菫の思い
「「ごちそうさまでした」」
【お粗末様じゃ】
スミレの料理を食べ終え、一息つく。
「美味しかったな、レンヤ」
「ああ、美味しかった」
満足を得られたことがとても深い穏やかな気持ちへとさせてくれた。けど、この満足はとても余韻のある満足だった。
いつも食べているお袋の味――そういうものに似ていたから。
「満足げだな、レンヤ?」
「わかるか?」
「そんな顔をしていたら、誰だってわかるさ」
なるほど。そういう顔になっていたのか。スミレの料理は不思議だ。
「まあ満足はしても、ゆっくりはしていられない。もう結構な時間だからな」
「そうだな。遅くならないうちに行かないと、な」
食事も食ったが時間も食った。
モモカに教えてもらった曾お祖母さんのお墓は、俺の家系の墓がある場所と同じところにある。何度も墓参り行ったこともあるから、行くのに結構時間が掛かることを知っている手前、あまり行くのが遅いと帰ってくるのも遅くなる。
【二人とも、もう行くのか? まだ甘味が残っておるというのに】
「悪いな、スミレ。ちょっと時間が押している」
【そうか。じゃったら……】
俺とフェルは立ち上がり、
「ご馳走様です、スミレさん。美味しかったです」
「美味しかった。とてもな」
と言って出掛けるために玄関に向かって歩き出すと、【待つのじゃ】とスミレに呼び止められ振り返った。
【これを持っていくがよい。お供え物として。お参りが済んだら食べてもらえればよいからのう】
透明パックを受け取ると、中に入っていたのは六個の大福。
「デザートの分か?」
【そうじゃ。ワシ特製、〝菫餡子の大福〟じゃ】
菫餡子の大福? これって……。
「これ、どうやって作った?」
【これか? ちょうど冷蔵庫とやらに、〝菫の砂糖漬け〟があったからのう。ちょっと使わせてもらった。ワシが考えた甘味じゃ。美味じゃぞ】
スミレが考えた? 何でスミレがこれを作れる? これはだって……。
「へー。モモカの曾お祖母さんが考えた大福、スミレさんも作れるんですね?」
【ほう? ワシ以外にも作れる人がおるのか?】
「はい。今日、お墓参りに行く方がその人です。モモカ、剣道部で俺とレンヤが話していた前髪が短めの、朱鷺尾モモカって子の曾お祖母さんです」
【――……〝朱鷺尾〟……】
だってこれは、再現したモモカを除けば、〝モモカの曾お祖母ちゃんしか作り方を知らないはず〟だ
「スミレ」
【ん? 何じゃ?】
「来い」
俺はスミレの〝腕を掴んで〟駆け出す。
【ちょ? レンヤ? どうしたのじゃ?】
「いいから来い」
「レンヤ? どうしたんだよ?」
【ああ。待ってください。私も行きますー】
確かめないといけない。もし、スミレがあの人であるなら。
たどり着いた場所は長い塀が左右に続き、バカでかい門構えをしたお屋敷。
【何じゃ、いきなり?】
「はあ、はあ。そうだ、レンヤ。何があったんだ?」
【モモカちゃんのお家ですね、ここ】
「確かめないといけないことがある」
俺はそう言って、モモカの家の呼び鈴を鳴らす。
「はーい」と出てきたのはモモカを大人にしたようなモモカの母親。三回忌だから黒と白に纏められた服装をしていた。
「こんにちは、おばさん。湊です」
「あら? レンヤくんに、それにフェルナンドくん」
「どうも、こんにちは」
「モモカに御用? 少し待っていてね。すぐモモカを呼ん……」
「いえ。今日はモモカに用があって来たんじゃないんです」
と俺はモモカの母親の話を遮る。
「不躾ですみませんが、実はモモカの曾お祖母さんのことを少し訊きたくて」
「曾お祖母ちゃんの?」
「はい。それで、曾お祖母さんの名前を教えてもらいたいんです」
「名前? ええ、いいわよ。〝スミレ〟。〝朱鷺尾スミレ〟よ」
隣で瞬きもせず、ゴクリと息を呑む音が聴こえそうなほど、スミレの表情は驚きに満ちていた。
「そうですか。あと、もし知っていたらいいんですが、旧姓を教えてもらってもいいですか?」
「旧姓? 確か、昔教えてもらったわね。私もモモカと同じでお祖母ちゃん子だったから。えっと、確か……〝肥後〟」
心臓が喉を通り抜けそうなほど跳ね上がった。俺だけじゃなく、隣にいるスミレもそのはず。
「肥後よ。肥後家は朱鷺尾家の分家の一つなの。肥後家から嫁いできたって聴いたことがあるわ」
「それは確かですか?」
「そうよ。今日は曾お祖母ちゃんの三回忌。肥後家の人も来ているから、そういうお話もしていたから間違いないわ」
――繋がった。
「な、なあ、レンヤ……? まさか……」
【ま、まさか……スミレさんが……】
「……行こう。すみません、いきなりお話しをお聞かせいただいて。ありがとうございました」
どうかしたの? という要領を得ていないモモカの母親に頭を下げ、踵を返して歩き出す。スミレの腕をしっかり掴んで。
住宅街からバスで一時間ほど離れた田園の残る山間近くの霊園場。
中々広い霊園で朱鷺尾家――モモカの家のお墓を見つけ、俺とフェル、女は別のものを探しに行く。
スミレは朱鷺尾の墓の前、〝朱鷺尾スミレ〟と彫られた名前をただジッと見つめているだけだった。
「どうだ? あったか?」
「いや、まだだ。これだけ広いとすぐに見つからないよ、レンヤ」
俺たちが探しているのは朱鷺尾の分家、〝肥後〟家の墓。
モモカは言っていた。宗家とたくさんの分家の墓が入り乱れてある、と。
【ありましたよー!】
女が見つけたらしい。俺とフェルはすぐさま女のところに向かう。
【これですね。〝肥後〟って書かれています。間違いないでしょう】
俺は墓を前にし、気持ちを落ち着かせて墓に刻まれたある名前を探す。
覚悟はあったつもり。でも、できれば、あってほしくなかった。できれば、見つけたくなかった。
スミレの記憶の中でおかしいと感じた違和感は、
――〝肥後トキワ 享年一三〟――。
彫られた名前によって、一層深い物悲しさとなって刻まれた。
「……スミレを……呼んでくる」
俺はフェルと女にそれだけを言ってスミレの許に向かおうと、
【見つかったかのう?】
「スミレ……?」
【どれどれ。ワシに見せてくれんか?】
スミレは俺の隣に座り、目の前に刻まれた名前にそっと手を触れてなぞる。
六〇年前に亡くなったのはスミレではなく、スミレの弟のほう。今にして考えれば、一四、五歳で亡くなったスミレが卒業して卒業記録に載っているというおかしい点に気付く。
【――……】
弟は亡くなっている、その事実にスミレはただ静かに目を瞑り、哀悼の意を表す。
誰も何も言えない。スミレに掛ける言葉がみつからないから、俺たちもスミレに習って哀悼の意を捧げるだけ。
【のう? 少し、話しをしてもよいか?】
スミレが沈黙の最中、
【昔話しなんじゃ】
話しを切り出す。
【弟――トキワは生まれつき病を患っておってのう。病を抑える薬がなければ、寝臥せることが多かった】
記憶を思い出したのか……。
【そのうち戦争が始まり、変わらぬと思っておった生活は苦しいものとなっていった。肥後は朱鷺尾の分家であったが、暮らしはそう良いものではなくてのう。終戦を迎えても、それはあまり変わらず。中学生となったワシは学業と農作業に勤しむ日々が続く】
スミレの生きていた時代に思いを馳せ、胸が軋むほど辛い。
【食料が足りない。生活物資も足りない。病は弟を日に日に少しずつ蝕んでいった。一年。二年。三年……。よくも三年も持ったものじゃ。床の上で、たまに起きて一言二言話すのがやっと。本当は苦しかった癖に、内に溜め込んで、笑いながらいつもワシを気遣いおった……】
苦しく、掻き抉られるような想いが心に響く。
【それから……そう。あれは確か、庭の松が常盤の色に染まった頃。弟は珍しく具合が良くてのう。『どこか行きたい』と笑いながら言いおった。それが堪らなく嬉しかったのを覚えておる。だから願いを聞き届け、ワシは弟をおぶって出掛けたのじゃ】
変化したスミレの遠き日を思い出す眼差し。それは無性に寂しさに彩られる。
【とても鮮明に覚えておる。今日のように晴れ渡った空の下、川原近くまで来たワシらの前に、鮮やかな青みがかった紫色の菫の花が土手一面に広がって風に靡いておってのう。真に綺麗な光景――霧靄の夢の中にいるようであった】
懐かしむ姿に深く儚い悲しみの想いが溢れるようで、なぜだか、また胸が締め付けられるように痛む。
【土手に降り、一面の菫の花が広がる絨毯で、ワシは思いついたのじゃ。食用として使える菫で何か美味しいものを作ってやろう、と。弟は笑いながら言いおった。『〝甘いものがいいな、お姉ちゃん〟』】
左手に持っている透明パックの中身――〝菫餡子の大福〟に思いが廻る。
【しかし、しかしそれが弟の最後の微笑み。最後の言葉。弟はワシの背中で、もう目を開けることは……】
これは、スミレが弟のために考えて作ったもの。食べることなく、食べさせてやることもなく逝ってしまった弟のための、もの……。
【よくよく考えてみれば、思慮に欠けていた話しじゃ。少し具合が良くなったぐらいで、外に連れて行こうなどとは、なぁ】
「スミレ」
儚い物思いに、影が差し込むような雰囲気を感じ取った。
もしかしてスミレは、自分の行いを後悔しているのか? 自分が連れ出したから。
【ワシが、ワシが願いを聞き入れて連れ出さなければ、弟は……】
――それは違う。
「お前の所為じゃない」
【レン、ヤ……】
「スミレが、弟の願いを叶えてやったことが、どうしてスミレ自身を責める行為になる? 病の弟の気持ちは全てはわからない。けど、スミレの弟――トキワは願いを聞いてくれたスミレに、そんなことはこれっぽっちも思っていないはずだと、俺は思う」
【じゃ、じゃが】
「スミレさん? 俺も、レンヤと同じ考えです。弟さん、嬉しかったと思いますよ。だって、病に苦しんでいたのに弟さん、最後まで笑えたんですから」
【フェル……】
息が少しばかり速くなり、じんわりとスミレの目尻に涙が溜まっていく。
黙って聞いていた女が、スミレの許に近づき、
【スミレさん。菫の花言葉は〝思慮〟。それともう一つで〝思い〟という言葉があるんです。トキワさんはたくさんの菫の花に囲まれ、スミレさんの〝思い〟に満足されて幸せだと思いますよ、きっと】
最後に、告げた。
【あぁ、あうあぁ、ああぁ……】
「泣け。我慢するな」
俺がそう言ってやると、スミレは声を噛み殺していた我慢という名の止め具が外れ、俺たち三人だけにしか見えない大粒の涙を零す。
今、スミレほどの苦労も辛さも悲しみも経験はしたことがない俺たちだが、ただ聴いて、思いを受け止めてやることはできるし、してやりたい。
だから、泣きたい時は泣いたらいい。吐き出して、枯れるまで、泣き疲れるまで、俺たちは誰も傍から離れたりはしないから。
――スミレの心の奥底から溢れる思いが、俺たち三人にだけ伝わった。