32話 脚気と、活気を戻す兵舎
国立ウルク栄養大学は、木の匂いから始まる場所だった。
ドランが手がけた校舎は、ヒノキで組まれている。
朝、扉を開けると、乾いた梁と床板が、ほのかに甘い香りを放った。
シーナは、自分が学んできた栄養学校の授業を必死に思い出し、
この世界に合うよう、皆と何度も考え直しながら、進めていく。
調理学では、メリッサは助教授としてその場に立ち、
食品加工学では、ミルルがチーズやバターの作り方を教えている。
食品学では、ヤギーが農業で得た知識を伝えていた。
医学については、まだ十分に発展していない。
それでも、臨床栄養学については、
シーナが覚えていた知識を、できる限り噛み砕いて教えていた。
正直、日本の大学のようにはできないかもしれない。
それでも、この世界では必要な学問だと信じ、
受け入れられるよう、皆で努力を重ねていた。
ラピは学生たちに交じって学んだが時は先生のよう
みんなに声をかけ、学生とともに授業をアップデートしていた
学生たちは、まず手洗いから徹底的に指導を受ける。
栄養失調や壊血病の患者は減り、
倒れる者の数が、目に見えて減った。
この学校の中では、
呪いと病気の概念が変わり、明確に区分されている。
学校では、石鹸と水で手を洗う光景が当たり前になり、
調理の前に酒で布巾を清める所作が、静かに広がっていった。
手に夜光キノコの絞り液をたっぷりつけて、
手洗いテストが行われる。
石鹸の泡をたっぷりつけ、手洗いをして、
高濃度の酒で爪先を消毒する。
光を消すと、手洗いができていないところが光る。
基本は手洗いであることを、
この国の文化にしていく。
石鹸の泡と水音が、
この国に新しいリズムを作っていく。
町は、少しずつ変わっていった。
給食堂は、城下に数十店舗を構え、
多くの日本給食の献立が提供されている。
工場や宿舎などにも併設されている。
市場に並ぶ品は増え、
チーズやバター、味噌や醤油、酒、
そして豆腐も並ぶようになっている。
栄養状態は改善され、
栄養失調や壊血病などは起きなくなっていた。
しかし、まだ栄養学校の知識までは、
町には浸透していない。
半年が過ぎた頃だった。
日が傾き、校舎に人影が少なくなった時間。
扉が、叩かれた。
迷いのない音に、
シーナは顔を上げ、立ち上がった。
扉の向こうに立っていた男は、
近衛騎士団長となったエアだった。
「シーナさん、もう限界です」
「限界?」
「兵が疲弊している理由がわかりません。
呪いが、また起きているのです」
「呪い?」
またこのパターン?
訓練はしているが、戦闘があるわけではない。
歩いていて、膝が崩れる。
夜、息が苦しくなり、目を覚まさない。
初期の症状は、
身体の倦怠感、食欲不振などに過ぎないが、
やがて多発性神経障害が起き、
ついには呼吸不全、
心不全によって死亡する者もいる。
神殿では、また「呪い」と言い始めている、と。
「では聞かせて。
今、どんな食事をしているの?」
「食事はしっかり与えています。
厄災が落ち着き、物資も回ってきている。
肉も食べているし、
きれいに精米した白米も与えています」
「なるほど」
「……ビタミン不足ね」
「ビタミン?」
「私も、学校や農政のことばかりで、
兵士さんのことは、
全く気が付いてなかったわ」
「ラピ、説明してあげて」
「はい。これはですね……」
「難しい説明ばかりでもね」
「料理をしましょ」
「ラピ、メリッサとヴィリスを呼んできて。
兵舎の厨房に行きます」
まずは、パリパリサラダ。
キャベツ、ニンジンは短冊切りに。
キュウリは輪切りにする。
切った野菜と、とうもろこしを
沸騰したお湯でさっと茹でる。
茹で終わったら、水冷する。
水冷し終わったら、
野菜の水気を切る。
固めにしぼる。
荒く精麦した小麦粉の生地を作り、
五ミリ幅ほどにカットする。
百七十度から百八十度の油で、
さっと揚げる。
余熱で色が入るので、
きつね色になる少し前で引き上げ、
油を切っておく。
揚げた皮は別によけておき、
食べる直前に混ぜるか、
サラダの上にのせる。
材料の肉や野菜は、
だいたい大豆に合わせた大きさに、
賽の目に切りそろえる。
鍋に油を入れ、
みじん切りにしたにんにくを炒める。
香りが出たら、
玉ねぎ、豚肉、ベーコン、
人参、じゃが芋も炒める。
玉ねぎが透き通ってきたところで、
トマト缶と水を加える。
大豆、塩、コショウ、
ケチャップ、砂糖を入れ、
じゃが芋が柔らかくなるまで、
コトコト煮る。
チーズとパセリをあしらって完成。
皿に盛られたのは、
麦入りの飯。
オークビーンズ。
パリパリサラダ。
オレンジ
牛乳
「さあ、皆さん。召し上がって」
最初は、ゆっくりと。
次に、確かめるように。
最初は、疑いが先だった。
「……うまいな」
誰かが、そう言った。
「いつもの、煮た肉をかけただけの飯じゃねえな」
「なんか、噂の女が作った料理らしいぞ」
「団長が、わざわざ頼みに行ったってやつか」
「でもよ、これで本当によくなるんか?」
箸は、止まらなかった。
「このサラダ、野菜だけじゃねえな」
「上にのってる、これ……パリパリだぞ」
「揚げた皮か?」
「このアクセント、口が飽きねえ」
「気づくと、いくらでも食べちまうな」
「……魔性のサラダだな」
別の卓では、鍋を囲んだ兵が声を上げた。
「このオークビーンズ、ひと口食べてみろ」
「……おお」
「トマトの酸味が、きつくねえ」
「まろやかだな」
「豆が、ほっくりしてる」
「オーク肉も、脂っこくない」
「噛むほどに、うま味が出てくる……」
誰かが、麦入りの飯を口に運び、言った。
「味が濃すぎねえのがいい」
「ごはんにも合うし」
「これ、パンでもいけるんじゃねえか?」
笑い声が、兵舎に広がった。
エアは、黙ってその光景を見ていた。
やがて、深く息を吐き、シーナに向き直る。
その日から、兵舎の食卓は、変わり始めた。
シーナの声かけで、学生たちを中心に、
兵舎の厨房でインターンが始まった。
シーナが考えた、
ビタミンB1を摂取しやすい大豆や豆腐を使った献立。
カレーライスには大豆が加えられ、
白米には精麦が混ぜられた。
パンは、全粒粉で焼き上げられる。
栗ご飯に呉汁、麻婆豆腐、豆腐ハンバーグ。
兵士への集団給食には、
学校給食の献立が、ぴたりとはまった。
三日。 一週間。
寝込んでいた者が起き上がり、
脚が、前に出るようになり、
息が、続くようになった。
誰一人、倒れなくなった。
「……ありがとうございました」
軍人らしく、簡潔な言葉だった。
シーナは、首を横に振った。
「これは、呪いじゃありません」
「脚気という、病気です」
兵たちの視線が、集まる。
「白米だけを食べ続けると、体が壊れます」
「これからは、パンも、雑穀も、豆も、果物も」
「一緒に食べてください」
「はい」
「来年には、大学の卒業生を
栄養士として配置しますね」
エアは、短くうなずいた。
シーナの献立で、
兵が、そして国が、変わろうとしていた。




