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09. 妻のやりかた

「ああ、あの方がアンドレア様の」


「ぱっとしない方ですわね。先日のパーティーでお連れになっていた方のほうがよほど見目麗しかったわ」


「それでしたら、先月の方もまた……」


「聞かれてしまいますわよ。平民とはいえ、一応、奥様なのですから」


「あら確か、ご商売について対立して、離婚もお考えだとか」


「離婚ですって? そんなことができるのかしら」


「禁止されているのは、再婚する権利を伴った離婚でしょう? 別居だけでは……ねぇ? 遺産の問題があるもの」


「亡くなったあとも嫌われるなんて、それなら確かに離婚したほうがましだわ」




「あれが商売に口を出すという? アンドレア様もお気の毒だな」


「顔は悪くないが、しょせん容色は衰えるものだ」


「実家からの援助と天秤にしてようやくつり合いがとれるというもの」


「妻はおとなしいのが一番――」



 陰口、陰口、陰口、陰口。


 お腹の奥でぐるぐると渦巻く感情を必死に押さえつける。


 ダンスパーティーなんて出たくなかったけれど、夫が商売のための顔つなぎのために必要だと言うので仕方がなかった。


 あえて収穫をあげるなら、夫の浮気相手が一人ではなさそうだという情報くらいだ。


 とうてい有益とも思えないが。




 商売に意欲的な夫から離れ、壁際に設けられた軽食を物色した。


 キッシュ、カナッペ。一番手近なテーブルに並んでいるのは焼き菓子だ。


 イチゴのリキュールを片手に、上からじっくりと吟味する。


 それにしても種類が多い。スコーン、バタークッキー、ジンジャーブレッド、プディング、タルト。他にも異国から製法が持ち込まれたラング・ド・シャ、ガレット、ビスコッティ……挙げたらきりがない。


 茶色く広がるサクサクの大地を前に、私は悪口によって生まれたいらいらを吹き飛ばし、真剣に悩んだ。全部食べてしまい。でも、出る直前にサンドウィッチをつまんだし、お菓子ばかり食べるのはなんとなく気が引ける。


 ほど良いお腹にほど良く効率良く詰めるには……。


 ああでもない、こうでもないと、組み合わせに悩んでいるうちに、だんだん頭が疲れてきて、なんでもよくなってきた。


 右から順に食べて、お腹がいっぱいになったら止めてしまうか。


 いや、いっそ、お菓子をやめて隣のテーブルに移ってしまえば、悩まずに済むのでは?


 そもそも、なにかを食べようとせず、自宅に帰ってゆっくり夜食を摂ればいいのでは――


「――あ、」


 ひらめきが全身を貫いた。


 夫の浮気に気づいたあのときのように。ただし、あのときとはちがって、私は歓喜に震えた。


(試してみる価値はあるんじゃないかしら)


 焼き菓子を前にしたまま、ああでもない、こうでもないと対策を練り上げていると、背後から愛らしい声に名前を呼ばれた。


「ソフィ様」


「まあ、クロディーヌ様。お久しぶりです」


 ジャムの販売を始めたばかりのころ、熱心に買い付けてくれた男爵家のお嬢様だ。


 いまは別の男爵家に嫁がれて、奥様として家政を取り仕切っていらっしゃる。今日の夜会への出席も、夫の付き添いなのだろう。


 腰を落としてあいさつをすると、お嬢様あらため令夫人は少しだけ眉を寄せて、言いにくそうにおっしゃった。


「伺いましたわ、ジャムのお話」


「お気掛けいただき、ありがとうございます。なんだか申し訳ありませんわ、こんなことになってしまって……」


 ジャムを愛用してくださっている方は一人や二人ではない。


 夫が事業をたためば、彼らをがっかりさせてしまう。


 自分のためにでもあるけれど、彼らのためにも、作り手のためにも、夫の仕打ちに負けたくない。


「ソフィ様、差し出がましいご提案かもしれません、ただ一度、お話を聞いていただけないかしら」


「お話、ですか? まあ一体なんでしょう?」


「ジャムのことで。わたくし、あなたを援助したいのです」


 からかわれているのかと思った。


 パーティー会場のあちこちで噂をばらまく子ひばりたちよりも一歩私に近づくことで、みじめな私を嘲笑う魂胆か、と警戒した。


 けれど、きっぱりと、そして真っすぐ私を見つめる目は、けして冷やかしではないと語っていた。


「それは、奥様の旦那様からの、事業の援助のお申し出でしょうか?」


「夫は関係ございません。私個人の意志で……ですから大変申し訳ないのですが、援助といってもほんのわずかしかお力添えはできなくて……」


 恥ずかしさのあまり消え入りそうな声は切実だった。


 彼女は本当に援助をしたいと思ってくれているのだ。


「なぜ……?」


「わたくし、あのジャムが好きですわ。なによりソフィ様、あなたを応援したいのです」


「私、ですか?」


「女性であろうとも、身分がなくとも、自分のできることを実行するという力強さを、あなたから学びました。そんなあなたが困っていらっしゃるのに、見て見ぬふりはできなかったんです」


 彼女の耳はイチゴのジャムのように真っ赤だった。


 申し出のために、どれだけの勇気を奮ったのか、手に取るように理解できた。


 私もジャム作りを始めたころ、なにをするにも勇気を使った。女が口をはさんで、どう思われるか。商品を紹介するたびに、女が商売をするなんて、どんな目で見られるかとおびえていた。


 あの頃の気持ちがまざまざとよみがえる。


「でしたら――ぜひ」


 あのころの感情に満たされて、私は洋々とした。


 グラスをテーブルに置いて、彼女の両手をとった。


「ぜひお知恵と人脈を貸してください。厚かましいお願いですが、もちろん援助も。少額で構いませんから」


「援助だけではなく、と……?」


「ええ、大変かもしれませんが、きっと楽しいと思います」



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