35話 霧の朝と、拳を上げる者たち
街を襲ったその日は、終わらないまま夜に入った。
瓦礫は片づけきれず、火の消えた屋台も、
割れた石畳も、すべてが「途中」のままだった。
だからこそ、この夜は、準備の夜になった。
翌朝、空は淡いピンク色に染まり、城下町には雲海が広がっていた。
昨日の被害は視界から消え、まるで何事もなかったかのように、
街は静まり返っている。
エミナの邸宅の横、高台の一角。
臨時の集結地に、人々が集まってくる。
シーナも、そこに立っていた。
ふーぴょんが弓を背負い直し、
しろっぷが耳の毛並みを整える。
ドランは皆の武器を順に確かめ、
ヴィレットは魔人城までの道のりを静かに確認している。
テンは、いつものように小さく丸まっていた。
そこに、ユリウスが現れた。
「ユーリ、来てくれたのね」
シーナが静かに語り掛ける。
「当たり前だよ」
鎧は王室のものではない。
一人の剣士としての構えだった。
「シーナ……行くんだね」
声をかけたのは、ラピだった。
夜風に揺れる髪を押さえながら、不安を隠しきれていない。
「大丈夫?」
「うん」
シーナは、短く頷いた。
「戻ってくるから」
メリッサが、少し強めに腕を組む。
「無茶はしないで」
それでも、最後には微笑んだ。
「ちゃんと、食べてね」
「それだけは、忘れないで」
エアが一歩前に出て、ユリウスとシーナの前に立つ。
近衛騎士団長としての顔だった。
「城と街の防衛は、我々が引き受けます。
城門、倉庫、給水路、どれも落とさせません」
「シーナさん……無理はなさらず」
「ここは、私たちが守ります」
その言葉には、覚悟だけがあった。
ユリウスとともに来た、ランス副首相。
ユリウス不在時は、首相代行にすでに任命されている。
「私も一緒に行きたいが、若、頼みますぞ」
「爺、留守は頼むぞ」
「はっ」
そのとき、ヤクスが荷車を押して現れた。
「シーナ、間に合った。ほれ、これも持っていけ」
袋、樽、包み。
乾燥肉、保存野菜、穀粉、調味用の油。
ひとつひとつ、きちんと選ばれている。
「道中、腹が減る」
「それだけで、判断を誤る」
「ありがとうね」
シーナは、静かに礼を言った。
「これ、学校のみんなで作ったから、持って行って」
ミルルも、バターやチーズを持たせてくれる。
「ありがとう。大事に頂くね」
そして、深く息を吸った。
「……食の籠」
次の瞬間、空間が揺らぎ、収納が展開される。
肉、野菜、香辛料、水、塩、パン。
下処理済みの食材が、隙間なく詰め込まれた。
冷蔵庫代わりの空間は、これ以上ないほど満たされている。
「向こうで、補給は期待できない」
「だから、みんな食事は切らさない」
ラピが、小さく笑う。
「……ほんと、シーナらしい」
メリッサが目を伏せる。
「必ず、戻ってきて」
「まだまだ、やるべきことがあるからね」
エミナが祈りを捧げながら、静かに声をかけた。
シーナは、一人ずつ、顔を見る。
そこに、一人の神官が現れた。
ルシアン・ヴァル=エリオス。
何かあるたびに、シーナの前に立ち塞がってきた存在。
「私も同行する」
大司祭という立場で神殿を離れるなど、誰も想像していなかった。
その声音には、決意でも勇気でもなく、ただ判断だけがあった。
「この中に、回復魔法を行使できる者はいるか」
問いは確認であって、期待ではない。
皆が顔を見合わせ、首を振る。
「そうか」
一拍。それだけで、結論は出ていた。
「ならば、後衛支援は私が担う」
「役割が不足したまま進軍するのは、合理的ではない」
誰かを鼓舞する言葉ではなかった。
事務的にも思われる言葉の裏は、わからない。
ルシアンは、その場の誰とも視線を合わせなかった。
仲間を見るでもなく、敵を想定するでもない。
彼の真意は、今は誰にもわからない。
ルシアンは、何かを準備していることも、
誰にも理解されないことも、計算のうちだった。
「……行こう」
ユリウスの一言に、全員が静かに頷いた。
ただ、一歩、踏み出す。
陽が少しずつ上り始める。
もう、誰一人、迷いはなかった。
魔人の城へ向かう道が、静かに彼らの前に伸びている。
全員の足音が、静かに街に響いた。
「絶対、帰ってきてね!!」
角を曲がる直前、ラピが大きな声で叫ぶ。
パーティの全員が、右手を高く掲げ、拳を突き上げた。
◇
合流したルシアンによると、魔人城までの道のりは、
数日を要すると言う。
この日は、谷を、川沿いを、湖畔をひたすら歩く。
途中、モンスターとの戦いもあったが、
このパーティの敵ではなかった。
森は、恐ろしいほど静かだった。
森は、多くの人々から恐れられていた。
少し森を抜けた湖畔で、ユリウスが声をかける。
「今日は、ここを野営地にしよう」
誰もが重い足取りを止め、頷く。
焚き火の音。
風が草を撫でる音。
誰かの鎧が擦れる、微かな金属音。
さあ、出番だとシーナが顔を上げる。
みんなを元気にする時間。
自分にできること、それは――。
「……料理を作ろう」
「ヴィレット、手伝ってくれる?」
「かしこまりました。」
シーナは鍋を火にかける。
手だけが、迷いなく動いていた。
アイテムボックスから、玉ねぎ、人参、かぶ。
乾燥させた香草。
水を注ぎ、火を弱め、蓋をする。
「この匂い……ポトフだね」
ふーぴょんが、笑みを浮かべる。
この世界で、初めて作った料理。
しろっぷを救った、あの料理。
鍋から立ち上る匂いに、誰も言葉を発さないまま、
少しずつ、薪の前に集まり、距離が縮まっていく。
器が配られ、順に受け取られていく。
ユリウスも、黙って器を受け取った。
一口。
それだけで、呼吸が、少しだけ深くなる。
「うまい! やっぱり、いいね」
ふーぴょんは、最初の一口のあと、
言葉を挟まず、もう一口を運ぶ。
「……温かい。これは体に、しみわたるな」
ぽつりと、ドランが言った。
「こういうのは、久しぶりね」
しろっぷは、静かにスプーンを動かしている。
テンは、シーナの肩から降り、
椀に盛られたスープをなめ、野菜をほうばる。
「なるほどな」
ヴィレットが、ふっと息を吐く。
「不思議ですね。戦の前なのに、身体も心も落ち着いていく」
ルシアンが、索敵で皆を確認したようだった。
「確実に、皆のHP回復とステータス上昇が見られる。
やはり不思議な加護だ。……興味深い」
シーナは、ただ鍋を見ている。
食べる音だけが、続く。
ただ、この戦いの前なのに、皆が笑顔でいる。
それで、よかった。
食べ終わる頃には、焚き火の音が、
少しだけ、穏やかに聞こえていた。
ユリウスが器を置き、夜空を見上げる。
「ご馳走様。本当においしかった。
それに、城で食べたどんな料理よりも力になる」
少し間を置いて、続ける。
「城の食事は、腹は満たされても、
前に進む力には、ならなかった」
シーナは、ようやく顔を上げる。
「食事は、生き延びるためだけのものじゃない。
進むために、あるの」
「明日を選び、立ち上がるために」
ユリウスは、短く息を吐いた。
「……一緒に行こう」
「最後まで」
誰も、異を唱えない。
火が、少し小さくなる。
見張りの交代が行われ、それぞれが、静かに横になる。
誰の中にも、焦りはなかった。
夜は、深くなる。
遠く、山の向こうに、魔人の城がある。
残っているのは、
明日、進むことだけだった。




