プロローグ
プロローグ
コンコン、と何かを小刻みよく叩く音で眠気と覚醒の薄い膜みたいなものが頭に広がった。目覚めていないけど、頭の中はまどろんでいる感じ。
無意識にモゾモゾと身体を動かして寝返りを打つと、
「ねぇ、レンちゃん? 珍しくいつまで眠っているの?」
ゆったりとした長い波長みたいな感じの幼さが残る声。
ちゃん付けで俺の名を呼ぶな。珍しいと思うのならそのまま寝かせておけ。と声だけ聴こえる母さんに内心思う。
「日曜日とはいえ、もう十時過ぎているのよぉ。起きてもらわないと、朝ごはんが片付かないからぁ、お母さん、困るんだけどぉ?」
朝ごはんを昼ごはんとして置いておけばいい。何の為に冷蔵庫と電子レンジがこの世の中にあると思っているんだ。文明の利器を使え。
今は眠たくてしょうがないんだ、とベッドの中から一応右手だけを合図として挙げて振った。
「あらあらぁ? これは珍しいわぁ。こんなに反応が鈍いレンちゃんを見られるなんてぇ。今日は部活動がないからかしらぁ?」
おい、声が近い。近くに来るな。どういう舌回りの口調だ? 三〇過ぎたロリ声とか、悪寒しかしないから一々耳元近くで喋るな。
早く出て行け、という意味でもう一度右手を挙げて振る。
「レンちゃん、ちゃんと毎日自分で起きるからぁ、こういう寝惚け姿は新鮮味があっていいわぁ。レンちゃんの違う一面を知って得した気分ねぇ」
イラっとした。お前が得をするのはスーパーの特売ぐらいだろうが。違う一面が観察したいんだったら、一〇〇メートルぐらい離れて俺に気付かれずに双眼鏡で観察しろ。
「まあぁ、起きてくれたみたいだからぁ、お母さん、先に下に行っているわねぇ。早く降りてきてねぇ」
言い残してパタンと扉が閉まる。部屋から去って行ったよう。
全然意味が伝わっていない……。
一瞬心に思うけど、あれで伝わるわけがない、と今更ながら思いに至り、それでも頭がまだ上手く回らないし面倒だから毛布を頭まで被ってもう一度まどろみを消した。
ガンッ! と一際大きい音で再度まどろむ。
――今度は誰?
「レン!」
一際強気でうるさい。今度は姉貴か……面倒な奴が来やがったな。
「レン! 母さんがキミを起こしにきただろ! さっさと起きてきなよ!」
男にも勝る勝気な男言葉――騒音問題として訴えられるものが、毛布越し俺の耳元で叫ばれる。
近所迷惑だから声のボリュームを下げろ。おしとやかな女らしい喋り方をしろ。
この家の女は、俺が珍しく起きてこないだけでこうも俺の部屋に了解も得ずにズカズカと侵入して耳元で喋るんだ?
「起きているんだろ!」
と毛布が勢いよく剥ぎ取られる。俺は目を閉じて少し険しい苦しそうな表情をした。
「レ……、ねえ? お、起きていないの……?」
「姉さん、おはよう。ごめん。母さんが起こしに来てくれたんだけど、何だかちょっと頭痛くて起きれなくて、さ……」
「え? もしかして、風邪か何か? しんどい? 大丈夫か?」
「大丈夫。でも、母さんや姉さんに面倒かけて、ごめん」
「ボクのことはいい。いいんだよ。それより、レン? 今日はゆっくり休むんだ」
フンワリとしたものが俺の上に被さる。剥ぎ取った毛布を被せたのだろう。
「何か欲しいものあるか? 食事は? あ、飲み物とかのほうが……?」
「いや、何もいらないかな。今は少し寝たい」
「看病は……いる?」
「そこまでしなくてもいいよ。眠ればすぐ治るだろうし」
お前に看病されると仮病が本当の病気になる。
「気持ちだけ貰っておくよ、ありがとう」
「そう……。じゃ、じゃあボク、下に行っているから。何かあったらすぐ呼ぶんだぞ」
「ありがとう、姉さん」
「すぐだよ。すぐ呼べよ。いいか?」
少し右手を挙げてそれに応える。薄っすらと開けた目の先の姉貴は、眉間にシワを寄せた不安な顔で立ち上がり、こちらの様子を伺う素振りを止めない。
いつまで見てやがる? 心配し過ぎだ、と思いつつ何も言わずにいると、姉貴はようやく、ようやく静かに扉を閉めた。
部屋が静かになって……。
ちんたら、ちんたらとしやがって。しんどいフリをしているんだからさっさと部屋から立ち去れ。もう部屋に施錠が欲しい。二個ぐらい欲しい。
でもまあ、これで今日は起こされることはないだろうし、思うまま眠れる。
と、安堵すると唐突に大きな欠伸。右手を頭部に差し伸ばし頭を掻く。
さあ、寝よう、寝よ……ん?
頭部側の壁面の窓から俺が寝ているベッドに降り注ぐ日差しに照らされて、光る赤い線みたいなものが半分眠気眼に映った。俺はしかめ面しているだろうと思う。
右手小指に艶やかな赤――その色をした糸が結ばれていたから。
何だ? 誰か結んでいったのか? イタズラか? と左手で結びを解こうとするけど、なぜか解けない。
何だ、これ? 次第に腹が立ってくる。だけど、何かおかしいことに気付いた。赤い糸が壁から生えていることに。
何の冗談だ? と思いつつ、眠気もあってちょっとイラついた俺は、それを引っこ抜いてやろうと左手で赤い糸を引っ張る、と……俺の目は大きく見開いた。
近い、近い。眼前に近い。
野球選手がヘッドスライディングしたような格好で突如目の前に現れたのは、
〝長い赤色の髪を靡かせた人だった〟。