27話 ユリウスと、揺れる想い
彼の名は「ユリウス・ファン・デル・ウルク」
幼少のころは、城の中で浮いていた。
王の子でありながら、兄たちとは明らかに扱いが違う。
剣技に、魔法、非凡な才を発揮していた。
しかし周りの目は妾の子。
その言葉は、誰も口にしないが、
城の空気の中には確かに存在していた。
王子付従僕と呼ばれる役職の、
ランス・フェルゼンのみが彼を支えていた。
朝の稽古で兄たちに置き去りにされた日。
剣を落とし、膝を擦りむいた夜。
誰にも言えず部屋で震えていた時も、
ランスだけは、必ずそこにいた。
「殿下、泣くことは恥ではありません」
「立ち上がることを、やめるのが恥なのです」
そう言って、黙って傷を洗い、
剣の握りを直し、
誰にも見えぬ位置で背を支えた。
父である王は、距離を取った。
突き放すわけでもない。
かといって、近づきすぎることもない。
ほしいものは何でも与えられた過保護であるが、
無関心でもあった。
ただ、触れ方を間違えぬようにしている――
そんな距離だった。
だが、それは昔からではなかった。
正妃が亡くなり、
そして、ユリウスの母もまた、
立て続けに城から消えた。
王は変わった。
声を荒げることはなくなり、
感情を表に出すことも減った。
誰かを叱ることも、褒めることも、
等しく減っていった。
代わりに増えたのは、
沈黙と、決断の遅さだった。
母、ユリアは、元々貴族でも王族でもなかった。
ある大戦の帰途、負傷し、
身分も明かせぬまま立ち寄った街で、
命を救ってくれた娘。
名もない街の代々、教師をしていた家の娘。
強く、優しく、気高かった。
王は、彼女を忘れられなかった。
だが、城に迎え入れるには、
世界があまりに違いすぎた。
王は身分を隠し、街へ通ったという。
その後、ユリウスを授かったことを知る。
王女が不慮の事故で亡くなり、
後妻として城に導かれたが、
心労なのか病なのか、
母は早くに亡くなった。
母と城で過ごしたのは、
十を数えるほどの年。
ユリウスに残したのは、
たった一つの言葉だけだった。
――街を見て、人々の声を聞きなさい。
そして、目の前の人を守りなさい。
ユリウスは、その言葉を守った。
そして王もまた、その言葉を聞いていた。
「城に籠もるな、街へ行け。旅をしろ」
「民の声を、自分の耳で聞け」
それが、ユリウスに与えられた、
唯一の役目だった。
十五の時、ユリウスは街へ出た旅をした。
諸国を一年巡り、人々や村を見て回った。
剣の鍛錬も怠ることなく、
ひたすら自分と向き合った。
市場の喧騒、村の貧困。
路地で腹を空かせた子どもたち。
しかし、ある湖畔の村は違った。
人々は活気に満ち、市場には食材があふれ、
食堂があった。
その食堂で食べた
カレーライスという料理は、
城のどんな食事よりもうまかった。
そしてその店で生き生きと働く獣人たちと
一人の少女に目を奪われた。
その後も旅をつづけた。
ある村では、疲弊しきった大人たち。
城下町の活気も以前とは、比べられないほど静かだ。
城では決して見えない現実。
だがそれは、
第二王子の目には「戯れ」に映った。
「旅から帰ったら、また街遊びか。
いかにも妾の子らしい」
気にしないふりをして、
ユリウスは街や村へ通い続けた。
そして、あの日。
教会の人間に囲まれ、
逃げ場を失っていた一人の娘を見つけた。
湖畔の村で目にした少女だとすぐにわかった。
彼女を見た瞬間、助けるべきだと思った。
それが、シーナだった。
厄災が起きた後、
城は揺れ、街は崩れた。
多くの死傷者が出たが、
ここからが本当の危機だと感じた。
ユリウスは何度も城で訴えた。
民が苦しんでいること。
今、食の支援が必要なこと。
だが返事はいつも同じだった。
「時を待て」
「状況を見極めよ」
唯一話が通じそうな第一王子は遠征で不在だった。
何もできない間にも、街は疲弊していった。
王子という名だけの男。自分への確信が持てなかった。
そんな時、炊き出しの広場で彼女を見つけた。
村の少女、この街で、人々を支えていた。
近くにいたロザンヌ村の獣人に、半ば強引に声をかけられた。
「そこの若いの、手、空いてるかい?」
「なら、洗い物お願いでないか?」
断る理由はなかった。
ユリウスは、名を伏せ、
剣も地位も置いて炊き出しに加わった。
だが、何もできない自分が、
ますます浮き彫りになる。
包丁も満足に扱えず、火の前では腰が引ける。
それでも、シーナは寄り添い、声をかけてくれた。
目の前の難題を抱えながら、
若い彼女が、多くを背負っていた。
あの日、 何気なく放った一言で、
彼女を傷つけた。
ただ力になりたかっただけなのに。
せめて、役に立ちたかった。
だから、城へ行くと決めた彼女を見て、
今、立ち上がるべきだと思った。
そして、ちょっとしたきっかけだったが
炊き出しを、「すいとん」を、リュックに詰めた。
そして今、城に入るには、自分の立場が必要だと感じた。
今まで一度も、 王子という名が好きになれなかった。
だが、 門が開いた瞬間、自分に与えられたものの大きさを知った。
城の回廊は、相変わらず冷たい。
石の床は磨かれているが、 人の気配は薄く、音が響きすぎる。
――また、戻ってきてしまった。
瓦礫の中で過ごした日々を思い出すと、
この場所は、まるで別の世界のようだ。
焦げた木、 湯気と味噌の匂い。
あの広場には、人々の息づかいがあった。
だが、城には秩序しかない。
「第三王子殿下」
衛兵の声に、足を止める。
殿下。 その呼び方が、今はひどく重かった。
シーナの横で包丁を握っていた時、
誰も、俺をそう呼ばなかった。
バトラー(執事長)のランスに頼み、
給仕を説き伏せ、 すいとんを温め直してもらい、
タイミングを見て、温かいものを出せるよう策を練った。
シーナと一緒に王の間へ行けないと知り、
街にいた者の中にも、
彼女の炊き出しに協力していた者がいた。
城の衛兵に頼み、
装備を借りた。
父の前に立った時、
俺は、ようやく理解した。
――この国は、腐っている。
剣ではなく、
恐怖と疲労と、空腹によって。
シーナの言葉は、
ただひたすら、まっすぐだった。
それでも父は、動かなかった。
仮面を外す瞬間、
怖くなかったと言えば、嘘になる。
だが、それ以上に、
炊き出しの仲間たちを
裏切りたくなかった。
民の前では、
俺は王子である前に、
一人の人間でありたかった。
熱々の椀が仕上がった時、
手が震えた。
――これで、届かなければ。
彼女の料理を食べた人々の顔を、
俺は知っている。
目に光が戻り、背筋が伸びる。
もう一度、 前を向かせてくれる。
それが、どれほど異常なことか、
戦場を知る者なら分かる。
王の前へ。
あの椀は、彼女の料理であり、
街の声であり、母の願いのように感じた。
「目の前の人を守る」
そして――
ようやく、父が動いた。
もしかしたら母の声を聴いたのかもしれない
それが、第三王子ユリウスの、
長い回り道の、最初の答えだった。
シーナは、 最後まで寄り添ってくれた。
「役目を果たしただけ」
そう言って笑った少女は、
誰よりも多くを背負っていた。
城を出た後、 空は、少し明るくなっていた。
夜は、終わる。 だが、復興は終わらない。
そして、その原因も――
魔物の動きには、意志があり統率がある。
剣を取らなければならない。
争うことは、好きじゃない。
だが、 もう迷わない。
シーナから学んだんだ、守るとは、
剣を振るうことだけじゃない。
だが、これから俺がすべきことは、
剣を振るわねばならないかもしれない。
再び、あの湯気の中へ
明るい陽のあたる時にあの広場へ。
守られる側ではなく、
目の前の誰かを守る者として。




