『猶予はあなたのもの』 第三章
エレベーターが一階に着く。
扉が開く。
真白はそのまま外に出る。
橋へ向かうべきだ。
わかっている。
だが足は、反対方向へ曲がる。
駅前の雑踏。
コンビニの角。
その先の古いマンション。
三年前ではない。
五年前。
真白は立ち止まる。
ポケットの写真。
【残り15時間12分】
減っている。
時間は待たない。
それでも、足が向く。
自宅。
押し入れの奥。
段ボールを引き出す。
蒼の原稿ではない。
別の名前。
佐倉透。
新人賞最終候補。
三十七歳。
高校教師。
家族あり。
原稿は荒かった。
だが最後の一章に、忘れられない一文があった。
「生きていることが、すでに救いだと
いつか言える日が来ますように」
会議室で真白は言った。
「感傷的です。
文学は願望を書く場所ではありません」
赤字。
線。
削除。
落選。
三か月後。
新聞の片隅。
《市内高校教諭、自宅で死亡》
過労と鬱。
因果はない。
直接ではない。
そう言い聞かせた。
だが、落選後に届いた一通のメール。
画面に焼きついている。
僕の言葉は甘いのでしょうか。
もう少しだけ書き続けても、いいでしょうか。
真白は返信しなかった。
忙しかった。
それが仕事だった。
箱の底に、もう一通。
未開封の封筒。
差出人――佐倉の妻。
いま、初めて封を切る。
便箋一枚。
長い文章ではない。
最後の一行。
あの人は最後まで「先生の言葉は正しかった」と言っていました。
真白の視界が揺れる。
責めていない。
恨んでいない。
ただ、事実。
正しかった。
だから、折れた。
【残り14時間48分】
数字が減る。
真白は理解する。
蒼だけではない。
自分は、削ってきた。
願いを。
余白を。
誰かが「救い」と呼んだものを。
少年の声がよみがえる。
「あなたが“正しかった”世界の数だけ」
あれは蒼の未来だけではない。
佐倉の未来。
名も残らない原稿の未来。
折れた言葉の数。
真白は箱を閉じる。
これは贖罪ではない。
蒼を救えば帳消しになる話ではない。
だが。
橋へ向かわなければ、
また一つ増える。
【残り14時間32分】
真白は立ち上がる。
今度は迷わない。
部屋を出る。
ドアを閉める。
階段を駆け下りる。
猶予は、自分のものではない。
渡された時間だ。
誰かの未来を削らないための。
外の空気が冷たい。
橋が、遠くに見える。




