③
セレス・アークライトは、ラディウスにとって、不思議な令嬢だった。
剣豪と名高いアークライト子爵の娘として生まれたのが、彼女の悲劇だったのだろう。この国で、女性が剣を握ることは許されない。よほどの理由がなければ爵位だって継ぐことはできない。そんなセレスのことを、ラディウスは最初あわれな人だと考えていた。
幼いころ、高位貴族が集まる茶会に、子爵令嬢ながらセレスが参加しているのを意外に思って父に聞いたことがある。公爵は、「アークライト子爵は王国の剣として陛下も重用している」と言っただけだったが、聡いラディウスはそれだけで理解した。
戦のたび前線に勇猛果敢に飛び出し武勲を上げ、王国に貢献する。だからこそ、アークライト子爵を国王陛下は無下にできない。にもかかわらず、彼が未だに子爵なのは、貴族としての政治的な立ち回りが絶望的に苦手だったからだ。国王陛下は兵士としてアークライト子爵を信用していたが、貴族としての能力は信用していなかったのだろう。なので、子爵より上の爵位をとうとう賜わることがなかった。
そこまで推測すると、茶会に参加する幼いセレスが、ラディウスにはあわれでならなかった。子爵の後継者にもなれず、父が貴族として無能なばかりにもてあまされている令嬢。セレスは茶会に参加しても、他の子どもたちと積極的に関わろうとはせず、たいてい目の下に隈をつくった顔でにこにこしているだけだった。
数年後、アークライト子爵に待望の男子が生まれたと父から聞いたラディウスは、セレスの隈のある顔を思い出して胸を痛めたが、それだけである。彼女を婚約者にしようなど考えたこともない。ラディウスは父のあとを継ぎ、三派閥の安定を図り、公爵家を繁栄に導く使命がある。セレスを妻とするには、政治的メリットがあまりにもなかった。
そうしてアークライト子爵が戦場で殉死してしまうと、アークライト子爵家は呆気なく傾き、セレスが茶会に参加することもなくなった。
だからこそ、ラディウスは、学園に入学したときの首席の名前がセレス・アークライトだと聞いたときは驚いた。アークライト子爵家はすっかり潰れたのかと思っていたが、なんとか貴族としてぎりぎりの体面を保ち、セレスの弟が成人して正式に子爵を継承するまで残り数年だと言うではないか。
セレスのことなどすっかり忘れていたラディウスは、アークライト家の現在を調べて目を丸くする。夫人が病気がちだったときは、まだ幼いセレスが一家の切り盛りを行っていたというのも彼を驚かせた。彼女が首席で入学した理由も納得のもので、ラディウスはしばしば彼女を観察することが日課になった。
学園では、ラディウスの周囲に集まる令嬢のように、なるべく自分を美しく見せ、少しでも条件のいい貴族家に嫁ごうと考えている女性がほとんどである。それは決して卑しいことではなく、女性にはそういう生き方しかない、というのが正しい。貴族として生きていくためには、彼女たちは少しでもいい条件で結婚するしかないのだ。
ところがセレスは、そんな令嬢たちとは異なり、自分を美しく見せることよりも知識を身につけることに心血を注いでいるようだった。と言うよりも、自分が男性に相手にされることをはなからあきらめているようにも見えた。それほどセレスの勉学に対する熱意は筆舌に尽くしがたく、セレスに一目置いている貴族たちも多かったように思う。
セレスが王宮文官の試験を受けるらしいと聞いたときも、驚く者たちが多かったが、ラディウスだけはそれが自然なことだと素直に受け止めていた。男性と比べるのもおこがましいほどセレスは優秀であったし、彼女のすばらしい能力は入学時から常に首席を保ち続けているという記録が証明している。学園創設以来、入学してから首席でい続けた者がどれほどいただろうか。ラディウスの父ですら、首席になったのは数回ほどだったそうだ。
机に向かうセレスの目は、自分を男たちに売り込まんとする令嬢たちとどこか似ていて、一体何が彼女をそこまで突き動かすのか、どうして彼女が勉学にこだわるのか、ラディウスには不思議でたまらなかった。
だからこそ、卒業パーティーで、セレスがクロムウェル侯爵の阿呆息子に責めたてられているとき、ラディウスは思わず体が動いてしまったのである。そのときは、セレスに婚約を申し込もうというつもりは一切なく、ただ、あの阿呆息子の不愉快な笑い声を止められるならなんだってよかった。そうして阿呆息子のもとからセレスを連れ出したとき、ラディウスはいつもと違う気持ちが湧き起こったのを感じた。
向かい合ったセレスは、ラディウスがこれまで見てきた令嬢たちのような弱々しさが見られた。それはセレスの弱点というわけではなく、どこか庇護欲をそそるようなものであった。これまで必死に勉学に勤しむセレスばかりを見ていたラディウスにとって、はじめてセレスの令嬢らしい部分を見た気がした。
そんな彼女を見て、ラディウスのなかに邪な考えが思い浮かぶ。国いちばんの才女が、婚約者もいない状態で、王宮文官の内定をクロムウェル侯爵の卑怯な策略によって取り消されてしまっている。そんなセレスをうまく利用すれば、勢力を伸ばしつつあるクロムウェル侯爵率いる保守派を抑え込むこともできるのではないだろうか。
そう考えると、ラディウスの口から自然とセレスに結婚の申し込みが飛び出していた。幼いころは何ひとつメリットのないと思っていた令嬢が、今のラディウスにとっては最も有用な結婚相手に見えていたのである。
「お断りいたします」
ラディウスの身勝手な考えは、セレスの即答によって一瞬のうちに打ち砕かれた。王家に次いで権勢を誇るヴァレンシュタイン公爵家からの結婚の申し込みを断る令嬢などいないと考えていたラディウスは、自身の傲慢さを恥じた。しかし、それを悟られるわけにはいかない。セレスを観劇に誘うとき、ラディウスの心臓がばくばくと音を立てていたことは、一生の秘密である。
なんとか首の皮一枚繋がった彼は、父にもセレスと結婚したい旨を告げた。父も、国いちばんの才女ならばと快諾し、派閥のことを踏まえてもよい選択だとラディウスを褒めた。まさかいの一番に断られたとは言えず、結婚に前向きになれないセレスをどう口説き落とすべきか、その日からラディウスはめずらしく考え込んだ。
結局いい案が思い浮かばず、ラディウスはありのまま、セレスと結婚するメリットを述べることにした。そして、それが正解だったとすぐにわかった。
ふつうの令嬢ならば上辺だけの愛を囁けばいいが、セレスが興味を持ったのは政治の話だった。派閥の話やクロムウェル侯爵の話をすると、セレスの瞳がおもしろいほど輝いていく。教室で机にかじりついているときの彼女の瞳だった。
安っぽい愛の言葉より、政治の話に心を動かす令嬢。ラディウスにとっても、興味深い存在であることは否めない。
「ヴァレンシュタイン公爵子息様は、国のことを何よりお考えなのですね」
そう言ってセレスがほほ笑んだとき、ラディウスは今まで感じたことのないほどの衝撃を受けた。学園では軟派な男を装っていたこともあり、ラディウスは「見目の麗しい令嬢」が好きで、国のことなど考えていない放蕩息子に見えていただろう。もちろんそれは周囲の人間を油断させるためではあったが、そうして演じているうちに、ラディウス自身もだんだんもしや軟派なほうが自分の本質なのではないかと暗闇に迷い込むことがあったのである。
女性に対して政治の話や国のことを話したことははじめてだったし、それに対して反応をもらえるとも思っていなかった。ラディウスが感じた衝撃が一体何なのかはわからなかったが、その日から、セレスはラディウスにとって特別な女性になったのである。
結婚してからも、ラディウスは心穏やかに日々を過ごすことができていた。契約結婚で、子どももつくらなくていいと言ったので、セレスには指一本触れはしなかったが、もし彼女がその気になればいつでも本当の妻にするつもりだった。
政治の話ができ、ラディウスの話もまじめに聞き、適切な意見もくれる。書類仕事を頼んだら仕上がりは完璧で、なんならちょっとした書類のミスに気づいて修正までしてくれる。
そういえば、クロムウェル侯爵の阿呆息子は、王宮文官としての評判は散々で、勤め始めて一年も経っていないというのに、すでに書類整理という窓際業務が割り振られているらしい。ラディウスが王宮に参上したら、知り合いの王宮文官に泣き言を言われ、クロムウェル侯爵にはじっとにらまれ、心から愉快でならなかった。女に王宮文官は務まらないという時代錯誤な考えで、剣豪ならぬ「文豪」になるかもしれなかったセレスをあっさりと手放した者たちの末路は、想像以上に胸のすく思いがした。
結婚をして何もかもがうまくいっている。その驕りが、あの悲劇を招いたのだろうか。
夫婦で参加した王家主催の夜会で、ラディウスの過去が足を引っ張った。イザベラ・ドーヴァー侯爵令嬢は、学園時代に何度かデートをした仲である。しかし彼女は別の派閥であるし、数回デートは重ねたがそれは当たり障りのないもので、他の令嬢と同様、卒業と同時に自然と縁は切れたものと思い込んでいた。
セレスが多少のやっかみを受ける可能性はあったが、彼女には事前に包み隠さず話し、うまく立ち回ると心強い言葉をもらっていたし、何かあればヴァレンシュタイン公爵の肩書きが守ってくれるだろうと軽く考えていたのである。
――イザベラが自殺未遂を起こした。
夜会でセレスを口汚く罵ったイザベラに、ラディウスは警告のつもりで強く言い返した。あの対応は間違いではなかったと思う。それがまさか、イザベラを精神的に追い込むことになるなんて。
学園時代の男女の関係など、基本はその場限りのものばかりだ。全員そのつもりで、適度に遊んでいるものと思い込んでいた。イザベラが自分に熱を上げているのはわかっていたが、時間が経てば自然と彼女も現実を知るだろうとラディウスは何も手を打たなかった。その甘さが、この事態を招いたのだ。
執務室で呆然と使者が持ってきた書簡を読み、ラディウスはぐったりと椅子に背を預ける。どうするべきか考えがまとまらないままどれくらい時間が経っただろうか、執務室のドアが控えめにノックされる。
「入ってくれ」
ラディウスが声をかけると、青い顔をしたセレスが入ってくる。彼女もイザベラのことを聞いたらしいと瞬時に理解した。
「旦那様……」
「セレス、もう聞いたのか」
セレスは小さく頷き、震える声で告げる。
「一体どういうことなのでしょうか?学園時代の恋愛については伺っておりましたが、一過性のものというお話でしたわよね?」
その言葉は、いつも通り理路整然としていたが、ラディウスはまるで自分を責めているように感じられ、むっとして言い返す。
「私が浮気をしていたとでも?」
「そうは言っておりませんわ。しかし、ドーヴァー侯爵令嬢様のご様子は、他の方とは明らかに異なっておりました。それにこんなことになってしまって……。もしかすると、旦那様との間で誤解が生じていたのではないかと」
「そんなはずはない!私は……ドーヴァー侯爵令嬢と特別な仲だった覚えはないし、ある意味すべての令嬢と平等に接していたつもりだ」
「ええ、旦那様のことを疑っているわけでは……。しかし、何か誤解が生じた理由があるかも――」
「静かにしてくれないか!……大体、勉強ばかりだった君に、男女のことの何がわかるんだ」
そう言って、ラディウスはしまったと口を噤む。イザベラのことで動揺していたとは言え、セレスを責めるのはお門違いだ。彼はすぐに冷静になり、セレスに謝ろうとしたが、その前に彼女が深く頭を下げる。
「大変申し訳ございませんでした」
「セレス……?」
「契約妻の分際で、差し出がましいことを申しました。大変申し訳ございません。わたくしはこれで失礼いたします」
「ち、違う、待ってくれ、セレス」
「おやすみなさいませ、旦那様」
セレスはラディウスのほうを見ようともせず、頭を下げたまま部屋を出て行く。閉められた扉を、ラディウスは呆然と見つめるしかなかった。頭のなかでは、今すぐセレスを追いかけて謝るべきだということは理解している。けれど、イザベラのことを動揺している自分をセレスに悟られるのもプライドが許さず、まるで床に足が縫いつけられてしまったかのように、ラディウスはその場から一歩も動くことができなかった。
その日、セレスは体調が悪いからと自室で休み、翌日の朝食も顔を出さなかった。早く謝らねばと思うのに、またセレスにイザベラのことを言われたら何を言おうかという言い訳が思い浮かばず、ラディウスはずるずるとセレスに会いに行けずにいた。
午後に、イザベラのことで父と会おうと先触れを出そうとしていた矢先、ドーヴァー侯爵から、当家を訪問したいという連絡を受ける。ラディウスは迷ったが、もしここで下手に断れば、ラディウスがイザベラを冷たく切り捨てたと思われるだろう。それだけは避けたいラディウスは、誰にも相談せず、ドーヴァー侯爵に返事をしてしまったのだ。
ドーヴァー侯爵は、憔悴しきった様子でラディウスのもとにやってきた。一瞬セレスに声をかけるべきか迷ったが、目の前にいる侯爵が今にも消えてなくなりそうな様子で、ラディウスは気の毒に思い、すぐに彼を応接室に通す。
あいさつもそこそこに、ラディウスからイザベラのことを切り出した。
「このたびは大変なことで……。侯爵の心労は計り知れないものでございましょう」
「ああ、ありがとうございます。娘の言う通り、ラディウス様はやはりお優しい……」
そう言ってまるで女のようにさめざめと泣きだすドーヴァー侯爵に、ラディウスは思わず視線を逸らす。
「それで、ドーヴァー侯爵令嬢の容体はいかがだろうか」
「発見が早かったことが功を奏し、なんとか一命はとりとめました。しかし、まだ目を覚まさず、ときどきうわ言のようにラディウス様のお名前を呼んでいる始末です」
いちいちラディウスの罪悪感を刺激する物言いに、彼は返す言葉もなく黙り込む。その様子をちらりと見て、侯爵はハンカチで目もとをおさえたまま、さらに言葉を続けた。
「もし……もし、ラディウス様が娘を見舞ってくださったら……。そして、娘の手をにぎり、ひとことでもお声をかけてくだされば、娘はきっと目を覚ますと思うのですが……」
「それは……」
ドーヴァー侯爵の言葉に、ラディウスはうなだれる。そんなことをすれば、ラディウスがイザベラと関係があると周囲に喧伝してしまうようなものだ。状況が状況とは言え、すでにセレスという妻をめとり、さらに国王派の派閥の長になる予定の自分がほいほいと別派閥の令嬢を見舞うわけにはいかない。
「ええ、ええ、そうでしょう。ラディウス様にはすばらしい奥方がいらっしゃいますし、奥方様がお許しになるはずございません」
「いや、そういうわけでは」
「おお、なんと!奥方様は問題ないと?なんとすばらしいお心の広い方でいらっしゃることか」
「ちょ、ちょっと待っ――」
「ラディウス様がお越しになると知れば、娘もきっとお喜びになるでしょう。ぜひとも今から我が家にお越しください」
ドーヴァー侯爵が目に涙を浮かべ、ラディウスの手を力強く握り込む。その力の強さに、ラディウスの手はぴくりとも動かすことができない。
「今からというのは……」
「奥方様のお気が変わらぬうちに、さあ、早く」
そのままドーヴァー侯爵に手を握られ、ラディウスはされるがまま立ち上がる。もしここで彼が騒げば、護衛や使用人が動いただろうが、ラディウスは昨日からほとんど眠れておらず、また突然のことにうまく頭が働かないでいた。
そうして引きずられるように玄関ホールに向かうと、戸惑い顔の家令と目が合う。そんなときでもラディウスは声を出すことができず、青ざめた顔で家令を見ることしかできない。
「――旦那様……?と、ドーヴァー侯爵様ですか?」
そのとき、タイミングよく玄関ホールにセレスが現れた。ラディウスはほっとしてセレスを見つめる。きっとセレスならばこの事態を止めてくれると、ラディウスはそんなことを考えていた。
「おお!これはこれは奥方様。このたびは寛大なお許しを誠にありがとうございます」
芝居がかった声で頭を下げるドーヴァー侯爵に、セレスは眉を寄せる。ラディウスは小さく首を振ることしかできない。
「先ほどまで体調が悪く休んでおりましたので、突然のことに驚いておりますわ。わたくしがドーヴァー侯爵様に何かいたしましたでしょうか?」
セレスの冷静な返答に、ラディウスはほっと息をつく。ドーヴァー侯爵の手は未だ離れないが、このままセレスがうまくこの場を収めてくれるだろう。
「ラディウス様が、かわいそうな私の娘を見舞うお許しをいただけたと、ラディウス様より伺いました」
ドーヴァー侯爵の言葉に、ラディウス様はひゅっと息を吸い込む。当然、ラディウスはそんなことは一言も言っていない。ラディウスが何も言わないのをいいことに、ドーヴァー侯爵が勝手に捏造しているだけだ。ラディウスはすがるようにセレスを見る。セレスなら、きっとわかってくれる。だって、彼女は――。
「……まあ、旦那様がそんなことを。それで今から、ドーヴァー侯爵令嬢様のところに向かわれるのですね」
「ええ!娘は今にもはかなくなってしまいそうで、情けないことでございますが、ラディウス様に頼るしか手段がないのでございます。しかしながら、ラディウス様はすでにご結婚されているので奥方様がよく思わないだろうと思っていたのですが……本当に、奥方様の心の広さには私も頭が下がる思いです」
ぺらぺらと好き勝手に話すドーヴァー侯爵に、ラディウスは言葉を失う。すべて彼の勝手な言葉だ。すべて間違いなのに、言うべき言葉はあるのに、ラディウスは何も言うことができない。
「さようでございますか。わたくしは、旦那様のお考えに付き従うだけですので」
セレスはそう言って淑女の笑みを浮かべると、ラディウスには目もくれず背を向けて歩き出す。ラディウスはその背中をやはり追いかけることができず、ドーヴァー侯爵にされるがまま、馬車に乗り込んだのだった。
ヴァレンシュタイン次期公爵の秘匿されし真実の愛の相手であるイザベラが、愛の力で目を覚ました。
ラディウスが見舞いに行った次の日から、そんな噂が社交界中を駆け巡った。セレスを心配する侍女にほほ笑んで、セレスは招待された貴族の茶会に出かけていく。ラディウスとはあの日以来、顔を合わせていない。今は公爵家に戻り、そのまま謹慎されているようだ。
茶会に行くたび、セレスは「真実の愛の邪魔をした令嬢」として冷遇された。話の輪に入れてもらえないのは当然で、一方的に悪口を言われ、時には茶会の時間を間違って伝えられるような嫌がらせもあった。もし誰かが味方になってくれればよかったのだが、今のセレスに味方する者は誰もいない。ヴァレンシュタイン公爵家も、セレスが一心に人々の悪意を受けてくれるほうが都合がいいと静観を決め込んでいる。
実家の母や弟からは心配する手紙が届いていたが、家族に迷惑はかけられないと、セレスはすべて問題ないと返答し、しばらく自分とは距離を置くよう進言する。
「それにしたって、おかしいと思っていましたわ。だってラディウス様があのような方を選ぶなんて、ねえ?」
今日も茶会は、セレスを一方的に断罪する内容ばかりである。それでもセレスは下を向くことなく、淑女の笑みを浮かべ、ドレスの裾をつかんでひたすら耐えていた。
地獄のような時間が終わり、セレスは帰りの馬車に乗り込む。ぼんやりと外の景色を眺めていると、ふと小さな教会が目に入った。セレスは御者に合図をして、馬車を停めてもらう。
「少し、教会で祈ってもいいかしら?」
御者に断り、セレスはひとりで教会に向かう。御者はセレスについて行こうとしたが、なんとなくひとりになりたくてその申し出を固辞した。
その小さな教会は古ぼけていたけれど、中は掃除が行き届き、足を踏み入れた瞬間静かな空気がセレスをまとう。ようやくまともに息ができたような気がして、セレスは深く深呼吸し、膝を折って祈りを捧げる。
「――あら、礼拝の方ですか?」
「大変失礼いたしました。侵入するようなまねを」
突然現れた修道女に、セレスは慌てて頭を下げる。修道女はセレスの母と同い年くらいで、笑うと目尻にやわらかなしわのできる人物だった。修道女はふわりとほほ笑んで、セレスの手を優しく握る。
「教会はいついかなるときも、祈る者の味方ですわ」
「味方……?」
「ええ。神に祈りを捧げる敬虔な方を、どうして受け入れないことがございましょう」
修道女の落ち着く声に、セレスは声をあげて泣き始める。
父に顧みられないときも、亡くなったときも、母が病気になってひとりで家を切り盛りしていたときも、学園で孤独だったときも、内定を取り消されても、今自分を取り巻く悪意にも、セレスは声をあげて泣くようなことはせず、その時々で「人生とはそういうものだ」と自分に言い聞かせて、前を向いて生きてきた。
そうやって前を向くことで、きっといつか報われる日がくると、そう信じていたのかもしれない。
しかし、そんな日はやっては来ないのだと、セレスの心はすっかり折れてしまった。どんなにがんばっても、踏ん張っても、無駄なことは無駄なのだ。父がセレスを見て放ったひとことが今になってしみじみとセレスを侵食する。
セレスのなかに、ふと幼いころの思い出が蘇った。
女として生まれ、父のあとを継ぐことができないと知ったセレスは、それならばと勉学に自分の道を見出した。知識だけで身を立てていこうとは思っていなかったが、内面を磨くことで、もしかすると子爵家にとって――父にとって、政略の駒になれるのではないかと考えたからだ。
そのころ、セレスは高位貴族の茶会にも頻繁に参加していた。そのなかで、大人とも対等に話せるようになれば、父も自分を自慢に思えるのではないかと考えたのである。
歴史や地理、外国語などの基礎教養だけではなく、他家の貴族の名産品も頭のなかに叩き込んだ。一晩中書物を読むこともあり、目の下に隈ができることがあっても、父の役に立てるかもしれないという高揚感で、セレスはまるで気がふれたように勉学に打ち込む。
そうして意気込んで参加した茶会で、セレスは現実を思い知った。下位の貴族は、高位貴族から声をかけられるまで話すことはできない。しかも、どんなにセレスが知識を蓄えても、話す相手は貴族の子息や令嬢たちばかりだ。大人は大人で盛り上がっていて、セレスの入る余地は一切ない。
空振りに終わり、落胆した様子のセレスを母が慰めてくれていると、めずらしく父が声をかけてくれた。それはただの気まぐれだったけれど、セレスは自分のがんばりが認められたのではないかと思い込み、うれしそうに父に話す。
大人にも負けない知識を身につけていること、いつかいい家に嫁いで子爵家の助けになりたいこと。父はセレスの話を無表情で聞き、彼女が話し終わると大きなため息をついてセレスに背を向ける。
このままだと父がまたどこかに行ってしまう。なんとか声をかけようと開きかけた口は、父の落胆するような言葉に遮られ、宙ぶらりんになってしまう。
「女でさえなかったら……」
それでもセレスは女として生まれてしまった。性別はどうがんばっても変えられない。
女に生まれることはそれほど罪深いことなのだろうか。セレスにはわからなかったが、はっきりしていることは、女に生まれたせいで父を落胆させたという事実である。
――ひとしきり泣いたあと、ようやく落ち着きを取り戻したセレスは、自分の背中を優しく撫でてくれていた修道女の顔をまじまじと見つめる。
「ああ、そうだわ。そうなんだわ」
そう言ってセレスはにっこりほほ笑んで、修道女の手をぎゅっと握った。
なかなか戻ってこないセレスにしびれを切らした御者は教会に入って、目の前の光景に悲鳴にも似た声を上げる。
「奥様!?何をしているのですか!」
セレスは背中まで伸びていた髪を肩まで切りそろえ、頭から聖水をかぶり、修道女に向かって腰を折っていたのだ。
それはセレスが、教会の洗礼を浴び、世俗から離れたことを意味していた。
聖水を垂らしたまま、セレスは顔を上げ、御者にふわりと笑みを浮かべる。はじめて見るその顔に、御者の心臓が小さく跳ねる。
「あら、わたくしはもう奥様なんてものじゃないですわ。ただのセレスになりました」
「お、奥様……?こんなこと、旦那様もお許しになんて――」
御者の言葉に、セレスは声を上げて笑う。心の底から楽しそうに笑うその声に、御者の背筋がすっと冷えた。
「旦那様にはこう言ってくださいな。契約妻なので、捨て置いてくださいと。――まあ、わたくしはもうただのセレスですけど」
セレスはそう言っていたずらっぽくほほ笑むと、晴れ晴れとした顔で再び膝を折り、神に祈りを捧げる。御者は、時を忘れて、その背中を見つめることしかできなかった――。