『猶予はあなたのもの』 第六章
橋の上には風しかなかった。
川面が光を刻んでいる。
柵の向こう側に、蒼が立っている。
細い背中。
制服の裾が揺れる。
「蒼」
振り向かない。
真白は息を整える。
「原稿、読んだ」
沈黙。
「よく書けてた」
「嘘だ」
小さな声。
「あなたは、ああいうの嫌いでしょ」
蒼は笑う。
子どもらしくない、冷たい笑い。
「希望とか、救いとか。
都合がいいって」
風が強くなる。
真白は柵に手をかける。
「……昔、同じことを言った」
蒼がゆっくり振り向く。
目の奥が乾いている。
「誰に?」
「守れなかった人に」
蒼は少しだけ眉を動かす。
「じゃあ、今回も守れないね」
その一言が、真白の胸を正確に刺す。
「君は選ばれる」
真白は言う。
「賞を取る」
「取ったら?」
蒼の声は静かだ。
「取ったら、僕は“正しかった”ことになる?」
沈黙。
答えられない。
蒼は柵に手をかける。
指が白い。
「先生はさ、僕の文章じゃなくて、
“僕の未来”を直そうとしてる」
真白は息を呑む。
図星。
蒼は続ける。
「でもね、僕、もう書けないんだよ」
声が震えない。
それが怖い。
「昨日、最後の一行を書いたとき、
ああ、これで終わりだって思った」
「終わりじゃない」
「終わりだよ」
蒼は初めて真白を真正面から見る。
その目は怒りでも絶望でもない。
空洞。
「先生が削ったあの一行、覚えてる?」
真白の喉が固まる。
覚えている。
『それでも、明日は来ると信じている』
「僕ね、本当は信じてない」
蒼の声が揺れる。
初めて。
「でも、信じたいって書いた」
風が止む。
時間が、止まったみたいに。
「先生は、嘘だって言った」
真白の心臓が大きく鳴る。
あのときの会議室。
「甘い。
リアリティがない」
確かに言った。
「だから僕、消したよ」
蒼は笑う。
泣きそうな笑い。
「信じてないんだから、書く資格ないって思って」
沈黙。
川の音だけ。
真白は理解する。
蒼は死にたいのではない。
書けなくなったのだ。
信じられない自分を、
肯定できなくなった。
「……嘘でいい」
真白は言う。
蒼が瞬きをする。
「信じてなくていい。
願いでもいい。
都合がよくてもいい」
言葉が震える。
「書くのは、
まだ来ていない明日を書くことだ。」
蒼が動かない。
真白は続ける。
「でも、その嘘が、誰かを一日だけ生かす」
佐倉の一行が浮かぶ。
生きていることが、すでに救いだと
真白は初めて、自分の否定してきた言葉を抱きしめる。
「僕は間違ってた」
風が、止む。
「正しさで削ってきた。
でも、正しさは人を生かさない」
蒼の指が震える。
柵を握る手が、少しだけ緩む。
「先生はさ」
蒼の声が、かすれる。
「僕の嘘、許してくれる?」
真白は即答する。
「許す」
「本当に?」
「僕が信じる」
沈黙。
一秒。
二秒。
蒼の足が、ゆっくり柵の内側に戻る。
真白は息を吐く。
その瞬間。
背後から声。
「時間はまだ残っています」
振り向く。
老人が立っている。
穏やかな顔。
「選びましたね」
真白はポケットを見る。
【残り00時間00分】
数字が消える。
代わりに、何も表示されない。
「終わりですか」
真白が問う。
老人は首を振る。
「始まりです」
蒼が地面に座り込む。
涙が、やっと落ちる。
子どもの泣き方。
真白は隣に座る。
触れない。
ただ、隣にいる。
川の向こうで、朝の光が差す。
蒼が小さく言う。
「もう一回、書いてみる」
真白は答えない。
ただ、頷く。
遠くで電車が走る。
世界は続いている。
偶然ではない。
選択だ。




