18. 腹いっぱいの夫婦喧嘩
「ばかなことを! いったい全部でいくらになったと思っているんだ!」
「あなたがそうやって、なにもかも、金額の問題にしてしまうから、譲らざるをえなかったのです。売れば財産は貨幣に変わり、あなたはそのお金の権利を主張するでしょう。……もはやあなたのものではないというのに」
「僕のものだ!」
だだをこねる子どものように繰り返す。腕をちからいっぱい振り回しているのは、悪魔を追い払おうとしているのだろうか。
……ええそうね、彼にとって私は悪魔にも等しいでしょうね。
妻の父親から見込まれて継承し、生涯をかけてこつこつ積み上げた財産が、ちょっと目を離したすきに他人のものになってしまった。その元凶が私なのだから。
「訴えてやる! おまえがやったことは詐欺だ、僕をだましたんだ!」
「訴えたところでむだ……と説得すること自体がむだでしょうね」
財産の譲渡は正当性があり、異議をとなえても返還されない。どう適正なのかていねいに教えても、理解そのものを拒絶するのだろう。
「お尋ねしたいのですが、あなたは財産を手に入れてどうなさるおつもりですか」
また商売に励んでくれるのだろうか。
信用を失い男爵家にも見限られ、とうてい楽な道のりではない。それでも、利益は薄くとも、まっとうに働いてくれれば私の肩の荷もすこしは軽くなる。
ほんのすこしだけの期待は、けれど、憤怒にまみれた形相にはね返された。なにかを成しえようという気合いも、努力を積み上げようとする決意もない、ただ私への怒りが放たれている。
分かっている。いまさら落胆なんてしない。もうここが底辺だ。希望も失望も底をついた。
「……あなたのかわいい方はどうなさいました? たしか、バーバラさまでしたか」
角度を変えて重ねた質問は、夫の顔から血の気をひかせた。怒りでふるえたこぶしがゆるむ。あきらかに動揺している。
なんて分かりやすい。
アンドレアさまの人間的魅力だけでは、彼女をつなぎとめられなかったのだろう。
やたらとお金に執着するあたり、賠償金や名誉棄損の名目で金銭を要求されているのかもしれない。
いい気味だ、と思った。程度の低い女に振り回される彼を、心底からさげすんだ。
彼らにさんざん痛い思いをさせられた私が満足し、天に昇るように昇華されると、今度は彼があわれに見えた。
私の倍も老けて、商売も、愛人も、家族も失った男。
顔を両手でおおい、ずるずると崩れおちて、足元にうずくまる、彼の頭頂部を見下ろして。
「反省したわ」
翌朝、家族の集まる朝食の席で、私は食後の紅茶のカップをソーサーに置いた。
家長席に座るのは、先日、私が全財産を譲渡した長男のシリルだ。私の向かい側には、シリルの妻が、彼女の隣には、彼らの子ども――私の孫が座っている。
結婚して以来、としを追うごとに時間が早く過ぎ去ってゆくなとは思っていたけれど、この数年はとくに顕著に思えた。
その象徴、孫。夫と私の孫だ。
夫の老成ぶりに驚いたけれど、すくなくとも、孫ができるほどの時間が過ぎているのである。
私だって相応に年齢を重ね、それなりにしわも増えた。
夫と一番おおきくかけ離れているのは、毎日が楽しいか、毎日がどん底かのちがいだろう。
「申し訳ありません、お義母さま。いまのお話のどこに、お義母さまが反省なさる要素があったのでしょう?」
嫁ぐ前から終始、私の味方をしてくれていたシリルの嫁が、納得いかないと訴えはじめた。
「お義母さまはずっと努力なさられて、お義父さまに悩まされていらっしゃったじゃありませんか。こういってはなんですけれど、お義父さまは身勝手がすぎます。このうえお義母さまのお心をわずらわせるだなんて、わたくし許せませんのよ」
「私を思ってくれてありがとう。でもね、私はずっと自分のために努力をしていたのであって、あの人のために心をくだいたことなんて一度もなかったのよ」
嫁もシリルも「それのどこが悪いのか?」と首をかしげる。
若夫婦のほほえましい一体性に相好を崩しながらも、年長者のさがとして、すこしばかり教えをといた。
「つまりね、彼をあんな屑にしたのは私なの。若いころはまだ話し合う機会もあったのだから、愛人を作るのをやめろと言えたし、あちらのご実家と協力することもできたわ」
傲慢が見えかくれする男爵家に助け船を求めれば、嫁としての心構えがどうのと、私がお説教されていただろう。
若い私は、それがいやだった。夫の実家からご高説をたまわるわずらわしさと、夫の更生の可能性を天秤にのせて、前者を選んだ。私は私を選んだのだ。
「たったひと言でも言えていたら……、もうすこしまともな人間だったかもしれないでしょう?」
「人間の本性はそうかんたんに変わりませんよ、母上。どうせむだになった」
「そうかもしれないわね。でも『できたかもしれない』と思うと、ちょっと罪悪感が芽生えてしまって」
ほうとため息を落とし、私は本題に入った。
「だからいっしょに住もうと思うの」
「なぜそうなるのですか」
「だってひとりはさみしいって、さめざめ泣くのよ」
「うっとうしい」
シリルが身を引いて酸っぱいものを食べたように顔をすぼめた。
「お義母さまは、それでよろしいのですか?」
身を乗り出して私を案じてくれる嫁に、つとめておだやかに首肯する。
「とりあえずはね。子どもたちをないがしろにされたことは許せないままだけれども、悪評が広がってもう浮気はできないでしょうし、もしなにかあってもまたこらしめればいいのよ」
私としては、落ち着くべき場所に落ち着いた良い落着だと思うのだけれども、若夫婦は満足ではないようだ。
「なんか、試合に勝って勝負に負けたみたいで納得いかない」
心底からの嫌悪もあらわにする息子に、私は苦笑を向けた。
「私も全部を許したわけではないのよ。まあこれはこれで……といったところかしら」
いまの私には、正道を突き進む瞬発力も力強さもない。
夫がなにかを仕出かすたびに生まれる感情も激しさを失い、冷静さが上回るようになった。
時間を経てまろやかになるウイスキーと、長期保存が可能なジャムを使っておいしい飲み物がうまれるように、こんな夫婦がひと組いてもいいかな、と思う。
私たちだからこその、私たちだけの。
「だからあなたたちは、あなたたちの夫婦になればいいのよ」
私のようなでこぼこ道を歩むのは私たち夫婦だけでじゅうぶんだ。