悪いことをしたらごめんなさい
「お供え物と、お昼は行くと途中で」
「わかった。準備ができたらすぐ行くよ」
「うん。待っているよ」
部活からの帰り道。モモカの曾お祖母さんのお墓参りの話しを終え、フェルと別れて家に戻る。
汗を流して、さっとと準備しないと。
そう考えながら家の玄関に手を伸ばすと、ガチャ、ガチャ。とドアノブが回らない。玄関は閉まっていた。
ん? 母さんたち、出掛けたのか?
ポケットから家の鍵を取り出して玄関を開ける。
「ただいま」
――……。
静けさだけがする空気が漂い、返事は返ってこない様子。
姉貴は、部屋か? まあ、いないならいないほうがいい。少しの時間であっても相手しなくて済むのは楽だ。
靴を脱いで家の中に入っていくと、何だか食欲をそそられる美味しそうな匂いが鼻先に漂ってくる。やっぱり母さんがいるのか?
とリビングに入り、キッチンに目を向けたところで、
「何やってんのっ?」
俺は驚いて声を上げた。
【お、レンヤ? 帰っておったのか? ただいまぐらい言わんか。あと、少し勝手場を借りておるぞ】
右手におたま、左手に小皿、セーラー服の上からエプロンを身に着けたスミレがキッチンに立っている。
コンロの上でじっくりコトコト温められている味噌汁に、よく見るとテーブルの上には食事が用意されてあった。
【しかし、この勝手場は便利じゃのう。火を起こさんでも鍋が温まり、水を汲みに行くことなく水が湧き出る。文明の進歩とは凄いものじゃ】
「何してんの、自分?」
【ん? 見てわからんか? 勝手場ですることは一つ。料理じゃ】
「ああ、訊き方を間違えたな。何、恐ろしいことをしてんの?」
【恐ろしいとは何じゃ?】
「お前は人には視えないだろ? 誰かに見られたらどうする? どう思う? おたまと小皿とエプロンが宙に浮いて勝手に食事の用意がされていく様を見て、便利だなぁ、とか思うのか? どう見て考えても不気味だろ。恐ろしいだろうが」
幽霊っていうのは、どうして自分自身の存在というものの立場を理解してないんだろう。
【心配はいらぬ。ほれ】
スミレが一枚の紙を渡してくる。
『レンちゃんへ。お父さん、お母さん、アカネちゃん、三人でお出掛けしてきますね。夕方には帰ってきます』
書置きね、なるほど。この家には誰もいない。
「わかった。けど、何でメシを作っているんだ? 自分で食うのか?」
あの女は、幽霊は食事を取らなくても大丈夫って言っていたぞ。
【いや、レンヤに食べてもらうために作っておるのじゃ】
「俺? 俺はいらないぞ。俺は着替えに戻ってきただけだからな」
【戻ってきただけ、じゃと?】
「ああ、そうだ。今日はお世話になった人のお墓参りに行くからな。メシは、フェルと行く途中で食べる」
【で、では、この食事は食べてはくれぬ、のか?】
「うん、食べない。この女にでも食べさせてやったら?」
後ろを振り向くと、
あれ? あの女、どこに行った? 帰り道では後ろにくっついてやがったのに。
と、誰もいなかった。
【う、ううぅ……】
漏らすような声に振り返るとスミレがしおれた表情で少し俯いていた。
え? 今、泣くところか?
身を小さく縮こまらせて気落ちした雰囲気を醸し出しており、水風船に小さな穴が開いたように微々たるジワジワとした溢れ出す感じで少しずつ目尻に涙が溜まっていく。
「ちょっと待て、スミレ? どうして泣くんだ?」
【い、いや、気にせんでもよい。ワシが、レンヤの母君が残されたメモを読んで勝手に勘違いしただけ、じゃ……】
スミレはサッと後ろを向いて肩を震わせる。
うん、そうだな。勘違いしたスミレが悪いな。なのに、なぜまだ泣くんだ?
【せ、せっかく作ったのじゃがなぁ。もったいないことをしてしまったのう。食事のあとの甘味もあるというのに……】
おい? それは遠回しに俺に食べろと言っているのと同義だぜ。
【のう、レンヤ?】
振り返るスミレ。
お前、性格変わっていないか? 軽く上目使いしてお涙頂戴するような奴じゃなかっただろ。何、『食べてほしいなぁ』的なオーラを発してやがる。
【レンヤには、ワシの手料理を食べてほしいのう】
チラチラと後ろ振り返って俺を見るな。何度もやると下手な演技にしか見えないぞ。
その時、【ただいまですー!】と女が帰って来たようだ。
「とにかく、俺は食べないよ。おい、女? お前、一体どこ、に……」
【ん? 剣道部におった異人の青年ではないか?】
「……フェル……どうして、ここに……?」
リビングの入り口で、女とフェルが並んで立っている。
驚きと不安が入り混じったように呆然とした表情――頬を掻く指だけが、フェルの身体の中で唯一動いている。
【フェルさんをお待たせすることはできません。私がご丁寧にお通ししました】
女は満面の笑みで言い切った。
お通しした? ということは、フェルは勝手に門と玄関が開いたという異常現象を体験した、と。
何、良いことしました、みたいなドヤ顔してやがる、てめぇ。
「レンヤ、あの……このことはさ……」
フェルが何か喋り始めようとしているけど、もう何にも聴こえない。ただ、プチンと切れた。
「……集合」
【レ、レンヤ? おお、落ち着くのじゃ】
近くにいるスミレが俺の苛立ちの雰囲気を感じ取ったのか、宥めにかかるけど、
「女! 集合!」
【ひぃっ!】と女が恐怖と戦慄で顔を歪める。
「ど、どうしたんだ、レンヤ? 声を荒げて……落ち着け?」
「うるせぇ! あの{ピー}に言わせろ! 殴らせろ! ブチのめしてやる! こら、{ピー}! てめぇ、俺に存分にやられたいのか! 今からやってやるから早く集合しろ!」
【レンヤ! やめよ!】
「てめぇが来ねぇのなら俺から行ってやるわ! そこを動くなよ! {ピー}のようにバラバラ解体粉みじんにして、{ピー}の餌としてばら撒いてやる! {ピー}の{ピー}になったら肥料にしてやるからそれだけでも感謝しろ!」
「落ち着くんだ、レンヤ!」
【やめるのじゃ、レンヤよ!】
スミレが暴れる俺の身体を後ろから取り押さえてくる。
「離せ、こらっ! 邪魔なんだよ、てめぇ! あの{ピー}をブチのめせないだろ! それとも何か! てめぇからブチのめしてやろうか!」
【ダメじゃ! たとえ殴られようとも離さぬ!】
「落ち着け、レンヤ! 〝彼女〟は悪くない! それに、違うんだ!」
「悪くない? 違う? 何がだ? 俺がイラつく奴はそこの(ピー)しかいねぇぞ! 誰だ! 言ってみろ! 間違ってやがったら、てめぇをブチのめしてやるからな!」
「俺は知っているよ! 〝彼女〟のことは前から! ずっと前から気付いていたんだ!」
「気付いているだぁ! ……え?」
――……フェルが気付いている? 女を前から? 知っていた?
という思考によって、俺の身体が止まる。
「俺は彼女のことは前から〝視えていた〟! 今、君を押さえてくれている〝女性も視えているんだ〟、俺は!」
「フェル……。君、この二人が視えているのは、本当、か?」
コクリと頷いて応えるフェルの姿に、俺の冷静な部分が蘇ってくる。
「初め、から?」
「うん、そうだ。ごめん、黙っていて……」
「いや、違……僕も、ごめん……」
冷静な部分じゃなかった。呆然、漠然としたものが覆いかぶさった感覚に陥ったのだと思う。
【とりあえず、話し合いの場を設けようではないか】
スミレに言われて黙って頷く。女は耳を両手で覆い隠し、ただ蹲っていた。
リビングのソファーに腰掛け、俺たちは話し合った。
女のこと。スミレのこと。フェルのこと。俺のこと。ここ最近のことを。
【なるほどのう。小さい頃から視えておったが、怖いから視えないフリをしておったのか。まあ理由もわからず幽霊が視えれば、そうなるのう】
「はい。でもまさか、レンヤも視えていたなんて驚きましたよ」
「俺もフェルが視えていたなんて驚き。どうして言ってくれなかった?」
「そういうレンヤだって隠していた。お相子だ」
「いや、そうだけど……」
親友であるフェルに隠し事をされていたけど、なのにさっぱり怒りの気持ちが沸いてこなかった。
それは当たり前か。俺も隠していた。口調も本当の自分らしいほうになっているし、逆にどこか、安心感みたいなものさえ生まれている始末。違和感はなく心地がいい。
【しかし、フェルとやら。あのレンヤを見て、よう驚かんかったのう? 幽霊が視えるというより、あちらの方が驚くと思うのじゃが】
いや、一度だけフェルは見たことがある。
「昔、一度だけ見たことがあります。でもその時は、驚くというより単純に〝怖かった〟です」
懐かしそうに言うフェル。
【そうじゃ、な。ワシも怒られたから気持ちがわかる。しかし、危ない奴じゃのう、レンヤは】
「ああ、俺もそう思う。俺が他人様だったら、俺のような奴とは絶対に関わろうと思わない。できることなら、鎖で簀巻きにして牢屋に放り込んでおくよ。危険物だからな」
【自身のことをそこまでわかっておるのに……。それは何ともならんのか?】
「なろうと努力はしている。けど」
【けど?】
「あまり成果はないと思う」
【ダメではないか】
「まあ、そう言わないでくれ。だから……」
俺はソファーから立ち上がり、話し合いをしている中、一人まったく喋らない奴のところの前に行く。
黙って俯く女――俺は床に正座をし、
「すまない。俺が悪かった」
【え……?】
頭を下げる。仕出かしたことに対して俺は謝らないといけない。俺が抑えられない衝動を勘違いでぶつけてしまったから。非があるのは俺。
「先ほどのことは俺の勘違いだった。怒鳴ったりして悪かった」
【え? あ、ああの……?】
何を言われても、どんな暴言を浴びせられても受け入れる覚悟はある。
【いいですよ、そんなこと。私も、いつもあなたに迷惑を掛けていますから……。ね? この話もお相子ということで】
お相子? 俺はゆっくりと頭を上げ、
「いいのか? 俺としては、殴られても、暴言を吐かれても文句は言えない立場なんだけど?」
【全然いいですよ。私は怒りません。だから、あなたは気にしないでください】
俺にとって優しく、安堵を与えてくれる言葉。
「そうか。ありがとう」
【……は、はい……】
女はジッと俺の目を見つめて頷いてくれた。
次だ。まだ終わっていない、と今度はフェルに。
「フェル。ごめん。迷惑かけた」
「俺は気にしていないよ」
「本当か?」
【大丈夫じゃ。フェルも分かっておる。自分の非を認めることはそうできるものではないからな】
「ああ、そうだよ」
「そうか」
フェルも優しい。あとは……、
【よし。話しも終わったところじゃし、レンヤ、フェル? ワシの料理を食べてから出掛けるがよい。さっそく温めなおしてやるぞ】
スミレが立ち上がる。が、俺は最後の一人に、
「いや、待ってくれ、スミレ」
【何じゃ? もしかして食べぬと言うつもりか? もう、いい時間じゃぞ? ちゃんと規則正しく食事をせんと身体に……】
「いや、違う。最後まで筋は通さないといけない。スミレ、迷惑掛けてすまなかった」
【ワシは迷惑を掛けられた覚えはないぞ】
「いや、スミレには迷惑を掛けた。あの時、俺はフェルが相手でも言葉通りブチのめしていたと思う。もちろん、スミレも、な。でも、それでもスミレは俺を押さえてくれた」
わかる。俺はそういう奴だから。間違いなく言葉通りやっていた。
【気にすることはない。ワシは、〝年長者〟として当たり前のことをしたまでじゃ】
「……そうか」
【そうじゃ。だから、もう謝りの言葉はなしじゃ。さて二人とも、こっちに……】
「スミレ」
【何じゃ?】
「ありがとう」
【う、うん……。い、いや、だだ、だから大丈夫じゃと言うておろう。さっ! ふふ、二人ともこここ、こっちに来るがよいぞ!】
「ああ。ありがたくいただきくよ」
そそくさとキッチンへと向かうスミレ。
スミレも優しいな、と思った。と同時に、俺だけが優しさとは無縁のようだ。俺は、こんな風に穏やかに優しく他人を許せるようなことはできないと思うから。
――メシ食ってお墓参りに行こうか、と頭を切り替え、立ち上がると、
「……何?」
【――……】
ジーとした目で俺を凝視する女。なぜか、どうしてか、不貞腐れている雰囲気を振り撒いているのを感じるのは気のせいか?