「真実の愛」を手に入れた女
たしかに神に祈った。あの人の妻になりたい、と。
父に泣いてすがった日のことを思い出す。
「あの男を所有することはできるだろうが、心は手に入らないかもしれない。それでもいいのか?」
あの人がわたくしのものになるなら何でもよかった。だから頷いた。「心は手に入らない」の意味も深く考えずに。その時のわたくしには、ラディウス様が傍にいさえすれば、それでよかったのだ。彼の心が誰のものであろうと、わたくしの隣に彼がいるという事実こそが、何よりも重要だった。
あの人――ラディウス様のことを意識するようになったのは、学園に通うようになってからだ。父が貿易で莫大な利益をもたらし、侯爵へと陞爵した。それに伴い、わたくしの周囲は、これを機にドーヴァー家に取り入ろうとする有象無象で囲まれた。それまでは成金の伯爵家の娘として、比較的自由気ままな生活を送っていたわたくしにとって、侯爵令嬢としての生活はあまりにも目まぐるしく、息苦しいものだった。
慣れない社交界のしきたりに振り回され、常に誰かに言動を監視され、ささいなミスでもしようものならまるで大きなことのように語られる。そして何よりも、わたくし自身に向けられる露骨な打算の視線。すべてが窮屈で、あのころは人間不信に陥っていたと思う。華やかなドレスに身を包み、優雅な笑顔を浮かべていても、その裏では常に誰かの目が光り、言葉の一つ一つが品定めされているような感覚に囚われた。呼吸すらままならないような重苦しい日々が、わたくしの心をじわじわと蝕んでいった。
新しい環境に戸惑い、与えられた使命の重さに押しつぶされそうになっていた頃、ラディウス様が現れた。どこかの愚鈍な侯爵子息に、しつこく茶会に誘われていたのを助けてくれたのがあの人だ。彼は、その侯爵子息を軽くあしらい、わたくしの手を引いてその場を離れた。どんな話をしたのかはよく覚えていないけれど、優しくほほ笑んで声をかけてくれたこと、わたくしの境遇に同情してくれたことは今でも覚えている。彼の瞳には、わたくしを気遣うあたたかさと、ほんのわずかな憐憫の光が宿っていたように思う。それが、当時のわたくしにとっては、どれほど救いだっただろう。
あのときから、わたくしにとってあの人は特別な人だ。ヴァレンシュタイン公爵家という、王家に次ぐ権勢を誇る家の嫡男でありながら、あの人はいつも超然とした様子で、爵位にも権力にも興味がないように見えた。その上、博愛主義者で、いろんな令嬢たちと浮名を流しながら、本命をひとりに絞るどころか、むしろ、その姿すら周囲を油断させるための仮面のようでもある。わたくしも何度か声をかけられて同じ時間を過ごすことがあったけれど、あの人はわたくしを見ているようで、まったく見ていなかった。それが逆に心地よくて、あの人は、わたくしが侯爵令嬢となってから初めて出会った、心の底から安心できる男性だった。
彼の隣にいると、わたくしに向けられる打算的な視線が和らぎ、一時的にでも安らぎを感じることができたのだ。身体的な接触があったわけではないのに、いつも優しく抱きしめられてるような錯覚を覚えていた。
ドーヴァー家が高位貴族の仲間入りをしてから、高位貴族が集まる茶会に招待されることが増えた。しかし、そのほとんどは、ドーヴァー家と関係を持ちたいという顔をしながら、わたくしがいかに侯爵令嬢としてふさわしくないかを、陰湿に、執拗に、わたくしが笑顔を浮かべる余裕すら持てなくなるまで言い続ける地獄のような内容だ。
そんな茶会があったときは、いつもあの人に話を聞いてもらうのが通例だった。あの人は、わたくしをいじめる令嬢を批判することはないけれど、優しく肩を撫でて同情してくれた。そして、わたくしの努力を認め、「いつかうまく対応できるようになる」と励ましてくれた。どうしてわたくしのほしい言葉がわかるのだろう。それはほとんど依存に近かったように思う。彼の言葉はいつだって、わたくしに貴族としての覚悟を与え、前を向く勇気をくれた。
あの人の言葉は、いつだってわたくしの心にそっと寄り添ってくれた。他の貴族子息たちは、意地悪なご令嬢を悪く言ってわたくしを持ち上げてくれるけれど、それはうわべだけの、わたくしに気に入られたいだけのもので、その言葉を聞いた他の方たちが、わたくしに厳しい目を向けることなど想像もしない、そうなることなど考えてもいないような頭の中がきれいなお花でいっぱいの方たちばかりの中で、あの人だけは、ただひとりの人間としてわたくしを見てくれて、わたくしの立場を慮ってくれているように感じたのだ。
あの人は、わたくしが侯爵家の娘としての重圧に押しつぶされそうになっていることを、誰よりも理解してくれていた。だからこそ、わたくしの立場が危うくなるような過剰な慰めではなく、ただそばにいることを選んでくれた。その優しさは、まるで乾いた土に染みわたる水のように、わたくしの心に深く浸透してやわらかくしてくれたのである。彼の存在は、わたくしにとって心の拠り所であり、唯一の聖域だった。
あの人と結婚したい。――本来ならば願うことすら許されない望みを、わたくしは抱くようになってしまった。公爵家の嫡男と成り上がりの侯爵令嬢。身分は違えど、わたくしにはあの人が必要だった。彼でなければ、わたくしは生きていけないとさえ感じていた。
あの人の、ただの社交辞令ではない、心からの優しさに触れるたび、わたくしの胸は高鳴った。あの人と結ばれたいという純粋な願いは、言葉を交わすにつれて、あの人以外にわたくしにふさわしい方はいないという尊大な思いへと変わっていった。政略結婚が当たり前の世の中で、しかも侯爵令嬢のわたくしが、心から愛する人と結ばれる。ありもしない夢物語なのに、あの人に依存しきっていたわたくしは、それがあるべき未来なのだと、固く、そして無邪気に、信じていた。
そんな盲目的な状態のわたくしにとって、学園でのラディウス様の態度は、わたくしへの好意の表れだと信じて疑わなかった。あの人はたびたびわたくしを観劇に誘って街に連れ出してくれたし、学園の中庭で二人きりで談笑することもあった。あるときは、めずらしい東方の菓子を贈ってくれたこともあった。
他の令嬢たちと話している姿を見かけることも多く、心がかき乱されたけれど、あの人の心はいつでもわたくしにあると思っていたし、わたくしといるときは、どこか特別で親密な雰囲気を纏っていたように感じたのだ。あの人は機知に富んだ冗談を言い、わたくしの話に真剣に耳を傾けてくれた。わたくしが市井の物語が好きだと話すと、彼は興味深そうに目を輝かせ、その話に続く質問を投げかけてくれた。ふつうの公爵子息なら、わたくしを見下して馬鹿にするところなのに。彼の優しい眼差しと、わたくしの言葉を真剣に聞く姿勢に、わたくしはすっかり心を奪われた。
ともに過ごす時間に比例して、あの人もわたくしを好きに違いないと、無邪気な確信を深めていった。周囲の令嬢たちは、ラディウス様を「軟派な方」だとか囁いていたけれど、わたくしには彼が、周囲の人間を油断させるためにそう振る舞っているだけなのだとわかっていた。あの人の本当の姿は、もっとまじめで、わたくしには理解できないほど広い世界を見つめている、すばらしい男性なのだと。わたくしはあの人の本質を見抜いているのだと、そう自惚れていたのかもしれない。そして、いつか、あの人が仮面を脱ぎ捨て、真実の姿をわたくしだけに見せてくれる日が来るのだと、夢見ていた。
卒業パーティーの日、わたくしは心の中で、ラディウス様からの婚約の申し込みを待っていた。彼がきっと、人前で堂々とわたくしを妻に迎え入れる宣言をしてくれると信じていたのだ。その日のために、わたくしはとっておきのドレスを用意し、胸を高鳴らせて彼の言葉を待っていた。わたくしの取り巻きになった令嬢たちも、しきりにあの人はわたくしをダンスに誘うはずだとそう言ってくれていたのに。会場のきらびやかなシャンデリアの下、わたくしは彼の姿を目で追い、彼の視線がこちらに向くたびに、期待に胸を膨らませた。
セレス・アークライト。
令嬢のくせにいつも机にかじりついて勉強にばかり打ち込んでいる変人令嬢。あの人に会いに教室を覗くたびに、教室の片隅でひとりでいるのをいつも視界の端にとらえていた。わたくしとは人間が違うくらいにしか思っていなかったし、同じクラスでもあの人と話すところなど見たことはなかったはずだ。地味なドレスに身を包み、目立たぬように隅に控えている彼女を、わたくしはいつも軽蔑の眼差しで見ていた。まさか、あの人が、そんな女を選ぶはずがないと。
それなのに、あの人はわたくしの手でなくて、セレスとかいう女の手を引いて会場を出て行った。信じられない光景だった。わたくしの目に焼き付いたのは、ラディウス様の優しいほほ笑みと、それにこたえるかのように恥ずかしそうにうつむくセレスの姿。
あのときのわたくしは何も言えず、呆然と二人の後ろ姿を見つめることしかできなかった。王宮文官がどうのこうのと言っていたが、そんなこと、わたくしにはどうでもいい。重要なのは、あの人がセレスの手をとったというあり得ない現実だけである。わたくしの胸に、鉛の塊が沈み込んだような重苦しさが広がった。
あの人のいつもの博愛主義だと、そのときはなんとか自分を納得させた。しばらくして戻ってきた二人が何を話しているのか気になったけれど、それ以上二人が接触している様子もなかったし、あの人はいつも通りいろんな令嬢に囲まれてにこやかに対応していた。そのいつもと変わらぬ様子に安心し、きっとそのままわたくしのもとに来てくれると悠長にあの人を見つめる。
それなのに、その日、あの人はセレス以外の手をとることはなかった。わたくしは、彼がいつかこちらに歩み寄ってくることを信じて、ただただ待ち続けた。しかし、パーティーが終わるまで、いえ、終わっても、彼はわたくしのもとへは来なかった。わたくしの心は、深く暗く澱んでいった。
翌日、自室でぼんやりといつになったら結婚を申し込んでくれるのだろうとすねているわたくしのもとに飛び込んできたのは、セレスという女とあの人が婚約をしたという無茶苦茶な到底受け入れがたい話だ。
学園で首席を譲らなかった、地味で、誰とも交流のない、机が一番の友人とも言える女として取るに足りない存在の令嬢。彼女は確かに優秀だったけれど、あの人が選ぶなんて、どう考えてもあり得ない。そもそも何の利益もない。ドーヴァー家と違って、ギリギリ貴族の体面を保っているような家の令嬢が、世の覚えめでたいヴァレンシュタイン公爵家とどうして縁を結ぶことができるのだろう。それにしたって、あの人とセレスはつり合いがとれていないし、あの人がセレスに興味を持つなんてわたくしには全く理解できなかった。わたくしが知る限り、彼女は社交の場にもほとんど現れず、あの人との接点もほとんどなかったはずだ。なのに、どうして?わたくしが思い描いていた未来に、大きなひびが入った瞬間だった。
あの日の衝撃は、今でも鮮明に覚えている。心臓を鷲掴みにされたような痛みと、全身から血の気が引いていくような感覚。わたくしの未来は、崖っぷちである。気を抜けば、そのまま崖下に落ちてしまいそうだ。なぜ?どうして?わたくしはずっと、ラディウス様からの愛を信じていたのに。あの優しい言葉も、あの親密な時間も、全てが幻だったというのか。あの人がわたくしに見せていた優しさは、ただの博愛主義者の気まぐれだったのか。わたくしの感情は、怒り、絶望、そして深い悲しみでぐちゃぐちゃになった。
父にそのことを打ち明けると、父は冷めた目でわたくしを見つめ、意味不明なことを淡々と言い放つ。
「派閥の関係だろう。あの小娘は、保守派クロムウェルの弱点になった。ヴァレンシュタイン公爵家は国王派だ。どうせ、クロムウェルに圧をかけようと短絡的なことを考えているに違いない。あんなやつよりも、もっといい条件の相手を見繕ってやるからあきらめなさい」
父の言葉は難しくてほとんど理解できなかったけれど、たった一つ、あり得ない言葉があった。あきらめる――何を馬鹿なことを言っているのだろう。そんなこと、できるはずがなかった。むしろ、あきらめる理由が何一つ見当たらない。わたくしにとって、あの人は、結ばれるべき唯一の人だ。心から愛し、人生をともに歩みたいと願った、唯一の男性だった。わたくしのすべてだった。このまま彼の隣を、あの取るに足らない令嬢に奪われるなど、断じて許せなかった。顔に出さないよう努めていたけれど、わたくしの魂は、彼を求めて幼子のように泣き叫んでいたのだ。
どうしても納得がいかず、わたくしは取り巻きの令嬢を使って、あの人と過去に関係のあった他の令嬢たちに、それとなくセレスの悪口を吹き込んだり、彼女を社交界で孤立させるように仕向けたりしたのだ。わたくしですらあの人がいなければ耐えられなかったいじめを、あんな女が耐えられるはずがない。そうしてみじめに泣いて、次期公爵夫人としての資質がないと周囲にわからせることができればいいと思っていた。
「あんな地味な方が、公爵夫人になるなんて、社交界の笑い者よ」
「何かはしたない手段でも使ったのかしら?頭だけは回るようですし」
そういった言葉を、わたくしは陰で囁き、他の令嬢たちにも同調するよう促した。茶会の席で、セレスが話の輪に入れないように仕向け、わざと彼女の前であの人との「思い出話」をすることもあった。このときばかりは、あのときわたくしをいじめてくれた令嬢たちに感謝したものだ。あの方たちのおかげで、いじめのバリエーションに困ることはなかったのだから。わたくしは、醜い感情に身を任せ、セレスを貶めることだけに執着した。彼女が屈服し、涙を流す姿を想像するたびに、わたくしのあるべき未来が少しずつ修復されていくような錯覚を覚えていた。
しかし、セレスは、わたくしの想像をはるかに超えるほど、神経の図太い女だった。彼女は、どんな嫌がらせにも動じることなく、常に淑女の笑みを浮かべ、毅然とした態度を崩さなかった。まるで、わたくしが仕掛けたことなど、取るに足らないことだとでも言いたげな態度に、わたくしは怒りを募らせる。あの人の隣を奪っておいて、幸せそうな顔をすることもなく、まるであの人のことなどこれっぽっちも愛していなさそうな態度が、神経をていねいに逆なでし、ますますわたくしに火をつけたのだ。
セレスに何をしても無駄だと悟ったわたくしは、再び父に泣いてすがった。「どうしても、ラディウス様の妻になりたい。あの人をわたくしのものにしたい」と、声を枯らして訴えた。どんなに陰湿ないじめを受けても、涙一つこぼさないよう取り繕っていたわたくしが、まるで獣のように喉が張り裂けそうになるほどみっともなく叫びまわった。父は、わたくしの必死な懇願に、少しだけ考える素振りを見せたあと、いつになく真剣なまなざしでわたくしを見つめる。
「あの男を所有することはできるだろうが、心は手に入らないかもしれない。それでもいいのか?」
わたくしは、すぐに頷いた。父の話はやっぱり難しくてよくわからなかったけれど、あの人がわたくしのものになるなら、どんな手段でも構わない。「心は手に入らない」――その言葉の意味を考えもせず、わたくしは迷うことなく、父の提案を受け入れた。そのときのわたくしは、ラディウス様への執着と、セレスへの嫉妬に駆られていた。彼の隣を手に入れるためなら、どんな犠牲も払う覚悟だった。
父の言う通り、わたくしは王家主催の夜会でわざと騒ぎを起こした。ラディウス様の妻として隣に立つセレスを、公衆の面前で口汚く罵ったのだ。それは、わたくしのこれまでの人生で、最も屈辱的で、恥ずかしい行動だった。しかし、それでも、ラディウス様を手に入れるためならば、どんな汚名も厭わなかった。罵詈雑言を浴びせ、セレスの顔が僅かに歪んだのを見たとき、ほんの一瞬わたくしの胸がすく思いがした。わたくしの絶望を少しでも思い知ればいいと考えていたのである。
夜会から退場して屋敷に戻ると、わたくしはすぐに父が用意してくれた薬を飲んで、自殺未遂をはかった。意識が遠のいていくが、恐怖は何一つない。わたくしに見えているのは、あの人の隣に立つわたくし――あの人とわたくしの、あるべき未来の姿だったのだから。朦朧とする意識の中で、わたくしは、あの人がわたくしのもとへ駆け寄ってくる姿を鮮明に思い描いていた。
次に目を覚ますと、いつもの見慣れた寝台の天蓋だった。頭が重く、体中に倦怠感がまとわりついていた。しかし、そんな中でも、わたくしの視線は、枕元に座る人物へと吸い寄せられた。そこには、心配そうにわたくしを見つめるラディウス様の姿があった。わたくしの願いは、叶ったのだ。彼の顔を見た瞬間、心から安堵し、満たされた気持ちになった。彼の瞳には、わたくしへの後悔と、そして確かに、わたくしを気遣う優しさが宿っていた。その優しさは、かつて学園でわたくしに向けられたものと同じで、わたくしは彼が、わたくしを本当に心配してくれているのだと信じられた。彼がわたくしの手を取り、その温かさが全身に広がったとき、わたくしは、この世の全てを手に入れた喜びで胸が震えた。
その後、社交界では「ヴァレンシュタイン次期公爵の秘匿されし真実の愛の相手であるイザベラが、愛の力で目を覚ました」という噂が駆け巡った。それは、父が社交界に流した筋書き通りのものである。あの人は、噂が想像以上に広まったせいで、ヴァレンシュタイン公爵に屋敷で軟禁されているようだ。
セレスは、生贄にされたのだ。あの人に醜聞が向かないように、そして、セレス一人が悪者となるように。これが貴族社会だ。みんな、自分たちさえよければ平気で他人を切り捨てる。セレスは才女のくせに、そんなことも知らなかったのだ。知っていれば、次期公爵家の嫡男にほいほいと嫁ぐわけがない。心から相手を愛しているなら別かもしれないけれど。
愚かなセレスは、自分が生贄になったこともわからず、離縁もせずに公爵家の妻として耐え忍ぶ日々を送っていたらしいが、結局、彼女は修道女となり、世俗との縁を切った。馬鹿な女だ。離縁でもなんでも方法はあるだろうに、あの女は最後の最後で逃げ出した。あの女に、あの人を受け入れる度量など最初からなかったのだ。
その知らせを聞いたとき、わたくしは静かな高揚感を覚えた。これで、彼を完全に手に入れられる、そう思った。彼女が俗世との縁を切ったことで、あの人との婚姻関係は解消された。しかし、その代償として、あの人は次期公爵の座を降りることになったらしい。
実際に、廃嫡されたわけではないが、まだ十歳の公爵家の四男が当主教育を受けることになったと噂ですぐに回ってきた。今回のことで、ヴァレンシュタイン公爵家の名を傷つけたと公爵が判断したのだろう。
あの人は、すでに賜わっていたヴァレンシュタイン公爵家がもつ伯爵位を受け継いでいる。きっとこのまま伯爵として過ごすことになるに違いない。わたくしは胸の高鳴りを覚えた。侯爵令嬢のわたくしが、ただの伯爵に嫁ぐことに、何の障害があるというのだろう。わたくしがほしいのはあの人自身であって、あの人が持つ地位や名声など、どうでもよかった。彼の地位が下がったところで、わたくしの彼への気持ちは微塵も揺るがない。むしろ、彼が他の令嬢たちの羨望の的ではなくなったことで、より一層、彼がわたくしだけのものになるのだという独占欲が満たされた。
あの人が事実上の次期公爵でなくなったことで、他の令嬢たちがあの人から興味を失っていく中、わたくしだけがようやくあの人の隣に立つことができる喜びにうち震えていたことを、理解できる者はいるだろうか。きっと誰にも理解できない。真実の愛は、いつだって誰にも理解されないものだから。わたくしは、彼が公爵家の都合のいい道具でなくなり、ようやく一人の男性として、わたくしの側にいられるようになることに、言いようのない幸福を感じていた。
父はわたくしの希望通り動いてくれた。ヴァレンシュタイン公爵にはたらきかけて、あの人とわたくしの結婚を認めてくれたのだ。セレスが修道女になった今、わたくしとあの人が結ばれれば、「真実の愛を貫いた」として表面上は美談とすることができる。あの人の名誉はギリギリ守られるというわけだ。わたくしのあるべき未来が、ようやく実現するのである。
いつかうまく対応できるようになる――いつだったかあの人が言った通り、わたくしは貴族としてうまく対応できたと思う。あの人だって、わたくしの成長を喜んで、隣に立つにふさわしいと考えてくれていることだろう。そう信じていた。
あの人は、優しくわたくしを受け入れてくれた。結婚生活は、わたくしが望んだ通りのものだった。あの人はわたくしに心から優しく、紳士的に接してくれた。屋敷の中でも、社交の場でも、常にわたくしを気遣い、大切にしてくれた。「真実の愛」を現実のものとするためだったとしても、あの人の瞳にわたくしが映っていることが幸せでたまらない。毎朝、彼の隣で目覚めるたびに、わたくしは幸福感に包まれた。彼の触れるものすべてが、わたくしにとって至福の喜びだった。
しかし、ただ一つ、彼の口から聞くことのできない言葉があった。「愛している」という、たった一言。
彼はわたくしに、常に優しい言葉をかけてくれた。わたくしが体調を崩すと、心配そうに顔を覗き込み、夜には寝物語を読んでくれることもあった。わたくしが新しいドレスをまとえば、彼は「よく似合っている」と褒めてくれた。しかし、どんなに親密な瞬間でも、どれだけわたくしが彼の心に近づこうとしても、彼は決して「愛している」とは言わなかった。そんなの、理由はもちろんわかりきっている。
ラディウス様は、セレスのことを愛している。しかし、彼自身は、その自覚がないのだ。
彼はわたくしのことを見つめながら、その奥に別の何かを探している。教会を見かけるたびに一瞬見せるさみしそうな横顔。極めつけは、夜寝ているときに、彼がしばしば涙を流してあの女の名を呼んでいたこと。
あの短い結婚生活の中で、あの女の存在は確実に大きくなっていたのだろう。だからこそ、あの女は生贄になったことがわかっても最初のうちは我慢をしていたのかもしれない。どこまでもあざとく、忌々しい女だ。あの女はあの人の好意に気づかないふりをして、信頼関係が結べていると考えていたに違いない。自分に対してよこしまな感情がないからこそ感じる安らぎ。わたくしはそれを痛いほど知っている。きっと彼は、セレスにその安らぎを感じていた。
だからこそ、あの人は今、セレスが自分の隣からいなくなって初めて、彼女の存在の大きさに気づいている。しかし今まで博愛主義者を演じていたあの人は、それが「愛」だと気づいていない。あの女がいたときはよかったとか、「失ってしまった大切なもの」として、その心に居座っているのだ。あの人はその感情を、まだ「愛」だと認識できていない。
わたくしがあの人の心を手に入れることは、おそらく一生できないだろう。どんなに努力しても、あの人の心の中には、セレスという存在が深く根を下ろしてしまっている。それは、まるで彼の魂に刻まれた因子のように、決して消えることはない。
それでも、わたくしには微塵の後悔もなかった。
心なんて不確かなものより、そばに愛しい人が存在していることのほうがどれだけ重要か。あの人の隣にいることが、わたくしが幸せであるための必要十分条件である。あの人がセレスを愛していることに気づかないまま、わたくしとの「真実の愛」を貫く以外に自分に選択肢はないと思い込んでくれていれば、あの人の隣にずっとい続けられるのだから。
そうして、ラディウス様は一生、セレスを愛していることに気づくことはないだろう。あの人は、ヴァレンシュタイン公爵子息として全てを持っていたけれど、愛を知らない幼子だった。だからこそ学園で浮名を流し、わたくしのような女に絡めとられることになったのだ。あの人は、愛なんて存在しないと心の奥では馬鹿にしているに違いない。その自尊心が邪魔をして、セレスへの愛を認められないという悪循環に陥っている。
愚かで愛しい人。わたくしだけの、運命の人。愛を見つけているのに、それに気づかず、一生手に入らないものを求めて、でもそれを必死に押し殺し、わたくしを妻として気遣うことに全力を注ぐしかないあわれな人。なんてすてきな「真実の愛」だろう。
夜の帳が降り、隣で穏やかな寝息を立てるラディウス様の横顔を見つめる。今夜も涙を流してセレスの名を呼ぶのだろうか。そんな彼を慰めるように静かに頬に口づけを落とし、わたくしはそっと目を閉じる。
あの人の心は、わたくしのものではない。けれど、わたくしの隣に彼はいてくれる。それこそが、わたくしにとっての「真実の愛」だ。