伝わる紫
目を真っ赤にしているスミレの顔は、晴れやかで穏やかな表情。泣き止み、静かで晴れ渡った空と同じ雰囲気。
多分、スミレはこの後をどうすればいいかわかっているのだろう。スミレの奥底で弟に対して未練。それは今、この世にはもう無くなったから。
【世話になったのう】
スミレは自然な流れで別れを伝える言葉を口にした。
「気にしなくて、いや、気にしなくてもいいです。僕もお世話になりましたから」
最後だ。お世話になった人に、ちゃんとした礼儀を弁えないといけない。
【のう、レンヤ?】
「はい? 何ですか?」
【あぁー……】
礼儀を弁えたはずだったのに、スミレは眉を顰め、顔面の筋肉が微妙に引きつっている。
何だよ、そのむず痒そうな顔は?
【のう? あれだけ口の悪さを披露しておきながら、いきなり畏まるとはどういう了見じゃ?】
「え? でも、一応最後ぐらいは……」
【ワシに鳥肌を立たせたいのか? 最後まで、頼むから最後まで自然なレンヤでおってくれ】
身体を摩る素振りに嫌気顔。俺の本性を知っていたら畏まる姿は確かにキモいわな。
記憶を思い出しても前までと変わらない、いつも通りのスミレの口調に、俺もそれに応えないといけない。
「わかったよ。スミレ婆さん」
【むっ。レンヤよ?】
「何?」
【婆さんとは聞き捨てならぬぞ。今のワシは、レンヤと同じ中学生じゃ。見よ! この若々しい姿を!】
バーン、という効果音がありそうな感じで自身の身体を見せ付けてきやがった。
「ん……。初めてスミレを見て思ったこと、言っていいか?」
【ほうほう。何じゃ? 言ってみよ?】
「大人ぶったちんちくりん」
【なっ!】とスミレはショックを受けて驚く。
「言い過ぎだよ、レンヤ」
「いやだって、フェル? 本当にそう思ったんだ? 見ろよ? 思わないか?」
「そうは…………思わないかな」
「何で間が空いたんだ?」
答えず顔を背けるフェル。お前は唐突な嘘がつけない奴だな。
【こらぁ、レンヤ! フェルも酷いぞ! 二人ともワシのことをちんちくりんと思いおって!】
「違う。大人ぶったちんちくりん、だ」
【必死に背伸びしている子供みたいですもんねぇ】
【娘!】
【わぁ。すみませんです】
「女もスミレも大して変わらない」
【【一緒にするでない (しないでください)!】】
「怒鳴るな。どっちが上だろうが、そんなことどうでもいい」
【【何じゃと (ですって!)!】】
さっきまで別れを惜しむような雰囲気だったのに、ここまでうるさくなるとは。
「レンヤ。もう、やめときなって」
いや、〝俺の〟いつも通りなんだ。特別に何かをやっている覚えはないぞ。
【はあ……。ふふふ。まあ、良いか。良くはないが、百歩、千歩譲って良いということで一応納得しておこう】
最初から俺に注文を付けなければいいのに。
【では、長居はあまり無用じゃから、最後に述べさせてくれ】
と思ったら急に雰囲気が引き締まる。
真剣味を帯びたスミレ。やはり、お世話になった人の見送りはこうなるか。
【レンヤ、フェル、娘。世話になった。三人には、ワシの心残りを晴らしてもらって、感謝の言葉だけでは全てを伝えるに足りぬものじゃ。じゃが、それだけでも伝えたいから、聴いてくれ】
スミレはその場で正座。いつかの口調、礼儀――聴かなければいかない。
【願いを叶えてくださり、私の心は曇りなきほど澄み切っております。お三方には、心より深く感謝を申し上げたきに存じます。まことに、ありがとうございました】
深く頭を下げる優雅で上品な姿に、やはり見とれるほど美しいと思う。
【ス、スミレさん……さようなら……です】
女はもう泣いていた。
「スミレさん、さようなら。もう一度、会えて嬉しかったです」
【うむ。ワシも、好青年になったフェルと会えて嬉しかったぞ】
フェルとも挨拶を済ませ、最後は俺。
「ありがとう。世話になった。今度はあの世か? その時にまた……」
幽霊なのに確かな人の身体の感触と温もり。背中に回された腕はしっかりと俺の身体を捕まえた。
「は?」
挨拶をしている途中でいきなり抱きつかれる。
「何やってんの?」
【最後の、これが最後の頼みなのじゃ……】
もう消えるんだぜ? 最後の頼みとか言われたら、嫌でも拒否できないだろ。
【レンヤはのう、ワシの許婚に似ておるのじゃ……】
モモカの曾お祖父さんに? ああ、似ているからあの時、俺を見たわけだな。
【しかし、レンヤはレンヤ。似ておっても、違う。重ねるような気はない……。世話になった人として、最後じゃから……それだけじゃ……】
顔を埋めて言われる。
それだけにしてくれ。変な勘違いで、あの世の曾お祖父さんに嫉妬されても責任取らないから。
「ああ、わかっている」
俺もただ恩を受けた人に、少しでも恩を返すことができたスミレに。
強く優しく、腕の中に納まるように抱きしめてやった。
【……ありがとう。良い男になったのう、レンヤ……】
触れていた確かにあった暖かい温もりは、揺らいで、まるで霧靄の中に掻き消えていくよう。
代わりに残ったのは通り抜けるだけの風を抱く感覚と、僅かに、確かにあったスミレの余韻。
「レンヤ。スミレさん、逝ったな」
「そうだな」
【短い間でしたけど、何だか寂しいですね】
いつか会える。あの世で。
「墓参りをしよう」
俺はそう言う。
スミレが残していった〝思い〟の詰まった菫餡子の大福を持って、朱鷺尾家の墓に向かおうと歩み始める。
と同時にふと気付く。右手小指に赤い糸、黄色い糸とは別で、鮮やかな青みをした紫色の糸が結ばれていることに。
糸の先は朱鷺尾家の墓の前。舗装されたコンクリートの道のひび割れから顔を出す花に結び付けられていた。
スミレが眠っている場所――風が吹いて靡き、鮮やかな青みを帯びた紫の花は、
〝一輪の菫〟。
この菫は、〝スミレ〟。
俺にとって大きなものを与えてくれた人で、少しばかりだけど恩を返せたと思う。
そう思いに浸り、頬が緩むほど穏やかな気持ちに包まれる。
糸から伝わる思いが確かにそう伝えている、そんな気がした。