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08. 夫のやりかた

 私の父は商売を円滑にするために外聞を重んじ、不道徳を忌み嫌った。父に関わる者として私たち家族も善良であることを要求され、ときには迷惑をこうむることもあった。その潔癖な一面は、残念ながら父自身には向いておらず、父の浮気はたびたび子どもたちの耳にも入った。


 そんな父が、格上の男爵家の子息にもんくを言えるはずがない。


 権威主義な母も同様だ。男爵家とのつながりは、母にとって実の娘よりも大切な自慢の種なのだから、浮気ひとつで切り捨てるわけがないのだ。


 そして使用人は、家長の意向に逆らわない。燃えてしまった家では夫の、この家では両親の内意が第一とされる。


(……いつからだろう)


 実家に移ってからだろうか。


 取り引き先との会談が増えて、私とのつながりが希薄になったからか。


 あるいは、もっと前から?


 家が燃える以前から、彼の心は外へ向いていたのか。


 もしかしたら……特定の一人ではなく、複数人の可能性もある。



(あの人にとって、私は『妻』という席に座る人間の一人にすぎないのだわ)



 いがみ合っていても、私たちは私たちなりの関係が築けていると安堵した直後だっただけに、精神な衝撃は大きかった。




 悪いことは重なるもので、ジャムの売れ行きの低迷も始まった。


 火事の後始末を進めつつ、お屋敷再建の手配を代行し、子どもたちの面倒をみる。


 しなければならないことがある、という現実は、私の精神をさらに削ってゆくと同時に、私をぎりぎりのところに踏みとどまらせもし、苦しかった。



「紅茶用のジャムを作ったところで何の利益になる。普通のジャムのほうがよほどかねになる」


 書類に目を向けたまま、夫は決然と言い放った。


 夫の言う通り、私が手掛けたジャムはここ数年、大きな利益を生んでいなかった。


 むしろ品質維持のため費用も手間もかかり、赤字すれすれの会期もある。


 あまたの商品をあつかうようになった夫にとって、ジャムは不良債権と同じなのだ。


 それでも「妻」が引き下がらないため、しぶしぶ続けてきた。……が、そろそろ限界、ということなのだろう。


「……わかりました」


 夫の様子は以前から察知していた。覚悟は決まっている。


「それではジャムの事業は私の個人資産でまかないます。契約書を準備しておりますので、サインをください」


「なんだと?」


 問い返されて、私はすこし怖気づいた。夫の声に強い怒気がにじんでいたためだ。


 不愉快に思われるかもしれないとは考えていたけれど、まさかここまで反感を買うなんて。


 彼はとことん私に興味のかけらもないらしい。


 私がどれだけジャムを――私の居場所を大切に温めてきたかなんて、伝える必要も感じないけれど。


「契約書の内容は、ジャムの事業主を私に書き換えるものです。これ以上、商会にご迷惑はおかけしません」


「設備に投資し人件費もまかなってきた事業を横からさらうつもりか。厚顔にもほどがあるのではないか?」


 たしかに夫の言う通りだ。ジャムの事業はもともと、商会が仕入れていたジャムの売買を発展させる形で出発している。利益が大きくなった際には小さいながらもジャム作り専用の建物も整えた。すでに計上した利益で費用分は補填できたかもしれないけれど、年月に応じた商会の尽力は無視できない。


 私が口ごもるを突いて、夫が端紙にさらさらと金額を書きつけた。


「売買にならば応じよう」


 渡された金額を見て息をのんだ。


 私の持参金の全額。


 足元を見られているのは明らかだ。


「あなたは……あなたのほうこそ、厚顔にもほどがあるのではありませんか? ジャム事業にこれだけの価値があると本気でお思いなのであれば、売り飛ばしたりせず継続されればよろしいでしょう」


「欲しいと言う者に売るのは商売の基本だろう。金額はその指標のひとつだ。本気で欲しいのであれば、いくらだろうと必死になって金をかき集めるはず。その点、この金額はやさしい額だろう?」


 借金をせずに済むのだから、とでも言いたいのだろう。


 私は両手を固くにぎりしめて怒りに耐えた。


 夫のやり方は商売人としては正しいのかもしれない。けれどあまりにも人情に欠けている。仲が悪いのは事実なので、「妻」への配慮が皆無である点は目をつむるにしても、暴力的なまでにやりすぎだ。


(この人は本当に私が嫌いなのね)


 確執があっても家の隆盛のためになら歩み寄れる、という感覚は、私の思いちがいだった。


 彼はどこまでも私を憎みぬいている。


 始まりは彼が子爵令嬢に横恋慕していたところから。


 冷静に考えれば、私に瑕疵がないとすぐに思い至れるはずなのに、彼はそこからずっと、ひたすら私への鬱憤をため込んできたのだ。


 どれほど憎悪されているのか。


 持参金を全額寄越せ、という程度を超えた提案に、如実に表れている。


 将来、夫を亡くしたら、私は持参金で生活のすべてをまかなわなくてはならない。運が良ければ生涯、手をつけることはないかもしれないけれど、持参金は女性の生命線である。


 そのお金を巻き上げるとは、すなわち「死ね」と宣言するも同然。


 もちろんジャムのためならいくら払っても惜しくはない。


 お金を持っていても生きがいを手放しては人生に意味なんて見いだせないだろう。


 板挟みになって、くやしくて、唇を噛む。


 こんな選択をさせる夫を、心から恨みながら、私は意志を決めた。


「……分かりました。ただ、三か月だけお待ちいただけませんか」


「ほう、出資者のあてがあるのか?」


「今後のことを考える時間が欲しいのです。お願いします」


 視線を伏せてやや顔を下げる。


 名ばかりの妻の白旗を見て溜飲を下げたらしい夫は、得意げな声で「いいだろう」と高らかに言い放った。


 三か月。


 長くて短い私の奮闘の始まりだった。


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