34話 黄昏の終わりと、魔人の名
悲鳴は一つではなかった。
遅れて、いくつも重なって聞こえてくる。
屋台の布が裂け、木箱が倒れ、
人の流れが一気に逆巻いた。
「落ち着いて! 走らないでください!」
ユリウスの声が、街の中央を貫く。
いつもの演説口調ではない。
短く、強く、指示だけを飛ばしていた。
「北門へ! 子どもと年寄りを先に!」
「兵は通路を作れ! 左右を空けろ!」
混乱の中で、街はまだ生きていた。
誰かが叫び、誰かが従い、
人の流れが、形を持ち始める。
その様子を一瞬だけ確認して、
シーナは馬を借り、踵を返した。
「……ふーぴょん」
エミナの公邸へ向かう途中、
街の異変を感じ取った仲間たちが、
すでに戦闘の準備を整えて出てきていた。
「ふーぴょん、しろっぷ! ドラン! ヴィレット! テン!」
名を呼ぶ。
それだけで、十分だった。
彼らはもう、説明を必要としない。
この街で、何を守るべきかを知っている。
「行こう!」
「なんなんじゃ、あの禍々しい生き物は」
「わからない。今、ユリウスが止めてくれている」
「まず市街地から引き離そう」
「避難路を潰させない。屋根の上を使う」
「合図があったら、一斉に」
短い言葉が、瞬時に共有される。
魔人が、動いた。
足音はない。
宙に浮いている。
地面が沈み、空気が歪み、
影が街灯を呑み込む。
「……大きいな」
しろっぷが低く呟く。
その声に、恐れはなかった。
ふーぴょんが一歩、前に出る。
弓を引くと、風が集まり、
路地の砂塵が巻き上がった。
「来るよ」
次の瞬間、
建物の一角が吹き飛ぶ。
瓦礫が降り注ぎ、
人々の悲鳴が、再び跳ね上がった。
「今!」
テンに跨り、
上空から状況を見下ろしていた
シーナの声で、全員が動く。
ドランが前に出て、
衝撃を正面から受け止めた。
地面に亀裂が走るが、
一歩も退かない。
ハーフエルフのヴィレットが
疾風のように側面から回り込み、
魔法を放つ。
魔人の注意を、
街の外へと引きずり出す。
ふーぴょんとしろっぷは、同時に跳んだ。
「風を我が命として放て――ウインドアロー!」
「受けてみなさい――グリフォンアロー!」
速さと重さ。
異なる二つの攻撃が、
魔人の視線を分断する。
それでも、魔人は引かない。
「一体、なんなんだこの強さ」
「ダンジョンでも出会ったことがない」
「……ええ。私も、初めて見る」
ヴィレットが呟いた。
――避難は、続いている。
ユリウスの声は、まだ聞こえる。
街は、完全には崩れていない。
なら、やることは一つ。
この場で止める。
街の外へ、押し出す。
シーナは息を整え、前を見据えた。
「テン、お願いね……行こう」
柔らかな時間は、突然終わった。
シーナは、怒っていた。
◇
避難の流れは、
城下の外周へと移っていた。
近衛騎士団長エアの号令が、
通りを切り分ける。
「第二防衛線を展開!」
「負傷者は後方へ! 盾列、間隔を詰めろ!」
混乱の中でも、兵たちは動きを止めない。
訓練された足取り。
そして、シーナの食事を口にし、
力を底上げされた兵士たち。
それが、
街に残された最後の秩序だった。
ユリウスは一度だけその様子を確認すると、
剣を抜き、シーナたちのもとへ駆けた。
「ここから先は、俺が前に出る」
「ユーリ……」
言葉は短い。
それで、十分だった。
魔人が、低く笑った。
笑い声は喉からではなく、
歪んだ胸腔の奥から、
空気を震わせて漏れ出る。
「……ほう。まだ抗うか、弱き者たちよ」
その姿は、人の輪郭を辛うじて保っている。
だが、四肢は不自然に伸び、
肌は硬質化し、
魔力が血管の代わりに走っていた。
「姿は変われど……その声……」
ユリウスが、息を詰める。
「もしや、お前は――」
魔人は、ゆっくりと顔を上げた。
「わっはは……今頃気づいたか、妾の子よ」
「かつて、この国の王子だった者」
「今は、この世の歪みを背負う存在だ」
ひび割れた口が、名を紡ぐ。
「――エンカルだ」
一瞬、すべての音が消えた。
「……なんて、醜い」
誰かの呟きが、落ちる。
「哀れだな」
しろっぷの声は、低かった。
「力を求めて、全部捨てた結果が、それか」
魔人の肩が、わずかに震える。
「哀れだと?」
「違う。これは、進化だ」
魔力が膨張し、
街路の石畳が、
軋む音を立てて浮き上がる。
「俺は、この国の歪みそのもの」
「お前たちが整えた秩序を――」
「壊させない」
はっきりと、
シーナの声が割って入った。
「この街は、私たちの街」
「誰にも、壊させない」
テンが翼を広げ、上空を制する。
ふーぴょんの矢が、風を裂く。
しろっぷが踏み込み、間合いを潰す。
ドランが前に出て、衝撃を正面から受け止める。
ヴィリウスの魔法が、退路を限定する。
魔人の腕が振るわれ、
衝撃波が建物の壁を削り取った。
だが、致命打にはならない。
風が逸らし、
盾が受け、
結界が削れる。
「……ちっ」
魔人が、初めて舌打ちをした。
ユリウスが一歩、前に出る。
「……ここで終わらせる」
剣が振り下ろされ、
魔人の咆哮が、夜を裂く。
だが、
刃は決定的な位置には届かない。
魔人は、後退した。
「今日は、ここまでだ」
低く、響く声。
「城で待つ」
「次は、覚悟を整えて来い」
残されたのは、
夜の空気に染みつくような、
魔力の残滓だけだった。
瓦礫の上に、静けさが落ちる。
遠くで兵の足音が響き、
誰かが泣き止むまでの時間だけが、
長く伸びた。
エアの軍は、
夜のうちに街を封鎖し、
負傷者を運び、
灯りを戻していった。
街は、崩れなかった。
だが、眠れる状態でもなかった。
高台に集まった者たちは、
言葉を持たないまま、空を見ていた。
魔人が去った方向。
月明かりに浮かぶ、山影。
古びた城だ。
「……引いた、というより」
ヴィリウスが、ぽつりと言う。
「待つ、ね」
「逃げたわけじゃない」
「うん」
「準備してる」
しろっぷが、短く頷く。
ドランが腕を組み、低く息を吐いた。
「城に来い、ってな」
ユリウスは剣を鞘に納めたまま、
その影を見つめている。
「もう、あれを街に近づけさせない」
「王子だった頃の名で呼ぶのも、ここまでだ」
シーナは、少しだけ目を伏せた。
人の形をして、
人であることを失った存在。
醜かった。
そして、
取り返しのつかないところまで
行ってしまったように見えた。
それでも――
「……行こう」
全員の視線が、彼女に集まる。
「このまま待つ理由はない」
「次は、街じゃない。城そのものよ」
テンが小さく鳴き、
シーナの肩に身を寄せる。
「今度は、向こうの場所で終わらせる」
「魔人の城で」
沈黙が落ちた。
だが、それは迷いではない。
夜は深くなり、
城下の灯りを背に、
彼らは静かに、
進む方向を定めていた。
決着は、まだ先だ。
だが――
戻る道は、もうなかった。




