15. 凋落をさそう
生活の拠点を移し、日々が落ち着きはじめたころ。
昼食を済ませて新しいジャムのレシピの提案書に目を通していると、そのひとはやってきた。
「ソフィ、どういうつもりだ!」
押しとどめようとするメイドを振り払い、執務室に押し入ってきたのはアンドレアさまだった。
貴族の子女とは思えない乱暴な姿についため息が出てしまう。これ以上、失望させないでほしいのに。
「ごきげんよう。よくこちらがお分かりになられましたね」
とは言うものの、いつかは知られる覚悟でいたため驚きはない。
おおかた使用人を問い詰めたのだろう。口止めはしていたものの、解雇や減給など、理不尽な天秤にかけられたときは話してかまわないとも言っていた。私は彼から逃げたいのではない、決着をつけたいのだ。
「とぼけるな! 勝手に出て行ったあげく、なんだこれは!」
にぎりしめた書類を机にたたきつけて、彼は怒気を放った。
「この請求書の山! それに近辺の商店もだ。掛け払いを受け付けないとはどういうことだ!?」
「現金払いのみの取り引きなら応じる、ということでしょう」
いやだわ、まさか商売人が掛けの意味も分からないのかしら。
そんな嫌味をこめて流し見ると、アンドレアさまは頬に朱を走らせた。
「そんなことは分かっている、問題はどうしてこんなことになったかだ! 聞いたぞ、もうふた月以上、支払いを滞らせているらしいな。自分はこんな別宅を買いつけているくせに……」
「こちらの屋敷は私の持参金から支度をととのえて手に入れたものですわ。アンドレアさまとは関係ございません」
「ッ、ならば請求書は……!」
「執事に聞いていらっしゃらないのですか? 帳簿をちらりとでもご覧になればよかったのに。……あの家は破産しかけておりますのよ」
「は……」
……さ、ん? と、あえぐような音でくり返された。
さすがに破産の意味まで見失ってはいないだろう。
私は笑みを深めて彼に一歩詰め寄った。
「よそに女を囲おうが、悪妻をおとしめようが、お好きになさればよろしい。私もほとほと愛想もつきました。しかし家長を気取るのであれば、せめて、家の実情くらい把握なさいませ」
説明を続ける。
「まずはご自宅におもどりになって、収支を見直されてください。商会の収入と屋敷の管理維持、それにあなたの交際費と……いつの間にか増えている『私の』出費ですわ」
私の、という単語にとくに力を込める。
実際には、私はあの家から支出はさせていない。だれがなんのために使用した支出か、ほかならぬ彼が一番知っているはずだ。
「そしてよくよくご確認ください。赤字に転落するはるか以前から、私と子どもたちの支出はすべて、私の私費でまかなっております。あなたには一切お世話になっておりません。ですから今後とも、私たちの心配はご無用です。あなたはあなたの身ひとつを案じてください」
「なにを……!」
「さあ、お客さまがお帰りになるわよ!」
声を上げると、男性使用人が四人がかりで彼を追い出した。
暴れる彼の背中に向かって忠告する。
「次はきちんと面会日をとりきめておいでくださいませ」
けれど彼は助言を無視した。
三日とあけず我が家を訪ねてきたようだ。
しかしいずれも私は屋敷にいなかった。新作ジャムの製造の打ち合わせ、限定ジャムを詰める特別な瓶の説明会、上得意さま――王家への納品と、多忙をきわめていたからだ。
朝早くにやってきて、夕方に帰宅予定だと聞いて出直すもまだもどっておらず、すごすごと帰ったという話も聞いた。
いつの日かは、息子のシリルが対応した日もあったようだ。
「つばめか、と言われました」
「つばめ?」
背が伸びて精悍さをさらに増した息子は、苦笑と嫌悪と呆れを混ぜた、むずかしい顔を作って報告してくれた。
「つまり母上の愛人だと。どうやら僕がだれか分からなかったようです」
「……あきれて言葉もないわ」
「ええ、僕も耳を疑いました」
たしかに例の誕生パーティー以来、シリルは父親とほとんど顔を合わせていない。そもそも幼いころから極端に接点の少ない父子だった。だからといって息子を、妻の愛人とまちがえるだなんて。
「周囲がまるで見えていないようでした。追い詰められているのではないでしょうか」
「そうね、ドレスや宝石は買い止めできても、日々の食事や使用人のお給金は止められないもの」
愛人の家賃、食費もだ。
もっと深刻なのは商売のほうだろう。
当面は貯蔵品でまかなえても、仕入れが滞れば商売に障りが出る。
破綻もそう遠くはない。
ようやく学習したらしいアンドレアさまから、予定をうかがう手紙が届き、約束を交わして私たちが再会したのはシリルとの会話から十日後のことである。
いつかの勢いはすっかり失われ、くたびれた男性が来客用のソファに座った。
ぎらぎらとした目には憎しみに似た炎が宿っている。どうせまた「この女のせい」などと考えているのだろう。
すっかり麻痺した心は、なんの感情ももよおさない。私もしとやかにソファに座る。
「ようこそ、今日はお天気もよく……」
「これを見ろ」
横柄に投げ広げられた書類は、私がとりまとめてあの屋敷に残してきた帳簿だった。
直近の分の書き入れはなく、更新されていない。私が不在なのだから、家計管理は彼が担うべきなのに、放棄しているのか。
「これを見てなにも思わないのか!」
「大きな赤字だな、と思います」
「なにをっ……まともに家計管理もできない分際で!」
さすがにこの言葉には苛立ちが湧いた。
従順のヴェールをぬぎ捨てるほどに感情がゆらいだ。
「ええ、できておりませんでしたわ。それは謝罪いたします。ではいまからまともに働きましょうか。あなたのそのルビーのカフスも、郊外のアパートメントに運びこまれた総刺繍のワードローブも、屋敷のシャンデリアランプも一切合切、売ってしまえばよろしいのです」
応接用の机を叩き、立ち上がった彼は、それから激しく私を罵った。
内容は覚えていない。
耳を傾ける価値も、記憶する理由もない。
ひと通り終わったところで憎悪にたぎる目を見上げた。
青筋をたてて激昂する中年の男に、貴族らしい涼やかさはなかった。
この人を好きだった私の青春は死んだのだと、強く感じ入った。
「子どもたちのことは、なにもおたずねにならないのね」
「…………は?」
まん丸に見開かれた目が、そんなことを言っている場合か、と語っていた。
彼にとって子どもたちは「そんなこと」なのだ。
「ひとつだけ考えを改めてください。赤字の原因は私ではありません。現に、この帳簿に私や子どもたちのものは計上されていません」
「……なにを」
まだ往生際をわきまえず、さえずろうとする声に割り込む。
「それが理解できたら、また話し合いましょう。用意はしておきますわ」
「用意だと?」
「ええ。私には、あなたが保有する商会を買い取る準備があります」
私は、あなたにジャム事業を買わされたあの日を、あの感情を、はっきりと覚えている。