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17. 樽いっぱいの酒とジャム

 引っ越しのあわただしいさなかに、ガーデンパーティーを催した。


 招待客は、クロディーヌさまをはじめとした、ジャム事業にゆかりのある方々。


 そして、夫の失敗でたくさんの苦労をかけてきた商会の面々である。


 実家の家族も、男爵家ゆかりの者もいない。


 私が「お世話になった」と思う人々だけを招待した。




 よく晴れた空の下、あわてて手入れさせた庭の片隅で、使用人が名残惜しそうに眉を下げた。


「本当によろしいのですか? 年代も保管状態も良く、かなりの値打ちものですよ」


「だからよ。今日に一番ふさわしいお酒だわ」


 思い出す。いつの日か、実家の地下に運びこまれていた大樽を。


 名義を変えて晴れて私個人のものになったこちらの家も、大火のあとの立て直しの折に地下室を作って、父から引き継いだウイスキーを運び入れていた。


 その樽を庭へ持ち出して、惜しみなく皆で分けあう。


 なんて気持ちのよいパーティーだろう。


 愛する家族と信頼できる仲間が笑いあい、ふりそそぐ太陽の光が、私の人生をあざやかにする。イチゴの赤、モモの薄紅、オレンジの黄金。商売で手にした大金よりも、私を高めてくれる、宝石よりもうつくしいジャムたち。


「みなさま、本日はお集りいただき、まことにありがとうございます」


 両手をひろげて満座のお耳を拝借する。


「ご周知のとおり、私は多くの苦難にみまわれました。その難所を乗り越えられたのは、ここに集まるみなさまのおかげ。ささやかな会ではございますが、感謝の気持ちを込めて催しました。お礼の代わりとしてお楽しみいただけましたら幸いです」


 まばらな拍手ののち、ひと呼吸おいて、使用人に合図を送った。


 ウイスキーが注がれたさかずきがおのおのに配られる。


 わたしも一杯受け取って、全員の手元を確認した。


「どうぞ、お手元のウイスキーにジャムを加えてみてください。シナモンやジンジャーもご用意しております」


 この日のために準備したジャムは、専用の小瓶に入っている。飾りをほどこし、色味を加えた特別な瓶だ。


「あなただけの特別な一杯を、わたくしどものジャムとともに、お楽しみください」



 パーティーは盛況だった。


 樽いっぱいのウイスキーと新作のジャムは、ひとしく来客を楽しませてくれた。


 度数が高くてお酒を敬遠していた女性陣も、炭酸水とジャムで口当たりを変える飲み方に興味を持ってくれたようだ。これなら、ジャムもウイスキーも、新しい顧客が得られるだろう。


 使用人たちを采配し、宴の後片づけにいそしむ。


 夜を迎える支度もととのった夕刻、ウイスキーとジャムのかおりがただよう庭に、冷気をまとった風と、くたびれた男が現れた。


 身をかたくする使用人たちに仕事にもどるよう指示して、みずから対応する。


「お招きした覚えはありませんよ」


 無精ひげもそのままの男は、先だって屋敷を交換したばかりの相手、アンドレアさまだった。


 彼はふらりと庭に入りこみ、平常とはいいがたい気配を放って、欲望にうつろうぎらぎらとした目を、からになった酒樽に向ける。


「……僕の……」


「なにかご用ですか?」


「僕の酒を返せ! お、お前はなんてことを!」


 きっと彼は全力で私につかみかかったのだろう。


 だけどその腕力の、なんと弱弱しいことか。


 精悍だった顔つきは年齢に負けてしわも深くなり、頭頂部の髪は産毛すらはえていない。


 とても私と同じ年月を生きたとは思えない。たった二歳しかちがわないはずなのに、私たちの年齢差は倍ほども差があるように見えた。


「この酒があればっ、こ、この酒を売って、そのかねで……」


「この酒樽は私のものです、旦那さま」


 何十年振りだろう、この人を旦那さまと――私の夫だと呼びかけるのは。


 夫の目が限界まで見開かれ、彼の瞳に私が映る。彼が私を視界に入れるのも、きっと何年も久しぶりのはず。


「ふざ、ふざけるな! これは僕のものだ! 妻のものは夫のものだ!」


 腕にますます力がこめられるけれど、ろくに食事もとれない日々は、彼から正常な筋肉を奪ったらしい。まったく苦しくない。いっそあわれなくらいだ。


「ご存じですか、旦那さま。どんな業界にもその道のプロフェッショナルがいます。そしてプロだからこそ、彼らの働きは品質維持のために定量を保ちます」


 振り払うのはかんたんだった。ぴしゃりと叩くと、彼はちいさなリスのようにおびえた。


「あなたは、私の不快を刺激するプロです。つまり私は、あなたに不快な思いをさせられるプロといえるでしょう。そのあなたの行動を、私が予測できないはずがありません。ですから、すべて譲渡しました。あなたから財産を買い取ったその日のうちにすべて、屋敷も、ウイスキーも、ジャムも、一切の財産を」


「う、売った? ぜんぶ?」


「いいえ、売ってはおりません。譲りました」


 とたんに夫は限界まで目を見開き、つばを飛ばして食ってかかってきた。


ソフィは旦那さんに幻滅して以降、ずっと「旦那さま」とは呼んでいませんでした

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