11. 不穏な雲
「予算がない?」
低頭する執事の禿頭を、驚きとともに見つめる。
新しいドレスを作るためメイドに仕立屋を呼ばせようとしたところ、息をはずませて彼がやってきたのだが。
「どういうことかしら。予算は私も把握しているつもりだけど、まだ残っているはずよ」
「それは、その……私からは、なんとも……」
歯切れの悪い言葉からすぐに察した。
「分かりました。旦那様の元へ参ります。先触れをしてちょうだい」
「はい」
執事を見送り、軽くお茶をする程度の時間を置いて、私はアンドレア様の執務室へ向かった。
私の予算が尽きかけているとありのままを報告すると、彼は不愉快を体現するかのように顔を歪ませた。
出会ってもう十年以上経った彼は、いつの間にかちらほらと白髪が見え隠れするようになり、頬に浅い皺が刻まれつつあった。
「ふん、一体何着作る気だ」
「何着もなにも、今年に入って初めてのことです。執事に確認をしてください。次の社交期でお誘いを受けているのは侯爵家です。そのために予算を温存して、」
「口答えをするな!」
万年筆が跳ねるほど強く机が弾む。夫が力任せに叩いたのだ。
彼はどうしてこんなに怒っているのだろう。
それこそ、たかがドレスの一着ではないか。目くじらを立てるほどのことなのか。
私はただ予算が消えた理由を知りたかっただけなのに――そう、お金が勝手に消えるはずがないのに。
子どもたちが勝手に持ち出せる金額でもない。
そもそも尽きたのは「予算」であって「現金」ではない。
予算から払いだせるのは、私を除けば一人だけ。……残念だけど犯人は明らかだ。
「口答えではなく質問です。一体なにに使い込まれたのですか」
「……それは」
怒りなのか羞恥なのか、ともかく彼は顔を真っ赤にして表情筋を曲げ伸ばししながら声をしぼり出した。
「……、を、…が……」
「はい?」
「ッ、商売のためだ! 当たり前だろう!」
言い訳にしてもひねりが足りない。
私は一気に冷めてしまった。
お金の使い道などとっくに目星はついている。それでも私はあえて言葉を重ねた。我ながら意地が悪いと分かっていながら言わずにはいられなかった。私だって腹を立てているのだ。反撃でもしないとやっていられない。
「私費を投じなければならないほど困っておいでなのですか。では旦那様の予算もとっくに底をついておいでなのでしょうね」
「口答えをするなと言っただろう!」
まったくだ。言うに事を欠いて同音同語の繰り返しとは芸がなさすぎる。あまりにも無益でむなしい。今後はもう反論なんてやめよう。
「承知いたしました。ドレスは私自身でなんとかいたしますわ」
幸い、ジャム事業が上向きになり、私にもいくばくかの報酬が支払われるようになった。
失った持参金の補填にあてていたが、必要額だけ崩して使うしかない。
夫は言い訳で――言い訳にもなっていなかったが――頭をいっぱいにして聞き逃したようだが、お誘いいただいたのは侯爵家である。髪のひと筋も失礼は許されない。
かくして私は久しぶりに勃発した夫婦喧嘩を一方的に終わらせた。
使い込んだお金の行方について、そしてそのお金をどう穴埋めするか話し合わなかったのは、わざとである。