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「アーネスト!あなたって子は、実の姉より料理のほうが大事だっていうの!?」


 セレスが、ラディウスとのやり取りを母にすべて話し終えるとすぐ、母はふるふると震えながら弟をにらみつけた。弟は大きな体を可能な限り小さくして、しゅんとうなだれている。


「申し訳ありません……」

「お、お母様。アーネストに少しくらいいいと言ったのはわたくしよ。あまり責めないであげて」


 そう言ってなだめると、母は大きくため息をつく。


「セレス、あなたね……ヴァレンシュタイン公爵家との縁組ですよ?王家に次ぐ権力を誇る家に、公爵夫人として嫁ぐなんて。ただでさえ内定取り消しなんて醜聞があるというのに、ますますいらぬ心労を抱えてしまいそうで……」


 もしこの結婚が、「契約結婚」だと知ったら母は倒れそうだと、セレスは苦笑いする。

 あの卒業パーティーの日、ラディウスから突然の求婚があったが、それは恋物語のような心ときめくものではなく、完全に打算だらけの申し出であった。




「――私と、結婚してほしい」


 ラディウスの申し出に、セレスははっと息を呑む。女性限定の博愛主義とは言え、さすがにこんな冗談は言わないことくらいセレスにも理解できる。


「お断りいたします」


 そうなると、セレスの返答は決まっていた。ラディウスが自分に懸想しているとは思えないし、仮にそうだったとしても、権勢を誇るヴァレンシュタイン公爵家に嫁ぐなど、いかに王宮文官の試験に合格できる能力があっても荷が重い。

 さらに、ラディウスは学生時代に浮名を流しまくっている。公爵子息として一線は守っていたようだが、ただでさえ先ほどのエドワードの暴露で醜聞のある自分が、他人の尻ぬぐいまでできるわけがない。


「本当にいいのか、断っても」


 ラディウスの言葉に、自分の今後を見透かされているようでセレスはぐっと黙り込んだ。ラディウスの妻におさまることは、いらぬ苦労を背負うことになるが、生活の心配をしなくてもいいというメリットがある。さらに、ヴァレンシュタイン公爵家と縁続きになることは、アークライト家にとっても利益になる。もしヴァレンシュタイン公爵家が弟の後ろ盾になってくれれば、弟は当主として父のような存在感を持つこともできるだろう。


「でしたら、どのような企みがあるのか、包み隠さず教えていただけますでしょうか?たしかに、今のわたくしにとってヴァレンシュタイン公爵子息様のお申し出は破格の内容でございます。しかし、その考えがわからないのに頷くことはできかねますわ」


 なるべく自分を大きく見せるように、セレスは胸を張って凛と答える。こうして虚勢を張っていないと、ラディウスの静かな威圧感に吞み込まれてしまいそうだった。


「さすが、学園が誇る才女だ。――そうだな、平たく言うとこれは契約結婚だ。君には、公爵夫人として以外のはたらきは求めない。そういうことだから、明日、アークライト家を尋ねてもいいだろうか?」

「困りますわ。ヴァレンシュタイン公爵子息様をもてなす準備など整っておりません」


 結局意図はわかりかねるが、どうやら愛だの恋だのという浮ついた気持ちではなく、何かしらラディウスなりの理由があり、そしてそれをセレスには説明するつもりであることはわかった。

 とは言え、である。今のセレスにとって、一番まずいのは外堀りを埋められることだ。ラディウスがこうもはっきりと訪問の申し出をしたということは、公爵家の家紋が入った馬車で乗りつける気満々なのだろう。そんなことをすれば、ラディウスがセレスに求婚するのではと次の日には社交界に噂が出回ってしまう。

 学生時代ならまだしも、卒業後とあってはただの浮名では済まされない。ヴァレンシュタイン公爵家に請われて断ったとなれば、内定取り消しどころの醜聞ではなくなってしまう。セレスだけならまだしも、アークライト家にとっても不利益しかない。


「うん、そうか。やっぱり君はすごいな。――では一週間後、観劇でもどうだろう?」

「観劇……」

「サリバン伯爵家のご令嬢や、ドーヴァー侯爵家のご令嬢のあとにはなるが」


 ラディウスの言葉に、セレスは短く息をつく。どういうつもりかはわからないが、セレスと出かけるために、他の令嬢たちとも事前に出かけておくという。たしかにそれなら、ラディウスの浮名のひとつになれるだろう。他の令嬢たちがそれでいいのかわからないが、学園時代もその令嬢たちと街に繰り出していたのを見かけたことがある。お互い割り切った関係なのだろう。


「――それなら……かしこまりました」




 セレスはラディウスとのやり取りについて、「契約結婚」の部分は伏せて母と弟に包み隠さず話したのだった。天下の公爵家から求婚があったなんて、ひとりの胸にしまっておけるような些事ではない。


「それにしてもヴァレンシュタイン公爵子息は何を考えていらっしゃるんだろう。これまでその浮名を聞いたことはあったけれど、姉上はちょっとタイプが違うというか……」

「まあ!セレスの何がいけないっていうのかしら」


 母ににらまれ、弟はしまったという顔で黙り込む。悲しいことだが、セレスも弟と同じことを考えていた。

 学園時代、ラディウスと浮名を流していたのは、どちらかと言えば派手顔で、世界でいちばん美しいのは自分でございと言わんばかりの令嬢たちばかりであった。一方のセレスはと言えば、最低限の身だしなみを整えるくらいで、使える時間は勉学と家の仕事にすべてつっこんでおり、地味でぱっとしない、教室でもひたすら教科書を読みながら何かを書き込んでいる良くも悪くも少し浮いた存在だった。

 誰かにいじめられていたということはないけれど、かと言って親しい友人はおらず、用事がなければ話しかけられることはない。たまにすれ違う名も知らぬ令嬢にくすくす笑われてしまう始末である。

 そんなラディウスがセレスに求婚するなど、弟の反応のほうが世間一般的なものだ。


「ヴァレンシュタイン公爵子息様は、持参金もいらないとおっしゃっていたけれど……うまい話には裏があると言うわ。どんな企みがあるか――」

「やっぱりもういちどきっぱりお断りするべきではないかしら?」

「いいえ、お母様。わたくしは、お話次第でお受けするつもりよ」


 きっぱりと言い放つセレスに、母だけでなく弟も驚いたように目を見開く。


「王宮文官の内定も取り消しになり、クロムウェル侯爵様から不興を買っていることを暴露されてしまった。わたくしだけではなく、アークライト家の名誉も傷つけたわ」

「そんなこと……っ」

「大事なのは真実ではないわ。他人に、どう見えているか、――こんな醜聞まみれのわたくしが、挽回できる機会があるとすれば、きっとヴァレンシュタイン公爵家に嫁ぐことなのかもしれないわ」




 約束の一週間後、セレスはラディウスとともに観劇に出かけた。劇場は貴族たちの社交の場でもあり、ふたりが並んで歩けば、あっという間に視線が集まる。きらびやかな衣装を纏った貴族たちがひしめく中で、セレスの慎ましいながらも上品な装いは、かえって目を引いた。ラディウスはその視線を気にすることなくセレスを完璧にエスコートし、セレスもまた淑女として背筋を伸ばし、優雅に彼の隣を歩いた。その姿は、これまでラディウスが浮名を流してきた令嬢たちにも引けをとらず、むしろセレスの知的なふるまいやたおやかさは子公爵夫人然ともしていて、周囲のひそひそ話すらも二人の気品の前には意味をなさないかのようだった。

 劇の休憩時間、ラディウスはセレスを二人がけのバルコニーへと誘った。しっとりとした夜の空気が肌を撫で、劇場のざわめきが波のように聞こえてくる。バルコニーは月明かりに照らされ、夜空には無数の星が瞬いていた。

 ラディウスは静かに、そしてゆっくりと、セレスに契約結婚を持ちかけた真の理由を話し始めた。


「私は、近いうちに公爵位を継ぐことになっている。そして王権の安定と当家の繁栄のため、盤石な基盤を築きたい。しかし、現在の王国は、水面下で派閥争いが激化している。宰相であるわがヴァレンシュタイン公爵家が率いる国王派、クロムウェル侯爵が中心となっている保守派、そして新興貴族からなる革新派。この三つ巴の争いが、国政を不安定にしている」


 ラディウスはそこで言葉を切ると、遠くの街の灯りを見つめた。


「ヴァレンシュタイン公爵家は、国王派の要として、他の派閥との均衡を図ってきた。時には、国王を動かし、他の派閥に便宜を図ることもあった。だが、派閥の均衡が今徐々に崩れつつある。クロムウェル侯爵が最近力をつけつつあるのは君の内定取り消しがまかり通っていることからもわかるだろう?保守派を抑え込む力が必要だ」


 ラディウスは視線をセレスに向けた。その瞳からは、教室で令嬢たちと話す軽薄さは一切見られず、セレスは言葉もなくその瞳を見つめる。ラディウスの紫水晶の瞳に、不安そうな自分の顔が映っていた。


「君は、クロムウェル侯爵の不興を買い、内定を取り消された。だが、それは同時に、君がクロムウェル侯爵にとって弱点であることも示している。王立学園を首席で卒業した才女である君が、無能なクロムウェルの息子に負けるわけがない。そんなこと、まともな貴族ならわかっているさ。表立っては言えないけどね。――さて、私が君を妻にすれば?」

「クロムウェル侯爵閣下に……無言の圧力をかけることができますわね。しかもわたくしが公爵夫人になれば、彼は内定を取り消した女に、頭を下げる場面も出てくる」

「想像しただけで笑えるだろう?」


 いたずらっぽくほほ笑んだラディウスの言葉に、セレスは思わず笑みを浮かべる。正直、ラディウスがここまで自分の立場や家のことを客観的に見ていると思わず、驚いていた。ここまで聞くと、学園での振舞いも理解できる。彼はきっとどの令嬢を選ぶべきか、冷酷に観察していたのだろう。誰が自分にとって利となるか、を。

 ラディウスの提案は、たしかにセレスを利用しようとするものだが、同時に、彼女の立場と能力を最大限に評価しているものだった。そして、何よりも、彼女の「醜聞」すら、彼にとっては利用価値のあるものだったのだ。


「ヴァレンシュタイン公爵子息様は、国のことを何よりお考えなのですね」


 セレスは思わず、そう呟いた。ラディウスははっと息を呑み、すぐに表情を戻した。


「そうかな?私は公爵家の存続を考えているだけだ」


 その言葉には、一切の迷いや感情の揺れがないように見えた。しかし、小さく震える指先をセレスは見逃さなかった。――きっと、見えないように必死で取り繕っているのだ。派閥の均衡が崩れ、万が一クーデターや内乱に発展すれば、血を流すのは民たちである。ラディウスは、ヴァレンシュタイン公爵家は、そうならないように貴族としての務めを果たそうとしているのだろう。

 セレスは、彼がどれほどの重圧を背負っているのかを想像し、ほんの少しだけ、彼に対する見方が変わったような気がした。多くの令嬢たちと浮名を流していたことはやはりどうかと思うが、ラディウスなりにノブレスオブリージュを貫こうとしていたことがわかり、幼いころ必死でアークライト家を守るために動いていた自分と重なる。

 ラディウスはさらに続けた。


「君が私を受け入れるなら、アークライト家の生活を心配する必要はなくなる。弟君の爵位継承も、ヴァレンシュタイン公爵家が後押しする。君の家族が、二度と困窮することはないと約束しよう」


 ラディウスの言葉は、セレスの心の最も弱い部分を突いた。自分のためではなく、家族のため。弟が成人するまでのあと三年。もしラディウスの申し出を受ければ、アークライト家は安泰である。そして、自分の名誉も挽回することができるだろう。

 セレスは深く息を吐き、ラディウスの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。彼の言葉に一片の嘘も偽りもないことは、その眼差しから伝わってくる。利用価値を提示し、それに対する対価を明確に提示する。それが、彼なりの誠実さなのだろう。


「……承知いたしました。ヴァレンシュタイン公爵子息様の妻として、務めを果たさせていただきます」


 セレスの返答に、ラディウスの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。それは安堵でも、勝利でもない、まるで長い道のりの始まりを確信するような、静かな笑みだった。そして、彼らはバルコニーから戻り、劇の第二幕が始まるとともに、互いの目的のための共同戦線を張ることを無言で確認し合った。





 ラディウスとセレスの婚約は、社交界を大きく揺るがした。貧乏子爵令嬢と公爵家嫡男という組み合わせは、人々の好奇の目を集め、憶測が飛び交った。「一体、あのラディウス様が何を考えているのか」「きっと裏があるに違いない」「まさか、アークライト家に取り入るつもりか?」といった噂が瞬く間に広がり、セレスは一躍、社交界の話題の中心となった。

 とくに、ラディウスと浮名を流していた令嬢たちは、この婚約に激しく反発した。彼女たちは、はじめから自分こそがラディウスの寵愛を受けるはずだと自負しており、セレスを気に食わない者だと蔑んだ。セレスより高位の令嬢たちは、美貌も家柄もセレスに劣るところは何もないはずなのにとその妬み嫉みはひとしおである。しかし、ヴァレンシュタイン公爵家が正式に発表した婚約に、誰も表立って異を唱えることはできなかった。

 そして半年後、二人は静かに結婚式を挙げた。ラディウスの希望で早く結婚をしたいということもあり、準備期間もほとんどなく、ドレスもヴァレンシュタイン公爵夫人や母にまかせきりで、セレスは公爵夫人になるための教育を朝夕もなく詰め込んだ。

 こうしてあわただしくも、公爵家にふさわしい格式高い式は、まるでふたりが真実の愛で結ばれているかのように周囲を錯覚させるには十分だった。ラディウスは、公爵夫妻に、才女のセレスに心ひかれていたが、声をかけることかなわず、卒業パーティーでのセレスの様子に思わず求婚したと語った。まるで市井で流行っている恋物語のようなお粗末さだったが、公爵夫人はいたく感動し、王宮文官の内定を不当に取り消されても騒ぎ立てることなく事実を受け止めたセレスに深く同情もしてくれ、ふたりの結婚が反対されることはなかった。

 セレスは晴れてラディウスの妻となり、ヴァレンシュタイン公爵が持つ伯爵位をラディウスが賜ったことで、伯爵夫人となった。もちろん、数年後には公爵夫人となる予定である。

 ラディウスは宣言通り、セレスに次期公爵夫人としての務め以外を求めることはなかった。使用人たちに怪しまれないよう寝室はともにしていたが、ラディウスは指一本セレスに触れることはなく、セレスもラディウスに不要な触れ合いを求めることはなかった。

 朝夕の食事では当たり障りのない交流を続けていたが、かえってそれが心地よくすらあった。アークライト家とは比べものにならないほど広大な食卓は、実家での賑やかなそれとは全く異なり、常に静寂に包まれていた。しかし、その静けさの中で、ラディウスとセレスは言葉を交わした。

 ラディウスにとって、自分を積極的にアピールしてくる女性ばかりが周りにいたので、セレスのように控えめで、しかし政治の話にはしっかり相槌を打ち、的確な意見を述べてくれることは新鮮だった。彼は、セレスの知性や洞察力に感心することがしばしばあった。


「――というわけなんだが、セレス、君はどう思う?」

 ラディウスが、実務で直面した政治的な問題を、時にセレスに問うことがあった。セレスは、これまで培った知識と、膨大な書物を読み込んできた経験から、常に的確な分析と、時には彼も思いつかないような斬新な視点を提供していたのである。


「……恐れながら申し上げますと、旦那様のお考えは、確かに理に適っておりますが、その結果、革新派からの反発は避けられないかと。彼らの求めるものは、旧態依然とした貴族社会の打破にありますので、表面的な懐柔では一時しのぎにしかなりません。根本的な解決には、彼らが納得するような明確な利益を提示する必要があるかと存じます」


 セレスがそう述べると、ラディウスは興味深げに頷き、その話に熱心に耳を傾けた。


「たしかに、彼らには長期的なメリットを示す必要があるかもしれないな」


 そう言って、かすかに口もとを緩めるラディウスの姿に、自然とセレスも笑顔を浮かべる。彼の前では、無理に取り繕って阿呆なふりをしなくともよく、本音で意見を交わせることが、彼女には心地よかったのだ。

 セレスにとっては、女の意見も聞き入れて、知らないことがあればセレス相手にも素直に教えを乞うラディウスは、とても好ましく映っていた。彼は決して傲慢ではなく、真実や合理性を追求する姿勢が、セレスの知的好奇心を刺激した。


「もしよければ、君の視点から、私に助言をくれると助かるのだが」


 そう言って、ラディウスが真剣な眼差しでセレスに助けを乞うと、彼女はおもはゆく思いながらも、本心では喜びを感じていたことも事実である。最初は、ただセレスを利用するだけだと考えていたが、自分の能力を真に認め、尊重してくれるその態度に、セレスの心は自然とラディウスに傾き始めていたのだ。互いに必要な存在として、彼らの間に信頼と、ある種の絆が静かに育まれていた。それは、熱烈な愛情とは違う、しかし、確かに互いの心を繋ぐ、確かな絆だった。




 結婚して二か月後、王家主催の夜会が開催された。ラディウスの妻として初めての大規模な社交の場であり、セレスは覚悟を決めて臨んだ。会場は豪華絢爛な装飾が施され、天井からは巨大なシャンデリアが輝き、会場のあちこちに高価な美術品や絵画が飾られている。貴族たちの笑い声と楽団の奏でる優雅な音楽が満ちていた。

 ラディウスのエスコートで入場すると、一瞬にして会場中の視線がふたりに集中した。その多くは好奇と、そして隠しきれない侮蔑を含んだものだった。セレスは毅然と、しかし柔和な笑みを浮かべ、まるで周囲の視線など存在しないかのように振る舞った。彼女の心臓は激しく鼓動していたが、長年の苦学で培われた冷静さと、何より隣にラディウスがいるという心強さが、彼女の表情を完璧な淑女のそれにした。


「私は少しあいさつに行ってくる」

「ええ、かしこまりました」


 予想通り、ラディウスと離れてひとりになると、多くの令嬢たちがセレスに嫌味を言いにきた。まるで示し合わせたかのように、グループごとに近寄っては、似たり寄ったりの言葉を投げかける。


「まさか、ラディウス様がご結婚なさるお相手が、あなたのような殿方を楽しませることとは遠くにいらっしゃるお方だったとはね。ラディウス様ったら好みでも変わられたのかしら」


 ひとりの伯爵令嬢が、扇で口もとを隠しながら、取り繕う言葉もなく軽蔑したような声でセレスに話しかける。その視線は、セレスのドレスや髪型を上から下まで値踏みするように這う。セレスはにこやかに、しかし一切の隙を見せずに答える。


「まあ、それはそれは。旦那様の好みが変わられたのでしたら、わたくしにとっては僥倖ですわ」


 一歩も引かずに笑顔で言い返すセレスに、令嬢たちは顔を見合わせる。王宮文官の口頭試問や面接に比べれば、彼女たちの言葉はまるでそよ風だ。令嬢たちは一瞬言葉を詰まらせたが、すぐに別の令嬢が口を開く。


「そのような態度で、ラディウス様のお心を休ませてあげることができるのかしら?」

「あら、才女と名高い方ですもの。それくらいできるに決まってますわ」

「まあ、それならどうしてこれまで婚約者のおひとりもできなかったの?」


 そうして口々に、令嬢たちはセレスを嘲笑する。セレスはそんな彼女たちの話に、眉ひとつ動かさず、変わらぬ笑みを浮かべて耳を傾けていた。ラディウスと結婚する際、関係のあった令嬢たちのことはある程度説明を受けていた。愚かな放蕩息子を演じて、令嬢たちの油断を誘い、情報を聞き出すことも目的だったと聞いており、その手段が正しかったかどうかはともかく、こういったことは遅かれ早かれあるだろうと言われていたのである。

 仮にセレスに直接悪意を向けてくるならば、後先考えるほどの知略をめぐらすことができないということなので、逆に扱いやすい。案の定、現在セレスを取り囲んでいるのは、伯爵令嬢以下の身分である。


「わたくしのことを心配してくださり、ありがとうございます。旦那様は、わたくしがこれまで婚約者のひとりもいなかったことについて、ご自分の色に染めてくださるとおっしゃってくださっていますの」


 そう返すことで、彼女たちの「ラディウスの元恋人」という立場をセレスも嘲る。セレスを恋人のひとりもいない令嬢だと笑うなら、それは逆に誰の手垢もついていないということでもある。裏を返せば、「元恋人」たちはいちど誰かの手垢がついているとも言える。純潔を散らすほどの醜聞ではないとは言え、女性の処女性を尊ぶ男性にとって、妻となるなら手垢が少ないほうがいいに決まっているのだ。


「そっ……なんの後ろ盾もないお生まれで、本当にラディウス様をお支えできるの?彼は次期ヴァレンシュタイン公爵なのよ。次期公爵の隣には、それなりの身分の女性が立つべきではなくて?」


 最後に、下卑た笑みを浮かべた令嬢が、セレスの最も痛いところを突いてきた。たしかに、ラディウスほどの人物であれば、妻も高位貴族の令嬢を選ぶのが常である。高位貴族の令嬢の人脈は、結果的に自分に利益をもたらすからだ。そういう意味で、セレスはラディウスに利益を与えることはできない。

 しかし、セレスは微塵も動じない。彼女の心は、すでにそのような言葉では揺るがないほどに鍛え上げられていたからだ。


「まあ、ありがとうございます。一日でも早くみなさまのような立派な淑女になるべく、励んでまいりますわ。きっとみなさまは、社交界ではそれはそれはすばらしいつながりをお持ちなんでしょうね?」


 完璧な淑女の笑顔で返すと、彼女たちの顔は一様に凍り付いた。セレスを追いつめてみじめに泣く姿を見てやろうと思っていたのに、すべての言葉をはね返され、今や自分たちがすっかり追いつめられてしまっている。勉学ばかりでまともに社交もできないと侮っていたことをそれぞれが後悔し始めていた。

 セレスのその泰然とした態度に、遠巻きに見ていた他の貴族たちの視線も自然と感嘆と畏敬の念に変わっていく。ラディウスの「元恋人」のおかげで、セレスこそが次期公爵夫人にふさわしいことを周囲に知らしめたのだ。

 令嬢たちは黙り込み、しかしなんとなくその場を立ち去れないでいると、ヒールの音を響かせてさっと令嬢たちとセレスの間に割って入る者がいた。彼女の登場に、令嬢たちはまるで蜘蛛の子を散らすように足早に去っていく。

 セレスは目の前に立つ令嬢を見て、瞬時にその名を探し当てる。セレスに強い敵意を向けてきたのは、イザベラ・ドーヴァー侯爵令嬢だった。彼女はセレスをかばうためではなく、セレス自身に、真っ向から感情をぶつけてくるためにこの場に現れたのだ。その目には狂気にも似た光が宿っており、今にもセレスに掴みかからんばかりの勢いだった。


「この泥棒猫!あなたのような下賤な娼婦のような女が、ラディウス様の隣にいるなど許さない!ラディウス様は、ずっとわたくしを愛していたのよ!いいえ、今も、愛してくださっている。彼の真実の愛の相手はわたくしだけよっ」


 イザベラの声は、夜会の喧騒を切り裂くように響き渡り、楽団の演奏すら一時的に止まるほどだった。会場中の視線が、イザベラとセレスに注がれる。派閥の貴族たちと言葉を交わしていたラディウスも、その声のほうを見てさっと顔を青ざめた。そうしてすぐにセレスのもとに向かおうと足早に移動を始める。

 セレスはイザベラの鬼気迫る勢いに、出鼻をくじかれていた。学園時代、たしかにラディウスに一番執着していたのはイザベラである。イザベラの生家ドーヴァー侯爵は、奴隷貿易で栄え、国庫を潤す大きな一端を担ったとして、数年前に陞爵の名誉に預かった新興貴族である。つまり、ヴァレンシュタイン公爵家とは異なる派閥に属していることになる。

 そんなイザベラがラディウスと婚約することは難しいと少し考えればわかりそうなものだが、イザベラはどうやらラディウスとの関係を本気のものだと誤解していたらしい。セレスはさすがのことに言葉も出ず、ふうふうと肩で息をするイザベラを見つめる。

 学園時代はいつもその美貌を誇り、あまり化粧をしなくてもくっきりとした目鼻立ちが印象的だったが、今は怒りで表情を歪め、彼女の顔を見て短い悲鳴をあげる者までいる始末だ。なんと返すか逡巡していると、いつの間にやってきたのか、セレスの隣に立ったラディウスが静かに口を開く。


「イザベラ嬢、あなたの言葉は、私の妻を侮辱している。私とあなたは、たしかに友人として仲良くしていた。だが、それ以上の関係ではない。公衆の面前で、これ以上妻や私の名誉を傷つける行為は慎んでいただきたい」


 ラディウスの言葉は、氷のように冷たく、イザベラの顔が怒りから驚きに変わる。気の毒なほどに青ざめた顔で、イザベラは、狂ったように叫び続ける。


「嘘よ!そこの娼婦があなたを惑わせたのよ!ラディウス様は、わたくしと結婚するはずだったのに!ラディウス様だって、本当はわたくしを愛しているのでしょう?だっておっしゃってくださったじゃありませんか、わたくしといると楽しいって。ねえ!?」

「……友人として、そう言っただけだ」


 ラディウスの言葉に、セレスの頭も冷静になる。このような場で感情をあらわにして叫ぶのは貴族の作法に反するが、もともとは気を持たせるようなギリギリの言葉を選んだラディウスにも問題はある。しかも、貴族の言葉遊びを理解できない令嬢かどうか見極めることもできなかった。


「あなたさえいなければ、あなたさえいなければ、あなたさえいなければ……!」


 イザベラの叫びは、もはや正気を失った者のもので、周囲の貴族たちも憐憫と、そしてわずかな恐怖の目をイザベラに向け始めた。ドーヴァー侯爵夫妻は、顔面蒼白で娘を止めようとするが、もはやイザベラの耳には何も届かない。公衆の面前で取り乱すイザベラを、ラディウスは冷静に、しかし毅然とした態度で制した。


「ドーヴァー侯爵令嬢、いい加減にしてくれないか。少なくとも私は、このように夜会を乱すような女性を、愛することはない」


 ラディウスの低い声に、イザベラの目から絶望の色が溢れ落ちた。彼女は、ラディウスが自分をこれほどまでに拒絶し、「愛することはない」とまで言って切り捨てるとは思っていなかったのだろう。その場にへたり込み、ただ呆然とラディウスを見上げていた。涙がとめどなく頬を伝い、化粧が崩れていく。侯爵夫妻が慌てて娘を立たせ、イザベラを連行していく。彼女は最後まで、セレスを憎悪に満ちた目で睨みつけていた。その視線は、「いつか必ず報いを受けさせる」とでも言いたげな、怨念のこもったものだった。

 ラディウスの仲裁により、その場の混乱は収まった。会場には重い沈黙が広がり、その後、楽団が再び演奏を始めたが、夜会を覆う空気は明らかに変わっていた。セレスはラディウスに感謝の言葉を述べようとしたが、ラディウスは何も答えず、ただ静かにセレスの隣に立っていた。彼の表情はいつもと変わらず、その真意は測りかねるものだった。

 しかし、夜会に参加する前に、ラディウスと築いてきた絆に、ひびが入ったようにも感じていた。ラディウスに事情があったことは、これまで幾度となく聞いてきた。その事情を、セレスは理解しているつもりだった。しかし今日、ラディウスの被害者とも言えるイザベラを見て、セレスのなかで何かが変わりつつあった。

 ラディウスは――公爵家は、民の血が無意味に流れることがないように考えている。それはこの国の貴族としてあるべき姿だ。では、国のためなら、誰かが犠牲になることはいいのだろうか。イザベラは見た目は健康そのものだったが、心は傷だらけのように見えた。目に見えないところで血が流れるぶんには、どうでもいいのだろうか。

 セレスは、幼いころの父に顧みられない自分の姿を思い出していた。




 夜会が終わり、屋敷に帰ると、セレスはまっすぐ自室に戻る。ドレスから解放され、ようやく一息ついた。一日中張り詰めていた緊張が解け、どっと疲れが押し寄せる。侍女が淹れてくれた温かいハーブティーを口に運びながら、セレスは今日の出来事を反芻していた。

 ラディウスの元恋人たちの嫌がらせは想定内だった。だが、イザベラのあの豹変ぶりは予想外だった。彼女の狂気染みた叫び声が、まだ耳の奥に残っているかのようだった。結局はラディウスが対処してくれたが、自分がもっとうまく立ち回るべきだったのではないか、と自問自答する。しかし、あの状況では、ラディウスの介入なくしては収拾がつかなかっただろう。彼が自分や家の名誉のために動いたことは理解できたが、その行動が彼女にどれほどの傷を与えたのか、セレスには想像することしかできなかった。

 その夜遅く、執務室にいるラディウスのもとへ、早馬で急報が届いた。ラディウスはラディウスで、夜会でのことが引っかかり、眠る気分になれず、静かに書類に目を通していたのである。使者を通じて伝えられた内容に、ラディウスの顔から一瞬にして表情が消え去る。手紙を読み終えると、彼はため息をひとつ吐き、静かに暖炉の炎を見つめた。

 ほぼ同時刻、セレスの部屋にも、侍女から同じ知らせが届けられた。

 イザベラ・ドーヴァー侯爵令嬢が、自邸で自殺未遂を起こしたという内容である。

 報告を聞いた瞬間、セレスの顔から血の気が引いた。まさか、あの場で感情をぶつけられたことが、ここまで事態を悪化させるとは。イザベラの命が危ないという事実に、セレスの胸に重い鉛がのしかかる。たとえ彼女が自分を憎んでいようと、その命が失われることは、セレスにとって耐えがたいことだった。

 ラディウスの計算高い、そして身勝手な思惑、そして自分が軽々しくその道具として利用された結果が、ひとりの令嬢の尊い命を危うくした。セレスは、まるで自分がその引き金を引いたかのような罪悪感に苛まれた。彼女は呆然として、しかしすぐにラディウスに会わなければと思い、執務室に向かう。

 窓の外では、月が静かに夜空を照らしている。セレスは月に目をくれることもなく、油断すると倒れそうになるのをぐっとこらえて、背筋を伸ばし長い廊下を踏みしめていた。

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