プロローグ 目覚め
――ズキリ。頭に激痛が走る。
うう、昨日は飲みすぎたが……これは二日酔いの痛みじゃねぇ。むしろ怪我か?
「う、うう……」
(ズキズキと頭が痛ぇ……。割れそうな痛みだ!)
手足を動かそうとしても、目を開けようとしても全然動かない。かすかに出たのはうめき声だ。
「お気づきになられましたか?」
「うう……どうなて……」
(だ、誰かわからんが助けてくれ!)
その瞬間、額に何か冷たいものが乗せられた。 どうやら俺は布団に寝かせられているようだ。額には濡らしたタオルが置かれたんだろう。
「良かった……、お医者様は今晩が山だとおっしゃってましたので」
「や、やま……?」
(げっ!?そんなに俺重傷なの!?そんな記憶ねぇよ!)
「身体が動かないんですか?ですが……今は真夜中。明日の朝にお医者様がお越しいただくことになっています」
手のひらが優しく包まれた。
目が覚めたら手足も動かず、目も開けない。本当なら恐怖におびえ叫んでいただろう。
(不思議だ……。心が落ち着く。それに痛みも少しずつ引いている。だけど誰なんだろう?看護師さん?)
「わたくしがお傍におりますので、ご安心を」
「う、うあ”っ……」
(ううっ!痛みが引いたと思ったらまた激しい痛みが断続的にくるっ!)
「痛いの痛いの飛んでいけ~」
「う……あ……」
(ああ、優しい声だな。穏やかで、それでいて心が落ち着く……。それに痛む回数も減ってきたような気がする……)
「ふふっ、少しは効果があったのでしょうか」
そう言うと、優しく彼女は俺の頭を撫でてくれた。
(ああ……心地良い。声からするにまだ若い人だと思うんだけど……)
「気持ちよさそうですね。寝ちゃってもいいんですよ」
その優しい声に、俺は痛みを忘れ眠りについていた。
***
まぶたを開けると、そこには―― 行灯の明かりに照らされ、静かに微笑む女の子がいた。
白い寝着の袖がわずかに揺れ、膝の上に重ねた手が震えている。
(……この子が、俺のことを看てくれてたのか?)
柔らかい光が、黒髪を金の縁で縁取っていた。 その瞳が俺を見つめるたび、胸が締めつけられる。
「ああ!氏真さま……目を覚まされたのですね!」
その声は先ほど頭を撫でてくれた看護師(?)さんの声だった。
(す、すげぇ可愛い!生でアイドルを見たこともあるけど、レベルが全然違う!
だけど、なんで白い着物なんだ?それにこの部屋もおかしい。病院じゃなく和室だし、電気がない代わりに行燈がある。
それにさっき『氏真さま』って呼んだか?俺の名前じゃねぇぞ)
「う、氏真さま?どうされましたか?」
目の前に女の子が来て潤んだ瞳で見上げてくると、思わずその瞳に吸い込まれそうになる。
(見惚れてる場合じゃない。やっぱりこの子は俺の事を『氏真さま』と呼んだ。氏真と言えば、『今川氏真』。
桶狭間の戦いで織田信長に敗れた今川義元の息子にして後継者、そして蹴鞠狂いの無能と呼ばれた男だよな?
となると、ここにいる女の子は―――)
「は、早川殿?」
「はい。なんでしょう?」
(おふぅ!?俺、今川氏真になってるよ!?)
「早川殿は……俺の妻?」
「は、はい。形だけの妻ですが」
(どうしたんだ?早川殿の顔が引きつっている。あれ?二人に生涯子供は出来なかったんだよな。もしかして……?)
行燈の灯がゆらりと揺れる。
早川殿「……どうでしょう。体調も良さそうですし……その……」
氏真「……その?」
「……今宵は、殿のお傍に……」
その声の震え方が尋常じゃない。
早川殿は顔を真っ赤にして潤んだ瞳で見つめてくる。
(え、マジで!? いやいや待て俺!? これ据え膳だよな!? 食っていいやつ!?)
「……いや、その、無理することは」
「無理では……ありません。ただ……その……」
指先が袖の端をきゅっと掴む。
「北条の実家からも、そろそろ“お子はまだか”と……」
(うっわぁ……ガチ政略来た! これ逃げたら外交問題だよな?)
「……それに、わたくしも……その……殿のお傍に……」
(待って待って待って。理性、まだだ、まだ戦える……!)
だが、その瞳は真剣で、ほんのり潤んでいて、
それを見た瞬間、氏真の理性は静かに白旗を上げた。
「……早川殿」
「はい……?」
「無理は……しなくていいんだ。ただ……俺も、そばにいてほしい」
「……はい……」
行燈の灯が、ゆっくりと陰り、影が一つに重なる。
(……うん、これは運命の据え膳だな。ありがたく、いただきます)
***
翌朝、目が覚めると早川殿が満ち足りた顔で、すやすやと眠っていた。
(夢じゃなかったんだな。それにしても昨夜は……。思い出すだけで、最高の気分になるな)
「氏真……さまぁ。んもう……♡」
可愛らしい寝言を言う早川殿。
きっと甘えまくってきた昨夜の夢を見ているのだろう。
「それにしても……初めてだったんだな。俺もだけど」
(子供がいなかった理由は……純粋にしてなかったからか……。なんでしなかったかはわからんけど)
早川殿の綺麗な髪をすくう。
「こんな美少女が俺の嫁か。最高すぎんか? と言っても今がどの時期なのかわからんが、早川殿がこんなに若いってことは、結婚してそれほど時間が経っていないんだろうか……?」
だが考えてみるとあの頭痛は、俺の魂が『氏真の身体』に定着するための痛みだったのではないか?
俺の独り言に答えをくれる人はいない。
「お、おはようございます。どうなされたのですか?髪を……その……」
気が付けば早川殿が、恥ずかしそうに眼を覚ましていた。
早川殿を抱き寄せると、嬉しそうに抱き着いてくれる。
ふにゅんと柔らかな感触がして思わず反応してしまう。
「はうっ。氏真さま朝からはダメですよ。お医者様がもうすぐ来ると思いますし」
「そ、そうか。医者が来るんだったよな」
(最初の関門だな。どうやって対応するべきだろう。
中身が未来人になってる?いやいや、おかしくなったと幽閉されかねん。それに早川殿になんと言えば……。早川殿には誠実でありたいんだが)
「……実は、早川殿に言わなくちゃいけないことがある」
「ふふ……それは、“記憶がない”ことでしょう?」
「っ!? な、なんで――」
(正確には別人格が憑依してるってことだけど、なんでバレた!?)
「女は鋭いんですよ。
でも……不思議ですね。思い出せないはずなのに、今のあなたの方が、ずっと“氏真様”に見えます」
(え、えぇ……早川殿、全部察して受け入れてくれてる……?)
「昨夜、氏真さまは目を覚まして、まるで別の魂を宿したようでした。
けれどその眼差しは、優しくて、まっすぐで……。わたくしを優しく愛し、求めてくださいました。
そして今もわたくしを気遣ってくださってます。以前の氏真さまではありえない事です。
どうですか?今日も『蹴鞠』をされるのでしょうか?」
「いや、蹴鞠をするつもりはないよ」
(蹴鞠ってサッカーみたいに球を蹴る雅な遊びだよな。俺、運動神経壊滅してるからしたいとも思わない。それより今すべきことは山積みだ。まずは外に出て現状把握だよな)
「ふふっ、お変わりになられましたね。もちろんいい方向に、ですよ」
すると、襖の向こうから足音が聞こえ部屋の前で止まった。
「お医者様がいらっしゃいました」
「侍女が呼びにきましたね。 着物を直すので、少し時間を置いて来ていただくようお伝えいただけませんか」
「は、早川殿!?か、かしこまりました!」
すると慌てたように足音が去っていった。
「なんで慌ててたんだ?」
「ふふっ、わたくし達が褥を共にしたのが初めてだからですわ」
そう言って恥ずかしそうに微笑むと、ある物に気づいたのか顔が真っ赤になる。
それは布団に付いた彼女の初めての証だ。
「ふあああ!?ど、どうしましょう!?お医者様に見られてしまいます!」
「落ち着いて。もう乾いてるから、布団を逆にすればいいさ」
「そ、そうですね」
俺が布団を反対にすると、ホッとした早川殿が見つめている。
「氏真さま、だいぶ寝衣が乱れてらっしゃいますわ」
「す、すまん。着方が良くわからなくってな」
(令和じゃパジャマ着てたからなぁ。和服なんて着たことないって)
すると早川殿がくすりと笑って、帯を整えてくれた。
「はい、これで大丈夫ですわ」
一瞬、視線が合う。あの穏やかな笑みを見るだけで、胸の奥が温かくなる。
「お医者様がお越しです。入っていただいても大丈夫でしょうか」
「あ、ああ。入ってもらってくれ」
(お医者様……? この時代の医者って、たしか馬糞で治療とかするんじゃ……)
襖が静かに開き、入ってきたのは初老の医者だった。
清潔な白衣を纏い、落ち着いた所作。
医者は俺の脈を取り、胸のあたりに軽く手を当てて呼吸を確かめる。
(……いや、普通に現代医みたいだな!? さすが名門・今川家)
そして、早川殿が静かに告げた。
「……お医者様。どうやら氏真さまは“記憶を失われた”ご様子でございます」
(つまり、記憶喪失ってことだよな……。実際には違うけどナイスフォロー!)
「な、なんと!?」
そう言うと医者は俺の頭に怪我がないか探し始めた。
一通り探したところで、怪我がないと理解したようだ。
「これは精神的なものでしょう。私が言うのも憚られますが、昨日義元公の戦死の報を聞かれたのでしょう?心への強い衝撃を受けられたのが原因かもしれませんな」
(ん?ん?今、超重要な情報が!義元が死んだ!つまり桶狭間の直後か!)
「確かに……それなら腑に落ちますわ」
「ですが、記憶が戻るかどうかは断言できません。最悪、ずっと記憶が戻らないことも……」
「いえ、お医者様。記憶は戻らない方がいいのです」
早川殿がキッパリと断言し、俺の方を見て微笑んだ。
「確かにな。俺に蹴鞠の記憶は必要ない。必要なのはこれからの今川家を差配するための記憶だ。それを覚えなおせばいい」
(桶狭間の大敗で今川家はボロボロ。武田と徳川に滅ぼされる未来だ。それを立て直すための知識を令和の魂から集め、この時代で探す、それが現実的だろうよ)
「……外傷等はございませぬ。心以外は健やか。そのうえで申しますれば――心の傷を癒す薬は、この世にございませぬ。それ以上は医の及ぶところにあらず、でございます」
そう言って医者は頭を深々と下げ、静かに部屋を去っていった。
「早川殿、感謝する。おかげで乗り切れた」
「いえ。ご立派な決意でございました。やはり記憶は戻らない方がよろしいでしょう。……お子も望めそうですし」
ボソりと早川殿が言った一言が心に刺さる。
「ぶはっ!」
(それってまた美味しくいただいて良いって事!?まぁ夫婦なんだから当然なんだろうけど!)
「氏真さま、皆さまが謁見の間で待機なされています。お医者様の診察も終わりましたし、お向かいになられては?」
初めて聞く状況に俺は喉をゴクリと鳴らした。
(え?みんなが待ってる?それって今川家の武将たちがって事だよな。
だけど当たり前か。当主が歴史に残る大敗をして、嫡男は倒れて気を失っていた。城に詰めていて当然か。
だけど、知らない武将だらけなんだよな。顔も名前も一致しないだろうし、知らない武将もいるだろう……)
俺が不安げにしていると、早川殿がきゅっと手を握ってくれた。
「わたくしも参りましょう。氏真さまの補佐をさせていただきます」
(こんなん惚れちまうだろ!って妻だし惚れていいのか!)
「早川殿、形式上の夫婦は終わりだ。これからは夫婦として……よろしくな?」
(くぅ、ある意味プロポーズだ。顔が間違いなく真っ赤になってる!)
「は、はい……末永く、よろしくお願いいたします……///」




