EX1. プロローグ
カツンッ! と陶器と陶器の触れ合う音が空虚に反響した。
寒色の灯に照らされた執務室は私一人で使うには十分すぎる程に広く、衣擦れや吐息の一つ一つが驚く程に響くのだ。
山のような書類の積まれたデスク、壁一面に整理された書籍の詰まる本棚、簡易的な話し合いならば済ませられる四人掛けのソファーが二つとローテーブルが一つ。
私の全身を包むような革製の椅子から、数日ぶりに立ち上がる。
まるで引き裂かれるような錯覚と、全身に血が巡る感覚を同時に味わう。
つい最近発生した事案を片付けていると、いつの間にか日数が経っていた。
まるで母親のように私を叱責してくれる彼女がいなければ、きっと途中で餓死……いいや、脱水症状で倒れていたことだろう。
フラフラと平衡感覚を取り戻しながら執務室の出入口ではない、本棚と本棚の間にぽつねんと存在する扉を開く。
なんの変哲もない一室が視界に飛び込んでくる。
部屋の中央には私が五人は並んで寝られるであろうキングサイズのベッドに、化粧水や保湿液が散乱している化粧台、私用の机、殺風景な生活感のない自室が私を迎え入れてくれる。
いや、生活感ならある。
いつ横になって睡眠を取ったか思い出せないが、整えられていないシーツに床へだらりと半身を投げ出している毛布や、ベッドに上に放り投げただけの私服などが「やっと気付いたのか」と言わんばかりに主張している。
悪いが、今日も構ってやれる気力はないかも。
「さて、まだ残してあるかしらね」
向かう先は部屋の最奥に鎮座するクローゼットだ。
四徹か五徹か体調は最悪だが、今日は祝いの日。
数日にわたって事後処理に専念していたが、それでも気分は上々。
正装は六年前に一度使ったきりなため、まともに着られるかも分からない。
ウェスト、入るかしら……? 不格好に見えないかしら? とか。
グルグルと考え事をしながら、まともに動かなかったツケを払うように、ふらりとバランスを崩した。
「……っ、危なかったわ。少しは運動をすべきかしらね」
寸でのところでテーブルの端に手をついたために大怪我には繋がらなかった。
しかし、全体重をかけたせいかごとりと写真立てが落ちてしまった。
「────っ、もう……悲しいなんて思わないわ。けれど…………寂しいものは、寂しいのよ。千花」
それはなんてことのないツーショットだ。
いつだったか。
そうだ、〈聖ドラグシャフ世界線〉から帰還して彼女が「ねえ、時雨! 写真撮ろうよ!」と駆け寄ってきた時だ。
一枚の紙には、私の記憶にある満面の笑みでピースをする彼女の姿があった。
隣には満更でもなく、はにかむ私の姿が。
ああ、月日は残酷だ。
私が千花のことを忘れる時など、一瞬たりともない。
しかし、もはや私は彼女の存在を懐かしいと、そう思ってしまっている。
「けれど、そうね。もう七年も経つものね」
刻印源皇を討った刻印大同盟より既に七年余り。
私は脅威を前に全世界を纏め上げた『魔皇』の代わりに、壊滅一歩手前の惨状に様変わりした世界を立て直すべく尽力した。
その間には数えきれない程の変化が起こって、本当にてんやわんや、右往左往、滅茶苦茶な日々だった。
思い出は美化されるというが、私の中で千花の隣にいない忙殺の日々はいつまでたっても大変な記憶だ。
「嬉しい副作用なんてものがあるなら、きっとこれね」
走馬灯のように脳裏を駆け巡る出来事の数々に圧倒されながらも、私はクローゼットから蒼色のドレスを引っ張り出す。
そのまま着ていた服を脱いで下着姿で姿見の前に立つも、そこには『大空位王』として戦場を指揮していた頃の私があった。
あの時は二十一歳で、本来ならば私は二十八歳といい歳になっている。
勿論、身体も相応の衰えを見せるはずだ。
しかし、私の肉体は外見内蔵共に若いまま。
一度不安に思って医者に駆け込んだこともあったが、尋常ならざる魔力を扱った後遺症だと言われた。
まあ、医師には不老ではなく躁鬱状態の情緒不安定を心配されたが。
余計なお世話だ、まったく。
「さて、そろそろかしらね」
ドレスに腕を通すと初めて袖を通した時と何ら変わらずにフィットした。
多少の小物を入れたポーチを片手に、私は執務室を出る。
──空中庭園
それが、私の過ごす場所だ。
目的地まではこの城の主たるギールさんが送ってくれる手筈だから心配はない。
行先は〈イントロウクル世界線〉。
今日はシャーシスと多王先輩の二人が正式に王位を継ぐ日だ。
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〈イントロウクル世界線〉にいい思い出はあまりない。
なし崩し的に巻き込まれた諍いは、世界線と世界線を行き来する生活のーー正に波乱万丈の戦いの幕開けにしか感じられなかった。
あの時は私と千花に【刻印魔法】が突然刻まれて、気が付けば千花は千百合に意識を持っていかれて、ミリソラシアとは驚愕の出会いをして…………死に物狂いで生き残るために持ちうる力を全て振るって。
死に体で生き残ったものだ。
「ん、時雨? 何かあったか?」
「……いえ、大したことではないの。ただ、少しね」
快活な声が隣から聞こえてきた。
【空中庭園】が世界線間を移動する数分間、私は談話室で息を整えていた。
対刻が成されて七年経つが、その月日で私はシャーシスと多王先輩の二人とは大して会っていない。
なにせ、二人は〈イントロウクル世界線〉の復興、私は世界の立て直しに時間を取られていたためだ。
故に、柄にもなく緊張していた。
何を話そうか? もし私のことを覚えてなかったら? 等々。
まるで私が私ではないような感覚に居ても立っても居られず、気を紛らわせるために紅茶を飲んでいた。
すると…………。
「あぁ? んじゃどうして腹減った時みたいな顔してんだ?」
ずかずかと肩で風を切ってイルアが現れて、そのまま私の隣に腰を下ろしたのだ。
黒のハイブーツに黒のショートパンツ、白いトップスを合わせただけの簡素で動きやすい服装の、イルアは変わらず溌剌とした雰囲気を纏っている。
彼女もまた私と同じく二十八になるのだが、七年前と何ら変化のないプロポーションを誇っている。
うらやm…………いいえ、女性らしいスタイルは彼女の魅力を引き出す一助になっている。
「私だって空怖ろしいのよ」
「あぁ? 何が怖いってんだ?」
「イルアは…………そういった感情とは無関係のようね」
「ん? 時雨の考えてるこたぁ難しいな」
たははと笑い飛ばす様子には、一抹の羨望を覚える。
そういえば、千花が去った時でさえ誰よりも早く立ち直っていた。
割り切りのよさか、はたまた切り替えが上手いのか。
どちらにせよ、私にはない彼女の強みだ。
そう、イルアは千花が世界の意志へと成った後、たった一人で武者修行とだけ言い捨てて世界線中を旅していた。
荒廃して秩序のない世界線にあって、食いものにされる弱者に手を差し伸べ、混沌の間隙を縫って悪政の限りを尽くす為政者を打倒したり。
対刻の最前線で活躍した彼女の存在は、より一層噂となり…………今では魔皇軍の暴れ馬と称される始末。
千百合と並んで魔皇軍の双璧と恐れられるのだから、どれだけ彼女が暴れまわったのか察するに余りある。
とはいえ、千花のいない今、魔皇軍を象徴する存在は必要不可欠だ。
それに…………あの政治的なごたごたの最中、イルアの相手はできなかったし。
「時雨様、イルア様。〈イントロウクル世界線〉が見えてまいりました」
ふっと、音もなく眼前に紺色のメイド服に身を包んだ美女が現れた。
両手を揃えて無表情で事務的な報告をする彼女だが、頬が朱に染まっている。
簡素ながらも化粧すらしているのだから、晴れの舞台に浮足立っているのが分かる。
けれど、あくまでメイドの立場を覆すつもりはないようだ。
「おお、ソフィアじゃねえか。ひっさしぶりだなぁ」
「はい、お久しぶりですイルア様。お変わりないようで」
「はっは、ソフィアもな」
恭しく一礼するソフィアとイルア。
まるで、七年前に戻った気がする。
イルアと、千百合と千花の三人が会議の真っ只中にあってもソフィアへお菓子をリクエストして。
ミアとナーラがあたふたと注意して、キャンベラが苦笑する。
進行役を務める私は一も二もなく怒って…………悪びれることなく彼女は悪戯っ子のようにくすりと笑うんだ。
「ありがとう、ソフィア。準備はできているのかしら?」
「はい、時雨様」
「そう、なら私たちだけのようね」
行くわよ、とイルアに声をかけて、カップに残る紅茶を一息に飲み干す。
掛け声のように自分へ活を入れて。
玉座の間へと私たちは向かう。
ソフィア曰く、空中庭園から〈イントロウクル世界線〉へ向かうのは私とイルア、ソフィア、ナーラ、ギールさんの五人だけ。
ミアは一足先に〈イントロウクル世界線〉へ向かったし、キャンベラたちは向こうへ移住しているからそもそも移動する必要もない。
アンフェアさんもミアと一緒に新しい王に会いに行こうなんて格好つけて行った。
千百合は自力で移動すると言っていたし…………随分と寂しくなったものね。
大理石の廊下を進みながら、私はイルアとソフィアの会話に耳を傾ける。
けれど、その内容は半分たりとも頭に入っていない。
まだ片づいていない仕事のこととか、復興した〈イントロウクル世界線〉のこととか。
益体もない妄想ばかりに耽っていた。
「おや、グッドタイミングのようだ。丁度着いたよ」
数十席ある円形の管制室にはたった一人で操縦をしていたギールさんがいた。
見慣れないタキシードに身を包んだギールさんは鈍色の髪をふっとかきあげて空中庭園を魔力の渦中に停泊させる。
そのまま、私たちと合流してアンフェアは羽目を外していないかと無用の心配を口にしている。
コツン、コツンと歩く度に大理石を反響させながら。
私やイルア、ソフィアのようにギールさんも変わりない…………とは残念ながら言えない。
彼やアンフェアさんは順当に七年分の歳を取っている。
特にギールさんは右脚に不調をきたし杖をついて歩行を補助している。
正直に彼らがいくつなのか聞いたこともないし、聞く気もないが、それでも十分な年齢なはずだ。
故に、仕方ないとは思う。
けれど──
「君はいつだって申し訳なさそうにするな、時雨」
「……、ええ。気を害したのならごめんなさい」
「いや、いいさ。君は優しいだけだ」
貴方は丸くなりましたね……と、小さな呟きは心中で霧散する。
若々しく輝いていた頭髪も色素を失い、少壮有為を体現したかのような人だったけれど、対刻の余波は彼の気力を根こそぎ奪っていったようだ。
それでも、砂時計型の空中庭園を一人で運用する実力には驚嘆する。
「おお、待たせたなナーラ! 全員連れて来たぜ!」
「……! イルア様! お戻りになっていたのですね!」
厳密には貴女が引き連れてきたわけではないのだけれど…………純粋なナーラは疑問にも思わずぱぁぁあと表情を明るくする。
物思いに耽っていると時間は早く過ぎるようで、既に転送部へとたどり着いていた。
皆が集まるまで待っていたのだろう、黄色のドレスに身を包んだナーラが機材を弄って調整をしている。
あとは世界線の狭間へと移動するだけ、と。
仕事ができるナーラだからこそできる気遣いだろう。
彼女は七年前から変わらず車椅子だ。
無論、魔力を流すことで単独走行可能程に高性能ときた。
ナーラとは空中庭園で毎日顔を合わせているが、祭典用に仕立てたメイクはまるで別人のように飾り立てている。
ただでさえ、美形なナーラは七年の月日を経ようとも変わることなく一層美しくなっている。
「では、〈イントロウクル世界線〉へ向かうとしよう。久方振りに会う者もいるだろう。昔話に花を咲かせるのも中々乙なものさ」
ギールさんの一言で皆は順に空中庭園から飛び出ていく。
けれど、私の足は一歩を踏み出そうとしない。
理由は分かっている。
原因だって知っている。
私はいつまで経っても〈イントロウクル世界線〉への恐怖心を消せていない。
脳裏に浮かぶのは人気のない景色に、ヒトとも獣とも見分けのつかない怪物が闊歩して、怖ろしい魔眼の数々を暴威として振るう男。
【守護の刻印魔法】だって十分に使いこなせていない私が、彼に守られて生き残った世界。
「…………女々しいわね。あの二人があんな世界にする訳もないのに」
矢庭に自嘲がこぼれる。
千花、私はまだまだ怖がりみたいだわ。
だから、ずっと見ていてくれるかしら。
これから世界はもっと平和になって、安泰の時代になる。
いいや、私が、私たちが、そうしていく。
貴女が創った、貴女が拓いた“魔皇の時代”に。
ねえ、だから。
ほんの一時でもいいから。
私を──
小さく、されど無視しえない程に肥大化した我儘は。
眩い光とともに消えた。




