴり苦い笑いを浮かべる女。
【そうだ。あなたのお名前を訊いてもいいですか? あ、でも、人に名前を訊ねる時はまず自分からじゃないと。あ、でもでも、私、名前がわかりません。どうしましょう。私の名前、わかりますか?】
うーん、違うなぁ……。
【あ、すみません。あなたもわからないんでしたね。私ったら、つい。てへ】
素直な感じだろうけど、この女、違う。害はない。
【それより私、何でここにいるんでしょう? あ、それもわからないんでしたね。すみませんです。あれ? あなたがわからなかったのかな? それとも、私?】
この女は〝アホ〟だ。この一人やり取りを聞いていて理解した。
【えっと、何でしたっけ? あ、そういえばですね、あなたって、目が細いですよね? 顔立ちもどことなくキツネさんみたい。アハハ。あ、でも悪い意味じゃないですよ? 良い意味で言っています。人畜無害? じゃなかった。とても温厚そうな可愛い感じで、抱きしめたくなるオーラがあって、あとは、えっと……】
「えー、そろそろちょっと待って……」
【というか、ここはどこですか?】
「いや、もういいからさ。とりあえず……」
【あ、家の中でしたね。あなたのお部屋ですか? へー。わっ! 男の方の部屋に私います! 何てドキドキな!】
頭の中にある理性の糸がプチンと切れた。
「とりあえずその口を閉じて黙れ。てめぇ、{ピー}か? 突っ込まれすぎた{ピー}みたいにユルユルなのか? 次にその口を開いたら竹刀をねじ込んでやる。それでも喋りたけりゃ、締りのない{ピー}で喋れ。わかったか? わかったなら黙って頷け」
従順な子犬――いや、怯えた子犬が自分より強い者に従うように口を閉じてブンブンと首を縦に振る。
内心、舌打ちする。言いたくもないこと言わせやがって。何だろう、こいつ。わからないから真剣に頭が痛い。