『猶予はあなたのもの』第五章
橋へ向かう足を止めたのは、恐怖ではない。
“まだ知らないまま行ってはいけない”という直感だった。
真白は踵を返す。
向かった先は、編集部ではない。
自宅。
真白は押し入れの奥から、もう一つの箱を出す。
蒼ではない。
別の原稿。
五年前。
新人賞の最終候補。
ペンネーム:佐倉透。
地方の高校教師。
三十七歳。
家族持ち。
提出された長編は荒削りだった。
だが、最後の一章に、
胸を締めつける一文があった。
「生きていることが、すでに救いだと
いつか言える日が来ますように」
真白はそのとき、赤で書いた。
――感傷的すぎる
――救済に逃げるな
――テーマが弱い
会議で言った。
「この作品は甘い。
文学は願望を書く場所ではない」
佐倉は落選。
その三か月後。
新聞の片隅に小さな記事。
《市内高校教諭、自宅で死亡》
過労と鬱。
自殺。
直接の因果はない。
わかっている。
だが。
落選後に届いた一通のメール。
もう少し書き続けてみます、と言いたかったのですが、
どうしても自信が持てませんでした。
僕の言葉は甘いのでしょうか。
真白は返信しなかった。
忙しかった。
“仕事”だった。
だが今、
そのメールの文面が、
蒼の手紙と重なる。
そして少年の声と。
「あなたが“正しかった”世界の数だけ」
真白は壁に手をつく。
呼吸が荒い。
蒼は六回。
だが、
佐倉の未来は一度きり。
ループはない。
猶予はなかった。
真白は初めて認める。
蒼を救うことは、
贖罪ではない。
佐倉は戻らない。
少年の輪郭が揺れる。
あれは蒼の未来だけではない。
言葉を折られた無数の可能性。
真白は呟く。
「私は、選び続けてきた」
削ることを。
切ることを。
正しさを。
その積み重ねの先に、
あの老人がいる。
もしあれが未来の自分なら、
それは“積み上げた正しさ”の末路。
真白は涙を流す。
初めて。
蒼のためではない。
佐倉のためでもない。
自分の言葉の重さを、
やっと引き受けた涙。
【残り3時間02分】
数字は減る。
佐倉のメールを閉じたあと。
真白は、もう一通の封筒を思い出す。
差出人は、佐倉の妻。
開封せず、箱にしまったままだった。
震える指で、封を切る。
便箋は一枚。
丁寧な字。
長い文章ではない。
その最後に、たった一行。
あの人は最後まで「先生の言葉は正しかった」と言っていました。
真白の呼吸が止まる。
責めていない。
恨んでもいない。
ただ、事実だけ。
「正しかった」と、あの人は言っていた。
真白は椅子に崩れ落ちる。
涙が落ちる。
言葉は刃物ではない。
正しさの形をした、重りだ。
蒼の六回はループする。
だが佐倉は戻らない。
あの少年は、
蒼の未来だけではない。
佐倉の、
名も知られぬ誰かの、
折れた言葉の集合。
真白は初めて理解する。
赦しを求めていたのは、自分だ。
蒼を救うことで、
過去を軽くしようとしていた。
だが猶予は違う。
猶予は、
未来を選び直す時間だ。
【残り2時間59分】
真白は立ち上がる。
橋へ向かう。
今度は、
贖罪ではない。
選択のために。
橋へ向かう。
少年の輪郭が、心の奥で揺れる。
彼はまだ“未選択”。
蒼が生きるかどうかで消える存在。
だがそれだけではない。
もし蒼が生きても、
真白が言葉を変えなければ、
少年は形を変えて残る。
“未来の誰か”として。
真白は走る。
夕方の光が傾く。
川が見える。
橋のシルエット。
小さな人影。
【残り2時間12分】
真白は思う。
今から言う言葉は、
蒼だけでなく、
まだ名前も知らない誰かに届く。
少年の正体は、
蒼の未来ではない。
真白の言葉が生み出す未来そのものだ。
橋の上に蒼が立っている。
風が強い。
空が低い。
真白は叫ぶ。
「蒼!」
彼が振り向く。




