16. 逆転
アンドレアさまの経営する商会を妻が買い取り、家計を立て直すというのは、おかしく聞こえるだろう。
事実、夫の収入を補填するため私財をなげうつ妻もいる。
けれど私は財産を手放さなかった。
彼をたすけたところで食いつぶされるのは目に見えているし、私には私の収入があるので、彼の収入がないままでも生活はできる。さいわい子どもたちにも不自由な思いはさせていない。このままで充分なのだ。
商会や屋敷を担保に借り入れをして融資を受けようにも、支払いが滞っていることは知られているのでむずかしい。
アンドレアさま個人の評判も地に落ちている。男爵家も息子の振る舞いにさじを投げる様子があり、私の実家は男爵家の判断に追従している。
それでもまだアンドレアさまが反省し、態度をあらためれば援助が見込めたかもしれないけれど――
彼にとって、悪いのはどこまでも私であって、反省すべきこともなければ、下げる頭もないのだ。
ほどなく男爵は決断をくだすだろう。あの無節操な色狂いは我が家の縁者ではありません、我が家は敬虔な貴族です、婚家の家風が息子を狂わせたのでしょう、と。
風評が生命線といっても過言ではない私の実家は激怒する。我が家はまともである、男爵子息はむかしからよその女性に懸想する悪癖があった、素質を養ったのは男爵家であろう、と。
ゆかいな抗争の幕開けである。
男爵と実家が争えば争うほど、アンドレアさまの評判も回復するタイミングを失ったままだ。名誉もなく、社交界から離れざるをえず、貴族むけに販売されていたお酒も売れず、商会の売り上げにも響く。かといって商品は庶民に売れるほど安くもない。絶妙な値付けと貴族の移ろいやすい気まぐれで保たれた利益はたやすく崩れ、やがて仕入れもできなくなる。悪循環だ。
現状を立て直す手段はたくさんある。
経営者として、家族の長として、自覚をもって行動してくれれば差し伸べてくれる手も現れるだろう。――私のように。
ただし。
アンドレアさまがそのような人格をもちあわせていないことは、私が一番よく知っている。
アンドレアさまのが弁護士をともなってあらわれたのは、彼の凋落が旬をすぎたころだった。
ひとの口のはしにものぼらなくなり、ようやくおのれの身の上を実感したのだろう。
本題に入るのをためらうような長い世間話ののち、買い取り案を受け入れる、と、聞き取りにくい声でたしかに言った。
「こちらが詳細です」
弁護士が数枚の紙を差し出す。
はじめにとんでもない条件を提示して譲歩を引き出すのが商人の常套手段。私も心して査読にとりかかる。けれど、思った以上に現実的な内容だった。唯一、首をひねったのは支払い期限だ。
「契約締結後ひと月以内に全額現金で、ですか」
「はい。それから私の依頼人は、こちらに住まいを移すことをお考えです」
「え? いまの屋敷はどうするつもりなの?」
思いがけない提案に驚き、彼に目を向けるも、憎しみが宿った視線を返されて当惑した。商談中の商人にあるまじき失礼さだ。こんな敵意まるだしの状態で、よくここに住むなどと言えるものだ。かえって感心してしまう。
「いまのお屋敷は抵当に入っております」
弁護士が端直に横入りした。タイミングこそアンドレアさまの無礼を謝罪するような風であったけれど、弁護士の声音にはいっさいの感情がなく、あくまでも反抗的な依頼人と交渉相手の潤滑剤としての役割に徹していた。
抵当。アンドレアさまは負債の処理に乗り出しているのだ。ただし弁護士の口振りから考えて、あまり順調ではないのだろう。屋敷がいずれ回収されることを見越して、最低限、住まいを確保するために、遠回しに同居を提案されている。
おそらく、健全な夫婦としての生活をとりつくろって汚名を返上する思惑もあるのだろう。
冗談じゃない。
さんざん好き勝手しておいて、窮地におちいり、このうえまだ自分の都合をふりまわすのか、この男は。
唇を結んですばやく頭を回転させる。
この際、金銭的に損をこうむってもいい。
私だって好きにやらせてもらう。
「……承知しました。おおむねご希望通りにできるかと思います」
壁に控えていたメイドに言いつけて万年筆をもってこさせる。
「ただし金額はこちらで」
と書き加えたのは、商会の買取金額だ。
「買いたたきすぎだろう、いくらなんでも!」
激昂する男は気づいているだろうか。この金額がジャム事業を買い取らせた値とまったく同一であると。
「私には商売のことは分かりかねますが、ずいぶんと安く見積もられていませんか?」
門外漢の弁護士も眉をひそめる金額である。
私はすなおに認めた。
「ですから、代わりにこちらの屋敷の権利と、当面の生活費となる金額を贈与させていただきます」
ほう、と二人の目つきが変わる。大雑把に計算しても提案金額を上回る額だ。断る理由はないはず。
「さらに、屋敷の抵当分も引き受けましょう。借金を返すなり競売で買い上げるなり、どちらでもかまいません。あの屋敷と土地の名義を私の名前に書き換えて明け渡してください」
風向きにまっさきに気づいたのは弁護士だ。ととのった柳眉をひそめて、おそるおそるたずねてくる。
「そうして奥さまは、あちらの屋敷に住まわれるのですか?」
「当然です」
力強く宣言する。
「権利を明け渡すのですから、こちらのお屋敷は、そちらの男性の所有物となります。私ごときが住むなんてとんでもない。子どもたちとともにすぐに出ていきますわ」
「なんだと……?」
「この条件でよければいますぐにでもサインをしましょう」
とかなりの好条件を提示したが、すぐに和解には結びつかなかった。
本来の目的だった事業の買い取りは二つ返事で済んだのに、「当面の生活費」でもめることになった。あちらの派手な生活と、私のつつましい生活に差があることはもちろん、ここぞとばかりに欲を丸出しで要求されたからだ。
疲れ果てて、もういいかと投げやりな気持ちを見せると、彼はさらに贈与税も持ち出してもっと大きな額をせまってきた。
さすがに看過できず、弁護士も彼をなだめてくれたようだが、自制を持たない人間は厄介である。
揉めに揉めて、彼の地に落ちた悪評はさらに無恥を上塗りすることになり、それでも彼は応じず、結局二年かけて合意にいたった。
そんな強欲と、ひと呼吸たりとも共同生活が送れるはずがなく。
すべての書類がととのい、契約締結と同時に、私と子どもたちは昔の屋敷に引っ越した。