EX3. 一堂に会する“魔皇軍”
大広間は人で埋め尽くさんばかりにごった返している。
続く正門前の庭園や王城付近の市場にまで人の波は押し寄せていた。
つい先に、シャーシスたちと言葉を交わしたテラスで、正当な王位継承が行われる。
あの荒波に立ち向かう勇気は、生憎私にはなかった。
またも禁忌を侵すようで何とも言い難いが、【守護の刻印魔法】を用いて瞬きの間に王城へと移動してきた。
久しぶりだ、懐かしいと口々に感動を呟くキャンベラたちとは対照的に、三人の子どもたちは何が起こったのか分かっていない様子。
たじたじと刹那に変化した景色に、疑問符を浮かべていた。
そんな様子を見て、千百合がからかっていたけれど…………傍から見ると痴女が純粋無垢な少年少女にちょっかいをかけている図でしかなく、危ない空気が漂っている。
長い廊下に、無駄に曲がりくねった階段を上がって、大所帯となった私たちは談話室まで向かう。
関係者以外立ち入り禁止の立て札を、千時先輩はフンッと不機嫌そうに笑い飛ばしてずんずんと進んでいき、私たちはその後ろを追いかける。
先頭は千時先輩で、私は二番目。
殿を務めるのは千百合とキャンベラ。
ネメシアは子どもたちを守るように位置取り、白英は中衛を維持している。
そう、自然と。
まるで呼吸をするように、私たちは動いている。
自分の役割と、皆の相性を鑑みてどう行動するのか暗黙の裡に理解している。
早々抜け切ることのない癖だと、常在戦場だと、かこつければ聞こえはいい。
けれど、七年経った今でも、私たちは動乱の過去を振り払えずにいると、如実に示しているようで。
何だか落ち着かない。
呼吸をするように戦いのリスクを懸念するなど。
もう、私たちが敵に怯える必要はないというのに。
「力を抜け、華彩。祝いの席だ。しかめっ面では水を差すだけだ」
「……えぇ。そうね。心遣い、感謝するわ」
「フンッ。憂いているのは貴様だけではない」
「…………千時先輩も?」
「ああ。オレだからこそだ。あの時ほど力不足を痛感した瞬間はない」
ギリッと奥歯を嚙み締める音が響く。
正しく『鬼神』と評される殺気立った表情で眉をひそめる剣聖。
誰よりも近くで、彼女を失った彼の悔悟はとても重い。
彼が自責の念に囚われるのも致し方ない。
だが、だとすれば。
そもそも土俵にすら立てなかった私は。
“刻印源皇”に一矢報いる戦場に踏み入れることのできなかった私たちは。
一体、何を悔めばいいというのだろうか。
「時は経つ。如何なる道でもいい。歩くことさえできればな」
それは一種の諦観だったのかもしれない。
いかに強大で恐るべき実力を有していたとしても、過ぎ去った時を戻すことはできない。
覆水盆に返らずとは言うけれど、再び器へ水を注ぐことはできる。
まったく同じ水ではない。
だが、限りなく類似した状況に戻すことはできる。
「手元に残ったものを、大事にしないと……ね」
静かな対話だった。
後悔と非難に苛まれた悲痛な声音は自然に収束した。
気が付けば、純白の扉の前へと辿り着いていた。
分厚い境界線に阻まれた先は、溢れんばかりの祝福に包まれているのだろう。
「行くとするか」と、まるで自分を鼓舞するような彼の言葉は、私にも力を与えてくれた。
享受してもいいものかと、戦々恐々としていた私の背中を押すように。
重さを感じさせない剣聖の両腕によって、扉は開かれた。
覗く斜陽に目を細めるも、一歩進むと日差しは楽になる。
この一室は所謂、待機室だ。
新たな王の関係者が腰を落ち着けて談笑に花を咲かせるために、どこぞの変わり者が気を利かせてくれた。
既に所用を終えて集まった者もいるのだろう。
室内には見知った顔が多い。
一人二人と室内に足を踏み入れた皆は思い思いに散会する。
そして、ようやく到着した一団を視界に収めると、嬉しそうに駆け寄ってくる者もいる。
「……っ! 時雨……!」
湖の女神かと錯覚する美貌の持ち主が、息を弾ませて現れた。
水色の長髪に、輝かしい水色のワンピースタイプのドレス。
きらりと陽光を反射する髪飾りの似合う女性。
「待たせてしまったわね。ミア」
「いえ、全然。私の方こそ、探してもらっていたのに……」
「いいのよ。こうして出会えたのだから」
柔和な笑みを浮かべるミリソラシアは、雰囲気がとても穏やかになったように感じる。
常に誰であろうと敬語を取れなかった彼女ではあるが、七年の月日を通して円熟味が出たのだろう。
敬称も外し、まるで千花を思わせる社交性を彷彿とさせる。
元主やシャーシスのように七年間一度も顔を合せなかった訳じゃない。
空中庭園で幾度も会話をして、食卓だって多く囲んでいた。
けれど、どうしてもお互いに息が詰まるようで、気持ちのいい関係性とはお世辞にも言えなかった。
まるで曇天がそのまま横たわっているような息苦しさは、しかして、今は何も感じない。
ただ微笑みを交わして、他愛のない言葉が行き交うだけで心がすく思いだ。
「感慨深いですね……姉さんが、結婚だなんて」
「ええ、昔は考えられなかったものね。お似合いの二人だとは思っていたけれど」
「多王様がデレデレして、姉さんは嫌々ながらも満更でもなくて」
「場違いな時の方が多かったけれど、二人の雰囲気に救われたこともあったわ」
「そうですね……本当に、我がことのように嬉しくて、誇らしい気分です」
遠い眼をしたミアが見つめる先にはギャーギャーワーワーと、これから厳俊な場に出向くとは思えないほど騒がしい二人組。
シャーシスが怒って、元主がふざける。
ナクアとアリアナは呆れた表情のまま、それでもどこか楽しげに。
みるみるうちに着飾っていく二人の正装は、とても調和がとれていて惚れ惚れする。
すると、気配を消して近づく男が一人。
親友の晴れ舞台ということで遠慮しているのか、一層険しい表情のまま剣聖は歩調を強める。
それが余計に凶悪な面を増強してしまっている。
突然の訪問に驚いたのか、シャーシスが悲鳴を上げて。
アリアナはあまりの相貌に声を失って、ナクアなんて主を護るために臨戦態勢を取っている。
けれど、相手が剣聖だとわかり、ホッと胸を撫でおろしている。
当の元主と言えば、不気味な微笑みを深めて何やら言葉を紡いでいる。
私とミアの立ち位置からでは詳しくは聞こえないけれど、穏やかな空気だけはわかる。
『鬼神』と恐れられた最強の剣士も、『奇神』と一線を画す参謀も。
互いにただの友人として、祝福の満ちる世界で頬をほころばせている。
その光景が。
想像すらしえなかった情景が、私に口を滑らした。
「…………ミア。貴女は、結婚したい?」
「ぇ……?」
「ぃ、いえ。忘れて頂戴」
顔が熱い。
幾ら友人といえど、礼儀は存在する。
安易に踏み越えてはいけない一線も存在する。
プライベート領域ならば尚のこと。
「私は…………今は、考えられません。お相手も、いないことですし」
「そう、よね。ごめんなさい。変なことを聞いて」
「時雨さ……時雨こそ、どうなのですか?」
「どうって…………ずっと空中庭園にいるのよ? 出会いなんて、ないわ。それに……」
続く言葉は、私の口から紡げない。
ミアもまた、察しが付くから追及しない。
私たちはよく理解している。
自分たちの身体に刻まれた呪いにして、聖痕の意味を。
【刻印魔法】を刻んでいる限り、少なくとも私たちは不老だ。
不死ではあるかは……現状、判断できないけれど。
同じように不老か、近しい寿命を持つ者でないと。
私たちは見送る立場になってしまう。
それは、ちょっと辛い。
ううん。とっても辛い。
私が心を許した相手なんて想像できないけれど、きっと、別れは耐え難い。
「“未来”はわかりません。主様だけが、見通していましたから」
「…………そうね。誰にも、分からないものね」
それっきり私たちの間に会話はなかった。
ただ談笑に興じる皆の様子を眺めるだけ。
どうしても、振り払えない過去を背負って。
“未来”を見据える皆を眩しく思いながら。
二人で、くすりと笑った。
❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐
戴冠式兼結婚式は恙なく終わった。
序列第六位の〈イントロウクル世界線〉を継承する新たなる王と王女の門出。
ファンファーレが響き渡り、夜も更けた時刻でありながら商店街ではお祭り騒ぎが続いている。
対刻によって世界線を追われた難民が大半を占める〈イントロウクル世界線〉だからこそ、盤石となった世界線に浮かれるのだろう。
ようやく、地に足のついた生活が戻ってくるのだと。
対外的には来賓扱いで私たちは招待されているために、一言二言発言するタイミングがあった。
今や世界線間では無視できない一大勢力である“魔皇軍”の事実上代表である私や、シャーシスの妹たるミアは当然として。
序列一位の〈聖ドラグシャフ世界線〉二大国王であるディオクやミヴァル、〈アザークラウン世界線〉の『皇王』アンフェア、〈NEVERヴァード世界線〉の『魔導王』蝋虚盧といった大物が国民の眼前で祝言をあげた。
あっという間に閉会した式ではあったが、それでさようならとはいかない。
久方ぶりに顔を合わせる者もいるために、待機室を改造して披露宴が始まったのだ。
まあ、名ばかりの宴会だが。
かくいう私も、幾つもあるテーブルの一つでグラス片手にアルコールを摂取しているところだ。
「……? どうかしましたか、時雨様」
「……、ごめんなさい。そぞろになっていたかしら」
声の主は流れるような金髪に、柔和な笑みを浮かべる美女。
胸元の大きく空いたドレスは妖艶な魅力を引き立てて、彼女の絶世のプロポーションを強調している。
〈聖ドラグシャフ世界線〉コアド魔王国外交官官庁のハヴィリアは、相も変わらず高飛車なお嬢様といった印象を拭えない。
けれど、かつては感じなかった気品や気高さを感じられるのだから、彼女も成長したのだろう。
「お疲れでしたら、お休みになっては如何です?」
「興奮して眠れる自信はないわ…………」
気遣いの言葉をかけてくれるのは、褐色の美女だ。
流れるような黒髪に、落ち着いた所作。相当な場数を踏んだと思わせる迫力が彼女にはあった。
〈強進化世界線〉の王として統治を続ける良王、紅玉は親愛をもって私に声をかけてくれる。
しっちゃかめっちゃかにかき乱したのは私たちの方なのに、対刻や終戦後もずっと力を貸してくれた。
「遠いところにきたものね…………」
「時雨様が仰ると重みが違いますわね」
「まったくです。今や“魔皇軍”の『大空位王』と言えば泣く子も黙る有名人ですからね」
「からかっているのかしら……?」
「いいえ? 褒めているのですよ?」
紅玉も言うようになったものだ。
ハヴィリアも忍び笑いを隠せずにいる。
二人を見ていると私も自然と頬が緩んでしまう。
だからこそ。
どうしても。
意識してはならないとわかっていても。
「……ごめんなさい。悪酔いしてしまったみたい。風に当たってくるわね」
「はい、お気を付けて」
穏やかで暖かい言葉に碌に返答もできず、ただ口を閉ざして。
誰にも見咎められないように、俯きながらバルコニーへと歩みを進める。
煌びやかな会場に注がれるシャンデリアの灯が、小さな雫を反射しないように。
悟られることなく、気取られることなく。
私は眩い世界に背を向けたのだ。
❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐
夜風が火照った身体に心地良い。
初めてお酒を呑んだ時はどうしてこれを好き好んで飲もうと思うのか、皆目見当がつかなかった。
けれど、今ならばわかる。
これは水だ。錠剤を呑み下すために使う、水なんだ。
テーブルからそのまま持ってきたグラスではシャンパンがパチパチと気泡が浮いては消えてを繰り返している。
甘いくちどけに、中途で存在を主張するピリリとした辛さがクセになる。
「はぁ……いい景色じゃない」
離れて見ていると、やはり、そこかしこで馴染みの顔を散見する。
高価な造りの窓からは会場の様子が一望できる。
ディオクとミヴァルはキャンベラやミアたちと昔話に花を咲かせて。
アンフェアとギールはイルアや千百合たちに如何に世界線を護り抜いたのか自慢していて。
廟先輩はディザイアや英馬と武術の話をしていて。
感無量。うん、それがぴったりな言葉だと思う。
がむしゃらに走ってきて、辿り着いた一つの答え。
【刻印魔法】なんて得たいの知れないものを押し付けられて、右も左もわからずに駆け抜けた日々の終着点。
悲痛な絶叫を聞いた。
悔悟の叫喚を知った。
悲愴に満ちた咆哮を覚えた。
きっと、元の世界で女子高生をしていたら得られなかったであろう経験、仲間、感情。
沢山振り回されて、目一杯規格外なことをして。
滅亡の瀬戸際で、何億何兆、数多の命を背負い指揮を執って。
必ず勝利を手にすると信じて、ただひたすらに私の戦いに没頭していた。
眼前の光景を作り上げたのは分け隔てなく愛を叫んだ少女で。
ずっと隣にいてくれると、いつまでも笑い合って過ごせると。
今となっては脆くも儚い夢物語だと責め立てられるけど。
最期に交わした言葉は、会話はとても曖昧で。相応しい別れとは到底思えない。
“世界の意志”へと成る。即ち、ヒトとしての機能を捨て去って超常の観察者へ進化すると同義であり、死ではない。
けれど、そこに在っても。
言葉もなく、会話もできず、触れ合うことさえできないそれは。
死と、何が違うのだろうか。
「何をしている、華彩」
「千時、先輩…………」
気配を完全に消して、度数の強そうなお酒を瓶ごと片手に持ってきた彼は柵へと体重をかけて、私と同じように会場へと視線を移した。
祝いの席だというのに、二本の刀はそのままに険しい表情を隠す気も見受けられない。
「先輩こそ、混ざらないのかしら?」
「フンッ。相応しくない」
相変わらず言葉が足りない。
この調子だとトラブルが絶えないはず。
キャンベラたち三人はミアたちと話しているが、剣聖はどんな顔をして混ざればいいのか分かっていないのだ。
だから、相応しくないと。
自分に不相応なのではなく、自分が、場違いだと。
「荒削りだが、持ち直したようだな」
「……まだ先輩面するつもり?」
「気に入らないのであればオレを下してみろ」
「はあ……また無理難題を」
「今の貴様ならば不可能ではあるまい」
「だからって、千時先輩に勝てる気はしないわ。ここ数年、戦闘面での運用はしていないもの」
「そうか」
「ええ、そうよ」
それっきり、私たちの間に会話はなかった。
ただ互いの息遣いを聞いて、手の届かない幸福を羨望のままに眺めるだけ。
時折、剣聖が瓶を傾けて透明に輝く液体を喉に流し込み、私のグラスが空になる度に注いでもらう。
甘くもほろ苦かったものから一転、ひりひりと舌の焼けそうな辛口なアルコールが飛び込んでくる。
咳き込む私を、彼は無表情に放置しているけれど。
その実、慮っていいものかと黙りこくって思案している。
普段通りに、ずけずけと踏み込んでしまえばいいのに。
変なところで律儀な人だ。
「千時先輩は……どうして、三人と結婚したの」
「脈絡がないな」
「…………酔ってるのよ」
「噓を吐くな。オレも貴様も酔えん。酔いたくとも、正気でしかいられない」
「そう、ね。その……ただの興味よ。貴方が誰かと一緒になるなんて、想像つかなかったもの」
本音だ。
対刻前からは予測もつかなかった。
あの三人が剣聖へと少なからず好意をもっていたのは事実だ。
けれど、まさか朴念仁、唐変木の代名詞にすらなれる彼が受け入れるとは思わなった。
剣術の向上にしか興味がない印象しか持っていなかった私には、青天の霹靂に等しい。
彼らの婚姻を聞いた時は執務室から飛んで行ったものだ。
文字通り、世界線を飛んで。
全力の【刻印魔法】を使って、初めて世界線間の転移ができた。
まだまだ潜在能力があったのね、と。事情を全て聞いてようやく気が付いた程に、四人の関係は驚愕を抱いた。
「決め手はあったのかしら?」
「フンッ。意地でも聞き出すつもりか」
「ええ。いい肴になるでしょう?」
「悪趣味極まれりだな。貴様らしい」
フッと、彼は表情を緩めた。
あの、『鬼神』と恐れられる千時剣聖が笑ったのだ。
今までに彼の笑顔を見たことはあったが、どれも戦闘狂の浮かべる狂気の笑みだった。
けれど、先の彼は。
慈愛を含んでいた気がする。
「決定打は……栖本の件だ」
軽快な表情から一転、沈痛な面持ちで彼は語り始めた。
「千花が?」
「ああ。オレは力及ばず責を須らく押し付けて生き残った」
「…………何度も言ったけれど、責任は私たち全員にある。千時先輩だけが自分を責める謂れはないわ」
「だとしても、だ。オレはオレを許せなかった」
メキッ! と彼の掴んでいた大理石の柵にひびが入った。
無意識に力を込めていたのだろう、彼は辟易しつつ小さく息を吐いた。
荒ぶる魂を収めるように、後悔と憤怒で沸き立つ感情を抑圧するように。
そして、落ち着きを取り戻した千時先輩は予想だにしない言葉を口にした。
「オレは、恐怖を感じた」
「……? 恐怖ですって?」
「ああ。親しい者を喪うことに。オレは耐えられないと知った」
噓を言っているようには見えない。
虚勢を張るような人ではない。
つまり、千時先輩は心の底から恐怖を抱いたという。
彼にとっての信頼を千花が得ていたのにも衝撃だし、そもそも彼に恐怖があったことに驚きを禁じ得ない。
「だから、三人と?」
「然り。オレの手には限界がある。ならば、せめて後悔だけはさせないように。オレと同じ恐怖を与えないために」
「そんなに……考えていたのね」
「否。常に疑問に苛まれている。オレで良かったのか、オレの決断は、選択は醜いものではないかと」
「千時先輩…………」
律儀で、優しい人だ。
痛みを経験したから、耐え難い喪失感を抱いたから。
それを、キャンベラたちに味わってほしくないから。
彼は、三人の好意に応えたのだ。
それは贖罪なのかもしれない。
それは不可抗力なのかもしれない。
それは、正しくないのかもしれない。
それでも、私には。
「…………ハルノたちへの眼差しは、父親に相応しいと思ったけれど?」
「……、父親か」
面食らった千時先輩の様子は新鮮だ。
冷静沈着、理性の権化。闘争しかない彼の心根に確かに芽吹いた愛の象徴。
まるで得難い宝物を両手でそっと抱え込むような、綺麗で安らかな父親がそこにいた。
私に父親の概念は分からない。
私にとっての父親は暴力と横暴のイメージしかないから。
それでも、もし、千時先輩が父親であれば。
きっと、幸せな幼少期を過ごせたであろう。
「貴様は。誰を想う」
「へ……? 私?」
「オレは話した」
「意趣返しのつもりかしら?」
「吐き出すだけで楽にはなれる」
「…………そいいうところは変わらないわね」
お節介で、仲間思い。
額面には出しはしないけれど、彼は私たちを慮ってくれる。
出会った当初から、彼は気をかけてくれた。
私たちも彼が亡くなった──と思ってただけで実際はピンピンしていた──時は悲嘆に暮れた。
奇妙な間柄だと思う。
先輩後輩のような上下関係はなく、戦友や悪友のような親近感はない。
かといって赤の他人とも違う。
無性に頼ってしまう。
理由なく甘えてしまう。
言葉少なな彼の態度に、燃え盛る情熱を思い出させてくれる剣聖の信念に。
これは。
もしかすると──
「お兄ちゃん……なのかしらね」
「貴様、兄がいたのか」
「違うわよ。違わないけど……違うのよ」
「要領を得ないな」
「それでいいわ。深く追求しないで」
釈然としない様子の剣聖を見て。
やっぱり、彼は兄だと実感する。
もはや、私の中では。私の感覚は、彼を家族だと認識しているようで。
千時先輩だけじゃない。
ミアや千百合、キャンベラ、ソフィア、多王先輩……縁を結んできた皆。
千花だけが拠り所で。
秘密を打ち明けられる相手で、家族だった。
けれど、いまは。
こんなにも沢山、家族ができた。
「先の質問だけれど…………やっぱり、私は千花に未練たらたらみたい」
「そうか。納得しているのであればいい」
多分、彼に悟られた。
それがひたすら気恥ずかしくて。
誤魔化して答えた私が滑稽に思えて。
これ以上心中を看破されたくない一心で、グラスに口をつける。
叫びだしたくなる羞恥心をアルコールで中和するなんて、昔の私からは想像もできない。
きっと、これからも見て見ぬふりをするのだろう。
目を逸らし続けて、痛む傷跡から逃げ出すだろう。
千花は私にとってかけがえのない親友で、家族だから。
多王先輩のように躍進することも、キャンベラたちのように気持ちを伝えることも。
私には対岸の火事程度にしか思えない。
けれど、いつか。
きっと、いつの日か。
私にも誰かを愛せる時が来るかもしれない。
その瞬間を憂いなく迎えるために。
私は、この傷と共に生き続けるのだ。
無類の“愛”を受け継いだものとして。
意志を継ぐ者として。
華彩時雨は“未来”を視るんだ。




