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「取り消し……?」


 セレス・アークライトは、王宮から届いた封書を見て呆然とした。今秋から務める予定だった王宮文官が内定取り消しとなったためである。

 王宮文官は、年間に数名しか採用されない倍率の高い職種である。採用試験も非常に難易度が高い。膨大な量の法律や歴史、地理、三か国語の外国語試験もある。そうして厳しい試験に通過しても、口頭試問で面接官五人から外国語も含めて専門性の高い質問に答えなければならない。ここまでで、何百人もいる受験者は十人程度にまでしぼられる。最終面接では大臣クラスの高位貴族に囲まれ、圧迫するような面接をこなさなければならない。受験者によっては泣き出したり、心が折れて試験を途中辞退することもあるそうだ。そうした厳しい試験をすべて突破した精鋭中の精鋭数名が王宮文官となれるのだ。

 セレスは、女だてらに王立学園で入学から首席をキープし、この王宮文官に受かるために必死で勉学に打ち込んできた。そんな彼女にとって、紙切れ一枚で王宮文官の道が閉ざされることに、呆然としてしまうのは至極まっとうなことである。

 セレスは、剣豪と名高いアークライト子爵の長女として生を受けた。父は生まれたのが女であったことに落胆したらしい。幼いころから、構ってもらった記憶はなく、セレスの記憶のなかの父は背中ばかりである。そんな父の関心を集めようと考えたのが、勉学の道だった。物心がついたころから、彼女は毎日机にかじりついていた。

 それでも父の関心を得ることはなく、セレスが五歳のころ、待望の長男が誕生した。父は大いによろこび、息子の教育には熱心で、セレスはますます顧みられることはなかった。

 子どもながらにさみしさを覚えつつも、剣豪として名をはせる父がいたことで、アークライト家は子爵家でも他家から重く扱われることが多く、セレスも高位貴族の子どもたちの集りに母とともに参加することが多かった。子爵令嬢だからと差別されることもなく、あのアークライト子爵の娘ということで、おおむね好意的に受け入れられていたと記憶している。

 そんな生活が一変したのは、戦争でアークライト子爵が戦死してからだ。

 蛮族に乗っ取られた土地を奪い返す戦争で、アークライト子爵は前線で誰よりも活躍し、そしてその命を落としてしまった。負けを確信した敵が、最後の抵抗にとアークライト子爵を狙い撃ちにしたと、セレスたちは父の部下たちに涙ながらに聞かされたことを覚えている。

 王国に剣で貢献したアークライト子爵の死を悼み、国王の命でアークライト子爵家には国から遺族年金が与えられることになった。アークライト子爵家は領地を持たない貴族家であったため、収入はその年金だけとなってしまい、一家は徐々に困窮した。父が遺した貯蓄と国からの年金を合わせても、父が存命のころよりも一年の収入は六割ほどに落ち込んだのである。

 そのうえ、父を亡くした母もそのショックから病がちになり、一家の切り盛りはまだ十歳のセレスが中心となって行わざるを得なかった。使用人たちもこれまで通り雇い続けることはできず、紹介状を書いて退職してもらったので、家事は率先してセレスが担い、母や弟の世話もセレスと家令で行っていた。さらに、跡取りとなる弟に剣術を学ばせるための教育費用を工面するために、セレスは自らの家庭教師も解雇せざるを得なかった。勉学だけが彼女の心の支えだったが、一切の泣き言を言わず、アークライト子爵家のためだけに奔走したのである。

 当然、これまでのように他家のお茶会やパーティーに参加できる余裕もなく、アークライト子爵家は貴族社会からも徐々に孤立していった。いくら戦争で王国に貢献したとしても、当主が亡くなった貴族家が力を失ってしまうのは仕方のないことである。

 セレスの尽力のおかげでギリギリ貴族としての対面を保っていたアークライト子爵家は、母の病状が落ち着いたことで少しだけ余裕が出てきた。結婚前は、貴族の子女の家庭教師として礼儀作法を教えていた母が、セレスひとりに負担をかけるわけにいかないと徐々に家庭教師の仕事に戻るようになったのである。

 母が働きに出てくれるようになったことで、セレスは王立学園に通うための時間的余裕が生まれたのである。王立学園は貴族が通うので学費や学園生活にかかる費用も莫大であるが、成績上位者には入学金、授業料、教科書代が免除になるだけでなく、奨学金も毎月もらえることになっている。

 そうして十五になる年、セレスは見事王立学園に首席として入学した。

 セレスは、学園生活のほとんどの時間を教室、図書館、屋敷でのみ過ごした。クラスメイトたちがカフェに出かけていてもセレスはその輪に一切入ることなく、学園で首席をとり続け、王宮文官の試験に合格することだけを考え、学園の三年間を過ごしたのである。

 貧しいアークライト子爵家では、結婚のための持参金を用意できない。セレスは早々に結婚をあきらめ、一生独身で暮らすべく、王宮文官の道を目指したのだ。さらに王宮文官になれば、アークライト子爵家に仕送りもできるようになる。少なくとも弟が成人を迎えて正式に爵位を継ぐまで、アークライト子爵家を支えるのは自らの責務だとセレスは考えていた。

 そうして努力に努力を重ねてつかんだ王宮文官の内定が失われた事実に、セレスは力なく自室の床にへたり込む。それに、あれほど内定を喜んでくれた母や弟に何と言えばいいのだろう。

 へたり込んだままぼんやりしていると、部屋のドアがノックされ、セレスの母が入ってくる。そろそろ夕食の準備を始めないといけない時間になってもセレスが来ないので顔を見にきたのだ。母は床に座り込む娘に驚いて駆け寄った。


「セレス!?どうかしたの?」

「おかあ……さま……」


 セレスはぼんやりとした目を母に向ける。いつもとは明らかに様子の違う娘の姿に、母は顔を青くした。


「体調でも悪いの?ああ、どうしましょう。今まであなたに無理をさせていたから……。そうだわ、すぐにお医者様を呼ばないと」


 慌てふためく母を見て、セレスは幾分か冷静さを取り戻す。医者を呼ぼうと立ち上がりかけた母を制し、セレスは握りしめてくしゃくしゃになったその紙を見せた。母はセレスから受け取ると、内容を見て大きく息を呑む。その内容は、母にとっても、到底信じられない内容であったからだ。


「取り消しだなんて、どうして……。セレスは試験でも優秀な成績だったと、内定を伝えにきた使者が言っていたじゃない!」


 悲鳴にも似た母の声を聞きつけ、弟も慌ててセレスの部屋に飛び込んできた。剣術に邁進し、体躯もかなりがっしりしてきて、立派に父の背中を追っているが、あまり家庭を顧みなかった父とは違い、母や姉思いに成長している。


「母上、姉上、何かありましたか!」


 弟の姿を視界にとらえた母は、青い顔をして「これを見てちょうだい」と内定取り消しの封書を渡す。


「なんですか、これ……なんでこんな馬鹿なことに!」


 弟は目を見開き、みるみるうちに表情が怒りに変わっていく。


「こんなに優秀な姉上が内定取り消しだなんてあり得ません。今すぐ問い合わせてきます!」

「ま、待ちなさい、アーネスト。あなたは今大事な時期なの。問題を起こしてはだめよ」


 母と弟のおかげですっかり冷静さを取り戻したセレスは、今にも飛び出さんとする弟をたしなめる。


「しかし、こんなこと許されていいはずが……」

「そうよ、セレス。内定をいただいたあとも、あなたは学園にしっかり通って最後まで首席を保ち続けたじゃない。こんなのおかしいわ」

「わたくしも納得したわけではないわ。だからと言って、後ろ盾もない当家が騒いで、アーネストが子爵位を継げないことのほうが嫌なの」


 淡々と現実をつきつけたセレスに、母も弟も黙り込む。せめて弟がアークライト子爵になっていれば、当主として物申すことができただろう。しかし、弟はまだ当主ではなく、アークライト子爵位は王家預かりとなっている。もちろん、弟が成人のときに再度下賜される契約ではあるが、もしここでもめごとを起こし弟が当主になれなければ、これまでの血を吐くような努力がすべて水の泡だ。


「……王宮文官の仕事はだめだったけれど、お母様のように家庭教師になる道もあるかもしれない。心配しないで!わたくしは大丈夫!」

「セレス、あなた……」

「それに明日は卒業パーティーよ。暗い顔ばかりしていられないわね。――さあ、夕飯の準備をしなくっちゃ!」


 セレスが努めて笑顔を見せるのを、母と弟は顔を見合わせる。無理に笑うセレスの気持ちが痛いほどわかるからこそ、言葉が紡げないでいたのだ。


「夕飯の準備はわたくしとアーネストでやるから、セレスは卒業パーティーの準備をしなさい」

「え?」

「お、俺が手伝うんですか?」

「まあ、あなたのお父様だって、遠征があるときは自分で料理をすることもあったのよ?あなたも練習しなさい」

「……はい」

「でも、お母様」

「今日と明日は家のことを忘れて、あなたは自分のことだけ考えなさい。いいわね?」


 母にまっすぐ見つめられ、セレスは小さく頷く。母と弟が出てひとりになると、セレスは不思議と心が軽くなっているのを感じた。もちろん、自分の未来が閉ざされたことは変わらないし、そのことを思うと胸が痛む。それでも今は、家族の優しさを感じて、セレスは明日の卒業パーティーのことを考えられるほどの心の平穏を取り戻していたのだった。




「とってもきれいよ、セレス」


 母の声に目を開けて、鏡に映った自分を見てセレスは息を呑んだ。いつもは化粧もせず、髪もくしでとかすだけで、父が亡くなってから着飾ることもなかったが、今日は卒業パーティーということもあり、母が腕によりをかけてセレスに化粧を施し、髪もセットしてくれた。鏡に映るセレスは、普段の野暮ったさはなく、立派な貴族令嬢に見える。

 ドレスは既製品ではあるけれど、体のラインに沿った大人っぽいドレスで、夏の新緑を思わせる鮮やかなグリーンが目をひく。グリーンは亡き父の瞳の色でもあった。


「すごい……お母様、ありがとう!」


 思わず母に抱きつくと、ぽんぽんと背中を優しく撫でられた。


「いつも一生懸命なセレスは本当に美しいわ。卒業パーティー、楽しんでね」


 母の言葉に、目頭がじわりと熱くなる。せっかくの化粧が崩れてはいけないとこらえていると、大きな足音を立てて弟が飛び込んできた。


「姉上、準備はどうですか!」

「アーネスト!なんですかあなたは、騒々しい!姉とは言え、女性の部屋に入るのにノックもなしで!」


 眦をつりあげる母に、弟の体が一回り小さくなる。その様子がおかしくて、セレスの涙はあっという間に引っ込んだ。


「……姉上、とってもきれいです!こんなにきれいな人、社交界でもそうそういませんよ」

「まあ、ありがとう。アーネストもすてきよ。今日はエスコート、よろしくね」


 あんなに小さかった弟が、今日は亡き父が遺した礼服を着て、まるで貴公子のような様子だ。婚約者のいないセレスのエスコートを、弟が引き受けてくれたのである。


「姉上のエスコートができるなんて光栄です。しかも、首席として卒業生代表あいさつもするんですよね。楽しみだなあ」


 姉の晴れ舞台に、すっかり締まりのない顔をする弟に、再び母の檄が飛んだ。


「アーネスト!しっかりセレスをエスコートするのよ?」

「わかってますってば」

「だったらもっときりっとしなさい、きりっと」

「え、ええ……?」


 母と弟のやり取りに、セレスは声を出して笑わないよう必死で我慢する。内定取り消しでセレスが落ち込んでしまわないよう、一生懸命明るく振舞ってくれているのだろう。その優しさに、セレスは心のなかでお礼を言った。

 父が亡くなり、母が病気がちになって、セレスが家を切り盛りすることになったとき、彼女の心はいつ折れてもおかしくなかった。子爵家の才女と呼ばれていても、まだ十歳の少女である。家令もいたとは言え、セレスは毎日不安で押しつぶされそうだった。そんなセレスを支えてくれたのは、間違いなく母と弟である。母は元気があるときはセレスに寄り添い、甘える時間をつくってくれたし、弟は小さいながらも姉を支えようと率先してできることを手伝おうとしてくれた。母と弟がいなければ、セレスはきっとここまで強くなれていない。

 そして今も、母と弟がいるからこそ、セレスは背筋を伸ばして立っていられるのだ。

 母と家令に見送られ、セレスは弟とともに学園へと向かう。王立学園は貴族が通うだけあって、パーティー用の会場が完備されている。セレスも授業の一環で、何度かクラスメイトとダンスの練習をしたものだ。

 弟のエスコートで入場すると、人々の視線がセレスに集まった。王立学園を首席で入学し、そのまま首席で卒業、しかも王宮文官の試験にも合格したセレスは、ちょっとした有名人である。しかし、彼女に声をかける者はいなかった。彼女は勉学ばかりに勤しんで、交流を疎かにしていたので、友人と呼べる存在がいなかったのだ。

 セレスは成績優秀者ばかりのクラスに在籍していたが、クラスメイトはセレス以外高位貴族の子息や令嬢ばかりで、父が存命中に交流を持っていた子息や令嬢もいるが、父が亡くなって交流がなくなり、下位貴族から高位貴族に声をかけることもできず、セレスは基本的に孤立していた。

 弟は初めて参加するパーティーらしいパーティーにそわそわと落ち着きがない。今日は王宮料理人が腕によりをかけた料理が並んでいるので、そちらに目を奪われているようだ。


「アーネスト、わたくしは大丈夫だから、何か口にしていらっしゃい」

「だ、だめですよ。母上に絶対姉上のそばから離れるなって言われてるんですから……」

「でも、あんなに豪華なごちそうははじめてでしょう?少しくらいなら大丈夫。お母様にも黙っていてあげるわ」


 いたずらっぽくほほ笑むと、弟は短く謝って料理が並べられたテーブルに向かっていく。その背中を見送って、セレスは短く息をついた。

 会場を見回すと、ほとんどが婚約者のエスコートか、父親のエスコートばかりだ。自分の状況を客観的に振り返ると、改めてその悲惨さにため息がこぼれた。卒業した次の日から王宮文官として城に上がるはずが、明日から立派な無職だ。弟が成人を迎えるまでどうしようかと考えていると、ふいに誰かにぶつけられた。


「申し訳ございません」


 思わず謝罪すると、どうやら同じ卒業生らしき貴族子息だった。ワインをたくさん飲んだのか、目の焦点が合っておらず、足もとが少しおぼつかない。そっと離れようと再び謝罪しようとしたとき、「お前!」と不躾に指を指された。


「お前、セレス・アークライトだろう?」

「はあ……」


 さすがにクラスメイトであれば顔も名前も一致しているが、この男のことはよくわからなかった。見たことはあるような気がするが、あまりにも軽薄で知性を感じない顔だったので、セレスは首を傾げる。


「俺はなあ、エドワード・クロムウェル。クロムウェル侯爵家の四男だ」


 クロムウェル侯爵と言えば、最終面接にいた内務卿だったはずだ。セレスははっと息を呑み、カーテシーを披露する。


「大変失礼いたしました、クロムウェル侯爵子息様。セレス・アークライトと申します」

「あー知ってる知ってる。王宮文官の内定が取り消しになったセレス・アークライトだろう?」


 エドワードの大きな声に、会場の視線がふたりに集まった。セレスは驚きで目を見開くが、すぐに淑女の笑みを浮かべる。


「……まあ、クロムウェル侯爵子息様は情報通でいらっしゃるんですね」

「父上が言っていたよ。生意気で扱いにくそうな女だったと」


 からかうような言葉に、セレスの体が小さく震える。女が、王宮文官になることは滅多にない。だからこそ、女でありながら王宮文官の試験を受けたセレスのことを、とくにクロムウェル侯爵が快く思っていないことは最終面接の様子でも感じていた。それをこのような場で口にされ、セレスは怒りで我を忘れそうになるのを必死で抑え込む。


「だから、お前の代わりに俺が王宮文官になることになったんだ。悪いなあ!まあ、恨むなら、女のくせに出しゃばった自分を恨めよ」


 そう言って下品に笑うエドワードの顔を、セレスは感情を失った表情で見つめる。

 ――今、この男は何と言っただろう。俺が王宮文官になる、と言っただろうか。

 セレスはエドワードの言葉を反芻し、言葉を失ってその場に立ち尽くす。エドワードは相変わらず下品に笑っていて、周囲の者たちもセレスを嘲笑っているように見えた。

 内務卿の不興を買い、王宮文官の内定を取り消された女。エドワードの一言で、セレスがこれまで積み上げてきた努力は一瞬で崩れ落ちた。この話は、明日には主要な貴族家に広まってしまうだろう。そうなれば、セレスは家庭教師の職に就くことも難しくなる。もしかすると、母の仕事にも支障があるかもしれない。

 国のために命を落とした父。国からもらえる遺族年金はあったけれど、それは決して楽に生きていける額ではなかった。アークライト家が貴族としての体面を保つために今まで必死にやってきたことは何だったのだろう。セレスの足もとがぐらりと揺らぐ。

 この場を去りたいが、このあと卒業生代表のあいさつもある。どうしてもそれだけはやり遂げたかった。ここで逃げ出したら、本当にすべてを失ってしまうような気がしたのだ。


「ああ、ここにいたのか」


 そのとき、周囲の視界をさえぎるように、ひとりの貴族子息がセレスの前に立つ。顔を上げて目に入ったその顔に、セレスは先ほどよりもていねいなカーテシーを披露する。エドワードの下品な笑いも気づけば止まり、周囲の貴族たちもしんと口を閉じた。


「セレス嬢、よかったら少し話さないか?」


 ラディウス・ヴァレンシュタイン公爵子息は、そう言ってセレスに手を差し出した。





 ラディウス・ヴァレンシュタイン公爵子息。

 王立学園で最も華やかで、常に多くの女性の視線を集める存在。クラスメイトではあったが、自分とは住む世界が違うと感じていたので話したことはほとんどない。そんな相手が、なぜ自分に話しかけてくるのかと、セレスは呆然とラディウスを見つめる。彼の差し出す手は、まるでセレスを救い出すかのように見えた。

 エドワードは、ラディウスの突然の介入にたじろいでいる。ラディウスは学園内で最も高位の貴族であるだけでなく、その家門は王家にも連なるほどの権勢を誇る。ヴァレンシュタイン公爵は宰相の職につき、公爵夫人は現国王陛下の妹君であった。エドワードどころか、どの貴族も軽率に口を挟める相手ではない。

 ラディウスはエドワードを一瞥すると、セレスの手を取り、そのまま人混みを縫うようにして会場の奥へと連れて行った。二人の行動に誰も言葉を発することなく、静かに二人を見守るしかなかった。セレスをエスコートするラディウスの優雅な姿は、まるで絵画のようで、令嬢たちはうっとりとした、それでいて嫉妬をにじませた目を向けている。セレスはラディウスのあまりに堂々とした態度に、ただされるがままだ。

 会場の喧騒から離れた、小さなバルコニーで二人は立ち止まった。こんなときなのに、密室に連れ込まれなかったことにセレスは胸を撫でおろす。あまりのことに思考を奪われてしまったが、ラディウスの学園での様子は、女性限定の博愛主義者で、その周囲には常に令嬢を侍らせていたように思う。そのくせ特定の誰かと付き合うことはなく、日々違う女性と街に繰り出しているところをセレスも目にしたことがあった。

 ラディウスは静かにセレスの手を離すと、バルコニーの手すりに寄りかかった。日の沈みかけた夕空を見上げる横顔は、普段の華やかさを潜め、どこか影を帯びているように見えた。

 先に口を開いたのはラディウスだった。


「突然連れ出してしまい申し訳なかった。ただ、あんな最悪な空気はたまらなかったから」

「……とんでもございません。むしろ、ありがとうございます」


 セレスが深々と頭を下げると、ラディウスが小さく笑う。いつもは軟派な方だと少し遠巻きに見ていたが、結果的にその博愛主義に救われたのは事実だ。


「君の内定を取り消したのは、あの馬鹿息子をねじ込むためだろうな。本当に申し訳ない」


 ラディウスに謝罪され、セレスは言葉もなく首を横に振る。ラディウス自身はまだ公爵子息で、何の権力もない。誰にもどうしようもないことなのだ。


「君は、きっと内務部に配属されることになっていたんだと思う。配属先の人事は、すべて大臣に一任されているからな」


 ラディウスの言葉に、セレスはすべてがつながった気がした。クロムウェル侯爵はおそらく、セレスの内定を取り消すために内務部へひそかに配属させ、そのまま内務卿の権限でセレスの内定を取り消し、自らの息子をねじ込んだのだろう。手続き上に何も問題がなければ、一見すれば不正には見えない。内定取り消しの理由など、クロムウェル侯爵ならばいくらでもでっちあげることだってできる。

 そこまでクロムウェル侯爵に憎まれていたのかとセレスは目の前が真っ暗になりそうだった。

 セレスは無意識のうちに拳を握りしめた。これまでの努力を、他人の都合で踏みにじられた怒りが込み上げる。しかし、それ以上に、どうすることもできない自身の無力さに、深い絶望を感じた。


「……わたくしには、どうすることもできませんわね」

「本当に、とても残念だが……。君の内定取り消しは正式に受理されているようで、父でも簡単にはいかないだろう」


 ラディウスの言葉は、まるでセレスの心をえぐるようだった。全てが、完全に終わってしまったのだ。そのうえ、卒業パーティーで内定取り消しを暴露されたセレスは、醜聞しか残らない。


「……そうですか」


 セレスは絞り出すようにそう答えるのが精一杯だった。もう言葉を紡ぐ力も、感情を表に出す気力も残っていなかった。ただひたすら、このまま消えてしまいたいと願った。

 ラディウスはそんなセレスを、じっと見つめていた。その視線は、同情でも好奇心でもなく、まるで何かを試すかのような、鋭い光を宿していた。

 長い沈黙がバルコニーを支配する。セレスはただ、早くこの時間が終わってほしいと願っていた。しかし、ラディウスは静かに口を開く。


「あなたに、ひとつ提案がある」


 その声は、夜の帳のように静かでありながら、有無を言わせぬ響きを持っていた。セレスは戸惑いながらも、ラディウスを見上げた。彼の瞳には、計算された光が宿っているように見えた。


「持参金はなくてもいい。子どもを作る必要もない。ただ、公爵夫人としての最低限の社交と体面を保ってくれるだけでいい」


 ラディウスの言葉が理解できず、セレスは首を傾げる。


「――私と、結婚をしてほしい」


 その言葉は、内定取り消し以上の破壊力を持って、セレスの心にずしんと重くのしかかった。


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