1話 夢の中の私と、給食を終えた午後
この物語は、学校給食の現場で働く一人の栄養士が、
もしも異世界に転生したら、という発想から生まれました。
剣も魔法も使えない。
スマートフォンも、インターネットもない。
あるのは、自分の頭と、体に染みついた知識だけ。
それでも、人は生きていく。
食べて、学んで、誰かを思いながら。
この物語では、
「当たり前のことを、当たり前にやる強さ」を
大切にしています。
給食室の午後の静けさ。
一皿の食事が、誰かの一日を支えているという感覚。
そんな日常の延長線に、異世界を置いてみました。
少し不思議で、少し優しくて、
でも、ちゃんと現実につながっている物語です。
どうぞ、ゆっくり読んでいただけたら嬉しいです。
第1話
最近、同じ夢を見る。夢の中で、私は鍋の前に立っている。
白に近い色の服。白衣のようで、でも少し違う。
動くことを前提に作られた服で、
鍋を覗き込んでも歩いても、不思議と邪魔にならない。
落ち着いた色合いの中に、ほんの少しだけ可愛らしさが残っている。
実用的で、動きやすくて、それでいて
――ちゃんと、私の好みだった。
なぜかその服を着ている自分に、違和感はなかった。
火の音が、静かに耳に残る。
見たことのない野菜。知らない香り。
それなのに、手は迷わない。
「切っておいて、それはここね」
「今日は多いね」「火はこのくらいで」
誰に向けた言葉なのかは分からない。
それでも、短い返事が返ってくる気がする。
「みんなに元気になってもらわなきゃ」
理由は分からない。
でも、それだけは、はっきりしていた。
顔を上げると、見たことのない空が広がっている。
青くて、広くて、少しだけ怖い。
――ここは、どこだろう。
そう思った瞬間、夢は途切れた。
*
目を開けると、見慣れた天井があった。
アラームが鳴る直前。いつもより、少し早い時間。
「……まただ」
布団の中で、小さく息を吐く。
最近、こんな夢ばかり見る。妙に現実感があって、
目が覚めても胸の奥に何かが残る。
考えても仕方がない。
そう自分に言い聞かせ、しいなは体を起こした。
朝食を済ませ、髪をまとめ、外出用の白衣に袖を通す。
鏡の中の自分は、いつもと同じ、学校給食の栄養士だった。
*
午前中は、いつも通りに過ぎた。
朝礼、味見、アレルギー確認。
子どもたちの声が、教室から聞こえてくる。
昼の提供が終わり、片づけが始まる頃、
ようやく一息つく。そのとき、ふと気づいた。
明日の献立。玉ねぎと人参。
数量が、一部抜けている。
「……あ」
完全に、自分のミスだった。
今なら、まだ間に合う。
給食室を出て、外の用の白衣に着替え、職員室を抜ける。
職員室を出た瞬間、白衣の裾が午後の隅田川から吹く風に、
わずかに揺れた。ロング丈の白衣は、昼過ぎになると少し重たい。
それでも、そのまま校門へ向かう。
「今から、近くの八百屋まで行って
……発注、渡して……ちゃんと謝らないと」
白衣のポケットに、折りたたんだ発注票を入れ直す。
紙の角が指に当たった。
歩きながら、頭の中ではすでに明日の段取りが回っている。
来月の献立、給食だより、残食の傾向。
――明日はカレー。残食は、少ないはず。
校門を出ると、ちょうど下校の時間だった。
ランドセルの列が、ゆっくりと道路に流れていく。
その光景を見るだけで、胸の奥が自然と動く。
あの子は、カレーの日だけ必ずおかわりする。
あの子は、揚げパンが好きで口の端に粉をつけたまま帰る。
あの子は、給食が苦手だけど、
最近は少しずつ食べられるようになった。
名前も、顔も、声も分かる。
残食表の数字だけじゃない。
子どもたち一人ひとりが、しいなの仕事だった。
横断歩道の前で足を止める。
信号は、青。
「林くーん、はやくー!」
反対側から、少し焦った声が飛ぶ。
林くんが振り向き、ランドセルが揺れる。
信号が、青から黄色に変わる。
「……あっ」
その瞬間だった。
林くんが、一歩、車道に踏み出した。
大型トラックがこちらへ向かってくる。
低く、重いエンジン音。
運転席の男は、どこかぼんやりしていて前を見ていない。
「危ない!」
声より先に、体が動いた。
白衣の裾を踏みしめ、
しいなは駆け出す。
林くんの腕を掴み、思いきり引き寄せる。
間に合う。そう思った。
次の瞬間、強い衝撃。
視界が横に回り、音が遠ざかる。
地面が迫り、世界が白く弾けた。
倒れ込みながら、しいなは思った。
――よかった。あの子、無事。
それが、最後の意識だった。
*
冷たい。
背中に伝わる感触で、意識が浮かび上がる。
土の匂い。葉が擦れる音。遠くで、鳥の鳴き声。
「……?」
目を開けると、空があった。
青すぎるほどの青。
高い木々が、視界を縁取っている。
「……病院……?」
体を起こした瞬間、胸がひくりと跳ねた。
白衣がある。
破れて、汚れてはいるが、確かに着ている。
さっきまで、職員室で着ていたもの。
「……待って」
事故。トラック。衝撃。
白衣を、ぎゅっと掴む。
「……私、死んだ……よね」
「ひ、ひえぇぇっ!?」
横から、甲高い声がした。
反射的に振り向く。
そこにいたのは、二本足で立つ小さなうさぎだった。
長い耳。丸い目。
こちらを見て、同じくらい驚いている。
「……うさぎ?」
「ち、違う! うさぎの獣人! 僕はふーぴょん!」
森の中。
白衣姿のまま。
うさぎの獣人と向かい合っている。
しいなは、深く息を吸った。
「……落ち着こう」
落ち着けるわけがない。
でも、白衣は着ている。記憶もある。
「じゃあ……」
ここは、元いた場所じゃない。
それだけは、はっきりしていた。
あとがき
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
本作は、『学校給食未来録』で描いてきた
「給食」「食」「人を支える仕事」というテーマを、
少しだけ視点を変えて紡ぐ、新しいシリーズです。
舞台は変わり、世界も変わりますが、
大切にしているものは同じです。
食べること。
生きること。
学ぶこと。
そして、誰かの毎日を支えること。
前作を読んでくださった方には、
どこか懐かしさを感じてもらえたら嬉しいですし、
本作から入った方にも、
この物語単体として楽しんでいただけるように書いています。
剣も魔法も万能ではない世界で、
知識と経験だけを頼りに進んでいく物語が、
これから始まります。
次話も、どうぞお付き合いください。




