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Stay Alive  作者: 歌ミン☆ギュ
Say.1-10一気見
11/12

Stay Alive. Say.1-10(一気見).

Stay Alive. Say.1-10(一気見).



Say.1. 0から1へ、100年期約の大前提。


Say.2-10. 病気。





遠い闇の中からふと誰かのささやきが聞こえてきた。


「ようやく完成できた....。」


囁きのそばに宿るのは欠片。

青い、光の欠片。

そこにある者、手のひらを整列に集め、大切に受け止めた。

そうすると欠片から流れた光、そこに溜まり小さな湖を成す。

それでもその小さな手、輝きを受け止めるには足りなくて、あふれる光は粗い手の隙間から零れ落ち、闇の中に溶け込む。

その者、献上するように欠片の湖を頭上に捧げると、そこにある世界、ふと光を飲み込み眠る。

訪れたのは目を閉じた世界、身を委ね眠ろうとすると、到来するのは昇華の時。

欠片は星となり、遠い彼方で光始める。

それは遠い道標。

聖光に導かれ腕を広げると、光は波となり天空は揺れる。

天空を飾れ、光の波。

遥かオーロラの道。

道は重なり、やがてその波で蒼穹を溶かし大空を開いた。

一つ。

二つ。

数えるたびに大空は広がる、星のように多く、遠く、遠い彼方まで。

一つは十となり、やがて千となり、次の瞬間数えきれない数となって広がっていく。

その日、突然全世界を囲む天空の大空洞。

見上げる者たちは指を合わせて数えてみるが、その小さな十本の指を折り畳み握った手の中には無意味さだけが残されていた。

だから、誰もが手を下ろし、ただそれを見上げるしかなかった。

誰かは遥かな空の大陸で。

誰かは星々が眠る深海の中で。

誰かはガラス破片の砂漠の真ん中で…。

だが彼らは、いや、きっと誰もがまだ知らずにいた。

その日、突如として世界を覆った大空洞が、何を呼び起こそうとしているのかを、何を産もうとしているのかを…。

知らないまま、誰もがそれぞれの場所で、もうすぐそこから生まれることになる数え切れないほどの冒険と物語の誕生を、ただただ見守っていた。

その時、遥かな闇の中で、その者は誰かに手を差し伸べるように天高く手を伸ばし、再びそっとささやき始めた。


「これで七十年の待ちは終わりを迎える」


「さあ来るがいい、懐かしき世界の放浪者たちよ、哀れなる月なき世界の住人たちよ」


「門は既に開いている、胸を開きその願いを叶え給え」


「そなたらの願いが叶う時、私もまた失った月を取り戻し、抱いてきた願いを叶えることになるだろう」


「阻む簒奪者よ」


「来い」


「そなたが被りし救世の仮面、壊す時が来たなり」


「ここは決着の地」


「長き因縁を断ち切り、そなたに奪われた世界を取り戻そ」


「歪んだ時計の針を崩し、ここから新たな70年を始めよう」


その言葉を最後に、その者その荒くて小さな手で静かに虚空を掴んだ。

溶け込むささやきとともに、大空洞はどんどんと広がる。

天を照らし、波をまとった光は、空洞を越え、月なき空とその柔らかなドレスを分かち合った。

そして、それを見上げているすべての者たちの端末に、ほのかな光とともに、見たことのないアプリケーションが溶け込んだ。

ただひたすら美しい、月のない空の下、その光景は儚げな老女の紫の瞳にも、静かに伝わっていた。

そうやって何千、何万、もしかすると何十億もの人々の瞳に、この日のオーロラは刻まれた。

それでもオーロラは続く。

そしてその遠い彼方で、月を背にした謎の男性は、オーロラに染まる世界を静かに見下ろしていた。


■□■


ピッ ピッ ピッ――


光の届かない暗い部屋、そこはまるで深海のようで、かすかな青い光に包まれ、ただひたさら静かだった。

そこに沈み、沈没したかのような医療装置につながった青年。

青年はその静かな心拍音で、深い沈黙を静かに沈めていた。

青年の体、特に臓器はこの医療装置と複雑に結びついて、まるで周囲に散らばったこの複雑な機械たちが青年の臓器の役割を代わりに果たしているかのような印象を与えた。

しかしそれはひどく異質で息苦しい形で、青年はまるで縛られたかのように微動もせず、ただそこに沈んでいた。

呼吸さえも機械装置なしでは不可能な息苦しい世界。

だけど皮肉なことに、その機械装置だけがこの暗い深海に光を運んでくれていた。

これは月が消えた、少し遠い未来の物語。

空想と現実の境界が崩れた世界を生きる青年の物語。


-Say.1.0から1へ、100年期約の大前提. END.

-Next say.病気.

-To be continued....



Stay Alive Say.2. 病気.



きっと君は知らないと思う。

私がどれほどこの時を待っていたのか、どれだけ伝えたいことが多かったのか……

きっと、今からそれを聞く君は驚くだろう。

十年以上口を閉ざしてきた私が語る、数多の旅と抱いてきた物語たちに。


「でも変だね。あんなに望んでいたことなのに、いざこうして目の前にすると、胸が痛くて、喉が詰まって、言葉がうまく出てこないよ。」


あまりにも言いたいことが、伝えたいことが多かったのにも、今になってようやく伝えられるようになったのにもかかわらず、私にはそれを声にすることが、あまりにも難しく伝わってきた。

まるで今まで積み上げてきたすべてのものが、誰と言うこともなく自分が先だと言いながら、ただ一つの小さな首を譲らないため、飛び込み、ぶつかり、絡み合った。

誰一人、自分より先に飛び込むことを許さない勢いで、お互いがお互いを強く握りつけているかのような、そんなもどかしく漠然とした気分がしてきた。

それをどうにかしたくて必死で頭を回してみたが、それでもどこから話を始めればいいのか、何から伝えればいいのか、そう簡単には決められなかった。


「やはり話すのは慣れないな、おかしいだろ?うるさい奴らといっぱい練習したのにな……」


だけど、きっとそういうぎこちなさも含めて、私たちらしいものだろう。

だって、私たちはずっとそういう形でいたから

私たちに、いや、私には声なんて必要なかった。

そう思うと、やはり運命というものは不思議に感じられる。

巡り巡って、今回は私がこうやって声を出す立場で、君に話しかけているから。

そして、きっと今の君はあの時の私の真逆の立場にいる。

だから、私はつらくても話をすすけなくちゃならない。

君のために、そして私のために。

私たちの物語を……


「だから、そろそろこの物語をどこから始めればいいのか決めなければならない、伝えたいたくさんのことを正しく伝えるために」


それを決めた瞬間、真っ白な空間に桜の花びらが舞い始めた。


「そうだね、きっとこの物語はあの日から始まったと思う、今もでも変わらず夢に出るあの日の桜の庭で……」


蘇る思い出とともに、誰かが輝きの中で私の手を掴み、その温かい引力で私を物語の中へ引き寄せた。

その手に引き寄せられるまま歩いていると、ふと気づいた時には幼いあの頃に戻り、満開の桜の日々の中で桜に服を濡らしながら君を追いかけていた。

君は優しく疲れた私の手を離して、桜の丘へ向かって走った。

君が手を離すと、すぐに体中の力が抜け、視線はそのまま地に落ちた。

荒い息を整えながら、かろうじて岡の上に視線をのせると、桜の丘で君が手を振っていた。

そう、君はいつもそんな温かい雪が降る眩しい季節の中にいた。

あの日に限って眩しい日差しが君の顔を隠していたけれど、君はいつもその明るい笑顔で私の名前を呼んでくれる人だったことを覚えている。


昭真(そうま)、早く!」


「待ってよ、明芽(あやめ)!息が…はぁ、はぁ……」


君は幼い頃からずっと明るく賑やかな子で、そういう君を追いかけることが簡単なことではなかったけど、それでも私は、そんな君の手に導かれて、どこまでも広がるその眩しさを追いかけていくのが本当に好きだった。

あの春の日。

陽射しとともに花びらの中を駆け抜ける君を忘れられないだろう。

忘れるはずがない。

君を追いかけ降る桜の雨に濡れ、花びらで服を染めたこの日は、今でもこの胸に染み込み、君の笑顔を夢見させる。


「明芽…」


私はいつも君を追いかけていたよ。

いつまでも追いかけていたかった……。

あれからあまりにも多くのものが変わり、数え切れないほどの日々が過ぎていたけれど、私は今でもまだそういう夢を見ている。

君と一緒に走っていた春の日の夢を……。

私の人生、君と共に歩めた最後の日を忘れられないまま、私はいつもその夢の中にいた。

苦しい時も悲しい時も…

君はいつもそこにいた。

私のそばにいてくれた。

いつもそばにいたかった。

君と一緒なら、きっと明日も楽しいと思う。

辛いことも悲しいことも忘れられるようになるよ。

何があっても強く生きられるような気がする。

だから私は今日も君を追いかける夢を見るんだよ。

追いかけて手を伸ばすんだ。

もう二度と触れられない、あの日の私たちに向けて。


その時、伸ばした手とともに、突然体が揺れ、崩れるように視界がぼやけた。

その瞬間、まるで命そのものが抜け出すような不気味な感覚に、本能的に悪寒が押し寄せた。

直後、全身から抜け出る力は血として鼻から静かに流れ落ちた。


その時にはまだ知らなかった。

もう二度とその笑顔を見ることができなくなるとは……。

二度と君を追いかけて走れなくなるとは……。

明芽....。

明芽。

ずっと君に言いたいことがあったよ。

あの時はまだあまりにも幼くて、とても言い出せなかった言葉だけど。

今ならわかる。

だから、明芽。

私の話を聞いてくれる?

ずっと君がそうしてくれたように。

今度は私が君に私の物語を聞かせてあげる。


■□■


影に覆われ、一筋の光も差し込まない真っ黒な部屋、その女性は厚いカーテンを取り払い、窓を思い切り開け放った。

すると、待っていたかのように陽射しを乗せたそよ風が流れ込み、彼女の髪を心地よく撫でながら過ぎていった。

風の音はしなかったが、かすかな桜の香りがそこに風がいることを感じさせてくれた。

私はそれがあまりにも心地よくって、思わずその風に酔って、懐かしい夢を見たような気がした。

まだ夢を見ているような朦朧とした気分だったが、

突然、枕元からスピーカーを焼きちぎるかのような不快なノイズが飛び込んで、私の意識を強制的に夢のから引き下ろした。

最近、ラジオの状態が良くないのか、しばしばノイズが聞こえてくる時があった。

しかし、そうと言っても、この狭い一人病室には他に楽しむものもなかったので、

私は仕方なく、その旧式ラジオの放送に耳を貸すしかなかった。

ちょうどニュースの時間だったのか、ラジオからは穏やかなニュースチャンネルのBGMが流れていた。

BGMが徐々に小さくなるとともに、ラジオ越しのアナウンサーは大きく息を吸い込み、放送人特有の正確な発音で放送を始めた。


「皆さま、こんにちは。本日の朝、全世界が一つの神秘のもとに目を覚ましました。

昨夜、地球各地で同時多発的に出現したオーロラ現象によるものです。」


アナウンサーは呼吸を整えるように少し間を置いて、話を続けた。


「オーロラは、北半球はもちろん、普段ほとんど現れない日本、南ヨーロッパ、そしてさらにはオーストラリアの一部地域にまで、まるで世界を包み込むかのように例外なく夜空を彩りました。

それに伴い、SNSや各国のメディアはこれを『空の祝福』『世紀末の奇跡』と呼び、一斉に報道しております。」


アナウンサーが紙をめくる音がして、しばらく口を閉じた。

テレビニュースならこの時資料映像が映っただろうが、ラジオの特性上、静寂だけがしばらく流れた。

しばらくの沈黙が流れるとアナウンサーはわずかな不安げな様子を含ませ、聴取者の不安を誘うかのような口調で話を続けた。


「しかし、科学界はこの現象をただの『感嘆』として受け止めているわけではありません。

国際宇宙機構や気象庁、NASAをはじめとする各機関は現在、この現象の原因究明に着手しておりますが、いまだ明確な説明は出ておりません。

科学者たちは今回の現象が、太陽の大規模なコロナ質量放出(CME)によってもたらされた強力な太陽風による可能性を指摘しております。

しかし、正確な原因は確認できておらず、その影響範囲が予想をはるかに上回るほど広大であることから、従来のモデルでは説明できない変数が存在する可能性があると発表しました。」


その瞬間、ラジオから電流が弾けるようなノイズが発生したが、アナウンサーが息を整えて再び口を開ける頃には再び安定した。


「ただし、一部の学者たちは、前例のない電磁変動やネットワーク障害に鑑み、単なる太陽風による現象ではなく、未確認の宇宙活動、あるいは太陽系外部からの干渉の可能性にまで言及しており、今回の現象が単なる自然現象以上の意味を持つ可能性があるとの推測も出ております。

これを受け、政府は気象庁と宇宙監視機関を中心に緊急対応体制を稼働しており、市民の皆さまには、当面の間、空の観測に関する写真や映像資料を政府のポータルに共有していただきたいとの協力要請も発表されました。」


アナウンサーが話を終え、現場の記者につなごうとすると、今度はかなりひどいノイズが発生した。

そしてそのノイズはラジオの声を聞き取れないほど歪ませた。


「現場取材記者チチチッ!現場の反応……チジッ!!

とてもきれい……チジジッ!」


しかし、それもすぐに聞き取れるほどに落ち着いたが、それでもラジオは時折スパーク音とともにノイズを発生させていた。


「アメリカ、カナダ、ブラジル、アルゼンチン、コロンビアなど、現在もオーロラは観測され続けており、オーロラの撮影映像がSNSに次々とアップロードされ、話題を集めております……チジッ!

専門家たちは、今後数日間オーロラ現象が続く可能性があるとし、世界各地で観測の機会となる一方で、航空・通信・衛星分野の従事者は関連する異常の有無に十分な注意を払う必要があると……チジジッ!! チジジジジジジジッ!!」


絶えず神経をかき立てるノイズは、結局ニュースの終わりが近づくにつれて、完全に放送を飲み込んでしまった。

焼きちぎるかのようなノイズに耳が痛くなりかけた頃、

窓辺で光を浴びていた女性が近づき、静かにラジオの電源を下ろした。

耳障りな騒音が消えると、ようやく私はニュースの内容を振り返ることができた。


オーロラか?

そういえば、一度も見たことがなかった。

まあ、別に極地に生まれたわけでもないので、そう珍しいことでもないと思うが、どうやら昨日を基準に、その認識が相当変わったらしい。

昨夜、全世界を包み込み、そして今この瞬間もなお世界を追い隠しているというオーロラ。

今でも窓から見上げれば、かすかに見えるかもしれない。

それでも、私にはオーロラを見ることはできない。

どれだけ世界が変わり、その認識が変わるとしても、私以外のすべての人がオーロラを見た世界になるとしても、この目にオーロラが届くことはない。

だから、ただひたすら想像するしかない。

それだけが許された。

昨夜、世界を包んだというオーロラ、それは一体どんな色だったのだろうか?

どんな色で、どんな形を持ち、

それを見た人たちに、どんな感情、気持ちを感じさせたのだろうか?

それに共感し、またその感情を分かち合ってみたかったけれど、きっとあの開いた窓の向こう…いや、その内側にある小さな世界さえも知らずに生きている私には、身に余る願いだろう。

だから、これからも私がオーロラを見ることはないと思う。

どれだけ知りたくても、知ろうとしても、この世界は私にそれを見せてはくれないだろう。

世界は私にそういう形を与えた。


知らず知らずのうちに否定的な思考に浸っていたその時、ラジオの方から気配を感じた。

枕元で感じる気配に意識が突然別の方向へと飛んだが、それでもおかげで悲観的な思考からは抜け出すことができた。


いつからこうなってしまったのだろう?


否定的な思考についての省察を積み重ねているうちに、ふとそんな疑問が湧いてきた。

こうしてふっと振り返ってみたら、こうなってからもう10年以上が経っているということに気付いた。


そう、こうなったのは10年前、あの誕生日とともにふと訪れたある病気にかかってからだった。


私がそれを知るようになったのは、発病からかなり経ってからのことだったが、どうやらこの世界には治らない病気というものがあるらし。

人の力ではどう足掻いても治せなかったので、それを不治の病と呼ぶらし。

そして、じょうど私の病気がそうらし。

発病と同時に全身の筋肉が溶け始め、1年、長くても2年で死に至らせる病気。

症状も怖かったが、最も怖いのは原因そのものを分からないという点にあった。

全国の有能な医者という医者は全部探してみたけど、誰ひとり、病名はおろか明確な原因さえも明かすことはできなかった。

人が暗闇を恐れるように、知らないということがどれほど恐ろしいものかを、その時気づいた。

たとえどれほど苦しい病だとしても、治す方法があるなら、その可能性がほんの僅かでもあるとしたら、人はその可能性を信じ、希望や未来を描くことができる。

だけど、わたしの病気はちがっていた。

原因も治す方法もわからない。

それだけか?

発病と同時に、余命宣告をされる不治の病。

それが、私の身を蝕む病の正体だった。

だけど、それでも当時には漠然な期待はあった。

奇跡と呼ばれるものに頼っていたのかもしれない。

でも、漠然だとしても、そこには確かに「希望」と呼ばれるものがあった。

まさか自分が死ぬとは、当時の私は思ってもいなかった。

だって、そうじゃないか?

誰が一朝一夕に自分が死ぬと想うと言うんだ?


今までずっと大丈夫だったし、これからもそうであって当たり前じゃないか?


だから今、少し痛いのぐらい、何だと言うんだ?


きっと明日になれば、大丈夫になる....


人なら誰しもが、そういう漠然とした希望を抱きながら生きている、それを当然と想いながら生きていく。

当時、10歳だった私も、そういう希望を持つ人のうち一人だった。

だけど、どんどんと壊れていく私を抱いて、号泣なさる両親の姿を目にしたその日、かすかに残っていたはずの希望は形を失った。

そして、ちょうどその頃から鎮痛剤はその役割を失い始めた。

痛くて痛くて、日に日に鎮痛剤の投与量を増やしていったが、そのたびに、どんどんと何もできなくなっていった。

惨たらしい痛みに呻きながら意識を失い、またその痛みのせいで目を覚ました。

そうするうちに気づけば夜になり、また気づけば季節が過ぎっていた。

それが悲鳴のせいか、病気のせいかは分からなかったが、いつの間にか喉は裂け、もう声を出すことはできなくなっていた。

その頃、もはや一般的な鎮痛剤ではどうすることもできなくて、「スフェンタニル」、そう呼ばれる、モルヒネのおよそ千倍の鎮痛作用を持つ麻薬性鎮痛剤の使用が始まった。

人間に使える鎮痛剤の中で、これより強いものは存在しない。

だから、もしこれが効かないのなら、次はない。

その計り知れない苦痛から人を救える鎮痛剤があるとすれば、それはたった一つ、「死」だけだった。

だけど結局、それでも楽になれす、精神は崩れ始めた。

そうやって、どうすることもできないまま崩れていく精神の奥底から、自分に似た何かが這い出てきて、こう懇願した。


「殺して」


たかが10歳の子供が望んだ最後の願い。

そしてそれが、私が残すことのできた最後の言葉だった。

それを最後に、私の中で精神が完全に崩れ落ちた。

その後はあまり覚えていない。

目を開けると真っ白な世界の中にいて、ただひたすらその瞬間感じた言葉をその真っ白な世界に書き写していた。


痛い、痛い、痛い……


そうするうちに、いつのまにか真っ白だった世界は真っ黒に焦げ、もはや何もわからなくなってしまった。

いつからそこにいたのか、どれほどの時間が経っていたのか、そんなことさえ考えられないまま、ただひたすら真っ黒い世界に呑み込まれていた。

だが、ある日突如として、痛みが消えた。

それはとてもおかしなことだった。

鎮痛剤の使用は、もうとっくに中止されていたはずだった。

使っても意味がなかったので、鎮痛剤の副作用で二度目の心停止が来た日、投与は中止された。

それでも、この日を境に、今までどんな鎮痛剤を使っても、いくら量を増やしてもやまなかったはずの私の痛みが、完全に消えたのだった。

けれど、なぜか本能的にそれが良い兆しではないということを感じ取ることができた。

しかし、その瞬間はあまりに疲れて、それ以上何も考えることができなかった。

痛みは消えたけれど、依然として私の世界は真っ黒に塗りつぶされていたので、まともに考えというものができるようになるまでにはかなりの時間が必要だった。

後に知ることになったが、この日、私の体は取り返しのつかない一線を越えたという。

脳から全身へとつながって、体を動かしたり制御するための信号を送り、またそこで感じたことを脳へ運ぶための神経系。

その神経系がこの日、溶けていく筋肉に焼かれ、燃え広がる導火線のごとく全身から全焼した。

突如として、痛みが消えたこともまた、その全焼の一環だらしい。

脳が体に信号を送る神経が破壊されたことにより、体が脳に痛みという信号を送る方法もまた失ってしまったのだった。

だから、この日に私の体に起こったことは、奇跡的な回復だとも劇的な好転だとも言えるものではなかった。

痛みが消えたことは間違いないけれど、それは同時にもう二度と昔のようには戻れないということを意味していたからだ。

そこからもう少し時間が過ぎ、意識が戻る頃には、あまりにも多くのことが以前とは変わってしまったことを受け入れなければならなかった。

目を開けようとすると、そこには光を失った暗夜だけが満ちており、痛くてもどうにか動かせたはずの体は、痛みを失うとともにほとんど完全に動かせなくなっていた。

いくら動こうと努めても、まるで手が届かない遠くにある物体を、存在もしない念力のようなもので掴んで動かそうとするかのような無力な乖離感だけが押し寄せた。

昨日までも当たり前にしていたことたちが消えたことを一つ一つ確かむたびに、生きたまま死体になっていくような薄気味悪い感覚にとらわれていた。


これは本当に自らが覚えていた自分なのだろうか?


いや、それ以前に、これが本当に人間なのかさえも、もはや確信できなかった。

そこにあるのは、まるで植物のように何も見れず、自らは動いたり何かを表現したりすることもできない、人間と呼ぶには異質な壊れた何かだった。

人と呼ぶというより、ただ生きたまま臓器を保管する箱に近い形を持っていた。

あまり気持ちがいい表現ではなかったけれど、それ以上に正確な表現を見つけられない現実から、不快な虚脱感と無力感が押し寄せてきた。


ああ……こんなふうにこの鼓動も、ある日突然、何の前触れもなく止まってしまうんだ……。


胸が不気味にざわついた。

痛みが消えたように、私はこれからも多くのものを失っていくことになるだろう。

そしてこの心臓の鼓動も、そう遠くない未来、失うことになるだろう。

痛みを失ったように、やがて訪れるその時、私はきっと何も感じないだろう。何も感じることなく、自分の心臓が止まったということさえも気づかぬまま、突然と終わりを迎えることになるのだろう。

それが私の未来。

痛みと引き換えに取り戻した心が悟った、逃れられない運命。

もうそう遠くない所に、その未来は待っている。

それがあまりにも怖かったけれど……

それでも、三回目の心停止が訪れたこの日は、痛みもなかったので久しぶりに深く眠ることができた。


生きている実感とは何だろ。


薄れゆく意識の中で、ふとそういう疑問にとらわれた。

その昔、この身がまだ健康だった頃には、考えたこともなかった。

けれども、こうして壊れた以後には、たまにそういう疑問にとらわれる時があった。

そう簡単に「これだ」と結論に届くことはできなかったけれど、少なくともそれを成り立たせるものの一つが「痛み」であることに気づいた。

痛みを感じられるから、人はそれを恐れ、怖がりそこから逃れるために必死に生きることができる。

私たちは生きながら、時には失敗し、そのたび身も心も傷つく。

だけどそれと同時に、その痛みを繰り返さないために学び、理解し、備える。

そういう当たり前な繰り返しの中で、生きている限り、果てしなく繰り返される痛みから立ち上がろうとするたびに、人は成長し、その過程の中で生きている実感に気づく。

だから私は、そうやって痛みを踏み越えて立ち上がり、成長していくこともまた、人が生きている実感の一つだと思うようになった。

だからあの日、私が失ったのは、ただ体が苦しいとかのような痛みではなくて、もっと大事で、とても大切なもののような気がした。

だからかな?

それを失った私には、生きている実感を覚えることもなく、ただひたすら意味のない日々だけが続いた。

そして、静寂の夜が訪れるたびに考えた。


明日になれば死ぬかもしれない。


だけど、それを知らせてくれるものはもう存在しない。

痛みを失い、生きている実感さえも失った私は、自分が死ぬということさえも知らずに、古いモニターのように、ある日突然消えてしまうのだろう。

でも、ある意味でそれは幸せなことかもしれない。

だから人々は、そのような死を眠ったまま死ぬといって、永眠と表現したりもする。

ならば、きっとこれは私にあたえられた最後の夜なんだろう。


その最後の夜の中に、私は今眠っている。


それに気づいた日からは、今にも終わってしまいそうなこの物語の終止符を探す日々が始まった。

その過程で、奇跡などは夢見なかった。


そのようなものが都合よく起こるものではないと言うことを、誰よりもよく知っていたから…...。


だから希望なんかはとっくに捨て、この人生の終止符が舞降りる日だけを祈った。

なのに、そんなはずだったのにもかかわらず、奇跡が起きてしまった。

その医者の名前は知らない。

幼い私にはあまりにも難しい外国の名。

しかし、その医者が開発した新技術の導入は、医学界に飛躍的な発展をもたらし、結果として、すぐにでも断たれそうな私の生命線を劇的につないでくれた。

もちろん、今に至っても完治は不可能な不治の病であり、治療を続けなければ死に至ってしまう病だということには変わりはなかったけれど。

それでも、どうにかその命をつなぎとめることには成功した。


でも、振り返ってみれば、それは奇跡でも救いでもなかったのかもしれない。

少なくとも、その日を始まりに両親の世界は地獄と化したのだから……。


治療においては、新技術はもちろん、現代医学界においても最高と称される優れた者たちの手を、必ず必要とした。

当たり前のことだが、有能な者は最高になり、最高になった者は常に最高の待遇を受け、その最高の待遇のためには、常に莫大な金が必要だった。

そして資本主義において、そのお金はいつも彼らより貧しく、劣悪な環境にある人々の懐から出てくる。

平凡な私たちにとって、彼らの基準に合わせて支払うということは、それだけでも血が滲むような苦しいことじゃないはずがなかった。

保険が適用されるにもかかわらず、毎月の純粋な維持費用だけでも毎月30万円が必要だった。

それだけか?

定期的に行われる延命施術やそれに伴う検査、治療の場合には、それに見合う追加費用が発生することは日常だった。

そして、そのすべてを支払う日々が果てしなく繰り返された。

毎月毎月、何年も何年も、息子の体を蝕む病を治すため、心を殺し、傷を開いて金に換える日々が今だも続いている。

実に十年。

地獄でないはずがなかった。

それでも両親は、1日も休むことなく、ただひたすら息子のためと、そのすべての苦しみに耐えてくださった。

それは決して安いことではない。

どれほど愛する人のためだといっても、己の自由も平和も夢も幸福もすべて投げ捨て、報われるかどうかもわからない不確かな未来のため、その身を苦しみの中へ投げ込むことは、決して簡単にできることではない。


愛する人のため献身し、自らを犠牲にする。


美しい響きほど、安いことではない。

いざその状況が目の前に迫ったとき、それがたとえ家族のためであったとしても、誰かのために自分の幸福や人生を丸ごと投げ出すことなど、誰にでもできることではない。

だからこそ、私は知らなくちゃならない。

お二人がこの日まで私にしてくれさったすべてが決して当たり前なことではないということお、今もこうして命おつなぐことができるのわ、すべて両親の尽きることのない犠牲と献身のおかげだということお……。

しかし、それでもこの気病は、両親の献身と犠牲を嘲笑うかのように、回復はおろか、好転の望みすら見えなかった。

ただ生き延びるだけで、むしろ時が経つにつれ、ますます無残に壊れていった。

痛みに続くように、舌は味覚を、鼻は香りを、目は光を失っていた。

後から延命治療が始まる頃には、すでに聴覚を除く五感のほとんどを失った後だった。

それでも私は生きるためにもがいたし、両親もそんな私を生かそうと尽力してくらさった。

だけど、そういう日々が続くたび、支払わなければならないものが増えていった。

貯金という言葉は意味を失い、帰るはずだった家は消え、その果てで結局借金ができた。

それは、たとえ天文学的と言えるものではなかったけれど、普通の人が返すには一生かかっても返せないほどの大金だった。

それでも時計の針は回り、やがて十年の年月が過ぎた今日、病に侵された身体にはもう自由などは残されていない。

五感のうち残された感覚は聴覚だけであり、肉身に残った自由といっても、右手の人差し指をほんの少し動かせるくらいしかなかった。

それでも、私はまだ生きるために足掻いていた。

たとえそれが今でも切れてしまいそうな細い糸のような命だとしても、呼吸器にすがり、かすかに動くその一本の指で、そのか細い生命線を離さないために必死に握りしめていた。

この十年、その細い糸を掴むために、あまりにも多くのものを失い、また犠牲にしなければならなかった。

失った数え切れないものたちに比べ、残ったものはあまりにも少ない。

たけどそれでも、人は生きている限り、すべてを失うことはできない。

何かを失っても、自分でも気づかぬうちに他の何かをその手に入れることになる。

それを望もうが望まなかろうが、何かは必ずその手に残る。

だから、生きている限り、決してすべてを失うことはない。

そのように、こんな私にも残されているものがあった。

多くのものを失ったにもかかわらず、その手の中に残り、生きる喜びを与えてくれるものがあった。

こんな私が言うと変に思われるかもしれないが、それは疎通だった。

前に言ったように、私は聴覚と人差し指以外のすべての自由を奪われている。

でも、それで十分だった。

それだけでも、他人と繋がるぎりぎりな線は繋がれた。

そして、そんな私に世界を、生きる喜びを感じさせてくれる人物が、今でもこうして私の手を自分の手のひらに載せているこの女性、明芽だった。


「昭真、おはよう」


彼女はいつものような、柔らかく温かな声で私にそう言った。

彼女は私の右手を優しく自分の掌に載せて、その温もりと共に静かに私の答えを待っていた。

肯定は一回、否定は二回、人差し指で彼女の手のひらを叩く。

不器用だったけれど、それが彼女と私の、二人だけの話し方だった。

私は彼女の手のひらを一回叩いた。

彼女は週末になると、よくこうして私の病室に来て、外の世界の話を聞かせてくれた。

内容はまあいろいろ多かったが、基本的には彼女の日常の話を中心に話し合うことが多かった。

そして、時には旅行先での思い出などの話も聞けたりもした。

だけど、人の人生がそうであるように、彼女からもいつも明るい話ばかりを聞けるわけではなかった。

時には、怒ったり不愉快だった話についても聞けるときもあった。

でも、そういう嵐のような話が過ぎ去ると、まるで何事もなかったかのように、穏やかで温かい話が戻ってくる。

そうやって巡り巡って、彼女は私に世界の明るいところも暗いところも隠さず聞かせてくれた。

私はそうやって、彼女の声で世界を見上げることが好きだった。

楽しい話も、暗く重い話も、ただひたすら彼女から生まれるすべてが好きだった。

だけど、時には少し困った気分になる話を聞かなくちゃならない時もあった。

ある日、彼女は告白を受けた。

愛の告白だ。

なぜかわからないけど、彼女が誰かに告白されたということを聞くと、あれこれ複雑な気持ちになって、素直に喜べなかった。


だって、私たちがまだあの春の日に立ち止まっているのだと思っていたから……。


私が覚えている明芽は、まだあまりにも幼く、柔弱だったあの頃のままの明芽だったから……。


だけど、彼女はもう私が覚えている明芽ではない。

告白という言葉は、それを聞くたびに、私にそれを気づかせる。

もう明芽はあの桜の庭にはいない。

私が知らないどこかで、いつの間にか大人になり、共に歩む人を選べるようになった。

そしてもう、私は彼女と一緒に歩むことはできない。

資格は、とっくに失っている。


みんながそれぞれの道で、私を置いて大人になっていく。


だからこの先の未来、彼女の隣を歩くのは私ではない。

それを知っているからこそ、告白という言葉は、いつもこの胸を締めつける、儚い疎外感や寂しさを呼び覚ますのかもしれない。

もちろん彼女は今はそれらを受け入れる気はないと話していたけれど、いつまでもそれが続くだろうとは思えなかった。

だって、彼女は魅力的だし多くの人々から愛されている。

そしてきっと、そう遠くないうちに彼女もそういう人を見つけて結ばれることになるだろう。

そうなれば、きっと彼女と共に過ごすこういう日も終わりを迎えることになるだろ。

覚悟はしているつもりだったが、それでも私はそれがどうしようもないほど怖かった。

彼女の「告白された」が「好きな人ができた」に変ってしまうのではないかと、もう私のそばに寄り添ってくれなくなるのではないかと怖かった。

怖くて怖くて、耐えられなかった。

だって、明芽は私を生かせてくれる。

体としてではなく、心として生かせてくれる人。

こんな私にさえ、疎通を願い、真剣に心を交わしてくれる唯一な人。

彼女がいたから、私はこんな体だとしても心を失わずにいられたし、同年代と共に成長することができた。

彼女がさりげなく口にする些細な言葉が、大した意味もなく渡してくれる一言が、私から寂しさを奪ってくれた。

理由もなく掴んでくれたその手が、この真っ黒い世界を生きていく温もりをくれた。

それが私にどれほど大きな意味があったのか、どれほど感謝しありがたいことだったのか、彼女は知らないだろう……。

だから、そんな彼女を失うということは、私にはどうしても耐えられないことだった。


この温もりを離したくない。


いつまでもこうして彼女の……明芽の手を握んでたい。


いつか放さなければならないとしても…

今は…まだ握っていたい。


だけど、彼女の温もりを暖かいと感じるほど、私は彼女がいない頃へと戻る自信を失っていった。

今を温かく大切だと思えば思うほど、彼女のいなかったあの頃はひときわ冷たく胸を刺してきた。

今でも私は冷たさを忘れられないままにいる。

温かさを知ってしまったから、その冷たさが孤独であることに気づいた。

そういう孤独に凍え、温かさを知らなかった頃。

両親は私の病院費を稼ぐために、毎晩夜遅くまで働いており、そのせいで時間が経るとともに会える日は少なくなっていた。結局、医師の呼び出しがある日でなければ、遠くから声を聞くことさえも難しくなってしまった。

時折、医師や看護師が静かに部屋に入ることはあったが、言葉もなく私の容態を確認し、機器を整えるだけで、そこには人の温もりのかけらさえ感じられない静寂が漂っていた。


これからはこうして一人で暮らしていかなくちゃならないんだ……。


最初はそれをとても寂しいと感じたけれど、冷たい沈黙が重なるたび、自分の中では「時間」という感覚さえ凍え、いつの間にか「心」というものが意味を失い始めた。

どんな生き物だとしても、使わない部位は退化し、衰えていく。

たとえそれが心だとしても、例外ではないということをその時気付いた。

そうやって考えを止めた私が、過ぎた時間の足跡さえ分からなくなったある日。

堅く閉ざされた病室の扉を開けて、小学4年生となった明芽が探してきた。

それが何年ぶりの再会なのかは、その時は分からなかったが、後で知ったところでは大体2年ぶりだったようだ。

あの日、どういう言葉を交わしたかはあまり覚えていないけれど、明芽は泣いていた。

ただ、ひたすら泣いて泣いて泣き続けた。

理由は教えてくれなかったけれど、聞いてはいけないような気がしたし、何より聞く方法がなかった。

だから、私たちはただ手を繋いでいた。

何も言えなくても、何があったのかさえ分かち合えないとしても、私たちは何も聞かず、ただそうやって繋がっていた。

その日以来、明芽はよく病室に訪ねるようになっ たし、いつの間にか、私は彼女が訪ねる日だけを待つようになっていた。

ずっと暗い空間に閉じ込められていた私を、凍結されていた時間を溶かし、世の中を、そして生きるということを教えてくれた温かさ。

それが私にとっての明芽だった。

明芽がいたから、私は再び生きているという実感を得ることができたし、顔ではなく心で笑えるようになった。

だから、明芽と一緒にあるこの時は、私にとって何よりも大切で守りたいものであった。

だからこそ、こんな私には手に余る欲かもしれないけれど、彼女と繋がるこの時を誰かに奪われたくなかった。


少なくとも今はまだ……私が抱きしめていたかった。


たとえこんな体だとしても、彼女さえいてくれれば、私は笑って生きていける。

生きるのが楽しいと思えられる。

だから、私は明日も生きていきたい。

明芽に出会えるかもしれないから。

この手がこうして彼女からもらった温もりを覚えているから……

分かっている。

生きようとあがく限り、これからもつらく苦しい治療や手術が待っているだろう。

だけどそれでも、私の心が崩れることはないだろう。

だって、生きて待てさえすれば明芽に会えるのだから。


そう。

私には生きる理由がいる。

たとえこんな体だとしても、決して死にたくない理由がある。

生きて、もう一度明芽に出会うこと。

それが私が生きる理由だ。

そのためなら、私は何だって耐えられる。


そう言いながら。

それがどんなに利己的な願いかも知らずに、その日が来るまで、私はその恵まれたすべてを悲劇と呼びながらも当たり前なことのように思っていた。

いつ壊れてもおかしくない日常だったにもかかわらず、ただ耐えさえすれば明日が来るものだと愚かにも信じていた。

それでも暖かい日々はしばらくの間続いた。

まるで永遠に続くかのように、暖かい日だけが続いた。

だけど、限界は突然に訪れた。

まるでこれまでの安逸さを嘲笑うかのように、何の前触れもなく暖かい日常に罅が入る音がした。

その日にかけて、特に明芽の息が荒かった。

普段なら足音を出さない彼女のはずだったが、その日はなぜか慌てて走ってきたように見えた。

いつもとは違う雰囲気に、嫌な違和感が押し寄せた。

空気さえ震えるように感じられた。

きっと、それは彼女の震えだったのだろう。

口を開けた彼女の、不安そうに震える声が、それを確信させてくれた。

彼女が震えながらも私に伝えてくれたのは、私の両親に関することだった。

父は海外出張に出たまま行方をくらまし、

母はそんな父を探して海外へと向かったが、そのまま連絡が途絶えたらしい。

それを伝えた彼女は、それ以上口を動かせずにいた。

けれど、いつものように掴んでくれた手から、震えを通して彼女の不安が流れ込んでいた。


明芽が震えている。


確かに両親のことは衝撃的だった。

だけどそれ以上に、今は彼女の震えを止めてあげたいと思った。

こんな私なんかのために震えたり心配させたりしてほしくなかった。

私は静かに彼女の手のひらを一回叩いた。

できることはそれしかなかった。

私が彼女の手のひらを叩くと、彼女は不安そうにどうしたのと尋ねてきたが、私は静かにもう一度彼女の手のひらを叩いた。

それを何度か繰り返すと、彼女はすぐに私の気持ちを読み取ったかのように私に尋ねた。


「大丈夫だと言っているの?」


彼女の言葉に答えるように、私は彼女の手のひらを一回叩いて肯定の意思を伝えた。

私には、今彼女がどういう顔をしているのか分からない。

あの日、光の彼方へと走り出した彼女が、どんなに素敵な女性にと成長したのかも、その長い道のりでどれほど豊かな表情を学ぶようになったのかさえ、私には知るすべがない。

私の中にいるのは、いつまで経っても結局は過ぎ去った時間のかすかな記憶だけ。

今の彼女のことは、何ひとつ見守ってくれることができない。

彼女の喜ぶ顔も、泣いたり悲しむ顔も、何ひとつ私には見守れない。

だけどそれでも、私は彼女が悲しい表情などはしなくてもいいことを願った。

いつもそう。

たとえ笑わなくても、感情が豊かじゃなくてもいいから、不安がったり悲しんだりしないでほしかった。

たとえ私には見れないとしても、彼女にはいつも笑っていてほしかった。

だから、私はただ一つ残った指を必死に動かした。

私にできることはそれくらいしかなかったけれど。

それでも……

彼女が悲しまないように、こんな私なんかのためにその大切な心を痛めないように。

その細い指で、必死に伝えようとした。

もちろん、私にもそれは突然で、当惑できなことだったけれど、それ以上に彼女が、明芽が苦しんでほしくなかった。

けれど、そんな努力にもかかわらず、その日の彼女の震えが治ることはなかった。

その日、彼女は普段より早く私のそばを離れた。

次の週末、彼女は私のそばには来てくれなかった。


....


そして、その次の月曜日、衝撃的な知らせを受け取った。

連絡が途絶えていたはずの母から、突然、これ以上の金銭支援をしないという知らせが届いたということだった。

そのごにおよんで、ようやく私はこの事態の深刻さをはっきりと気づくことができた。

安易に考えていた。

今はただ、少しの間だけ両親と連絡が取れないだけだと思っていた。

時間が過ぎると、またいつものように戻ってきてくれると、そう都合よく信じていた。

だって二人は親で、私は彼らの子どもだから、親が子を捨てるはずがないから、そう勝手に決めつけて、根拠もない盲信を盲目的に信じていた。


それを決める資格もないくせに……。


勝手に信じ、そういうことは思いも浮かべなかったかのように、驚愕していた。

だけど、すぐにそのすべてが自分の安逸さだということに気づいた。

だが、今にきっちゃ、もうどうでもいいことだった。


両親からの金銭支援の途絶。


今、何よりも重要なことがそれだった。

両親の支援が途絶えるということは、すなわち病院にこれ以上の治療を期待することができないという意味であった。

そして、その日その日の延命治療を通してかろうじて命をつないでいる私にとって、それが意味することはひとつしかなかった……。

それを全部分かっているはずにもかかわらず、医者はそれだけ投げつけてから、静かに部屋を出て行った。

私には、そんな医者を止めることさえ出来ない。

ただ、無力に押し寄せてくる静寂の波に流され、深く沈むだけだった。

最初の何秒間は、頭に銃弾でも撃ち込まれたかのように何も考えることができなかった。

でも、問題自体はそれほど複雑なものではなかった。


金がない。


たったそれだけの問題だった。

だけど、そのたった一つが、私にとってはどうあがき、頭を絞っても、どうしようもないものであった。

果たして、私に金を稼げるだろうか?

それは、こんな私が簡単に手に入れられるほど軽いものだろうか?

いつか、明芽から聞いたことがある。

お金とは、人の価値を買うための価値であり、それをもっとも信頼できる形にした物質であると。

つまり、お金とは信頼であり、人の価値そのものだと言える。

だから、お金を稼ぐためには、人は人から信頼を得なければならない。

資格証も学歴も、すべてその信頼のカテゴリーの中にある。

ならば、そうやって何かを作るための資格証や学歴もなく、それを得るための努力や行動さえもできない私には、一体どんな価値があるのだろう?

いったい、どんな人がこんな私などを信じてくれるというのだろう?


そんなものがあるはずがない。


そんな人があるはずがなかった……。


どうしようもない現実に、頭がぼんやりし、目眩がした。

どうすればいいのか、全然分からない。

誰かに聞きたくても、聞く口さえ無い。

どうしようもなくて、ただひたさら同じ場所の中でさまよった。

それでも前には進めなくて、いつの間にか疲れ、そのまま脳が止まってしまった。

静寂。

その単語が似合う数十秒だった。

だが次の瞬間、全身を駆け巡る強い電流のごとく衝撃に鳥肌が立つと、頭の中にあった静寂は瞬く間に崩れ去った。


気づいてしまったのだ。


それに気づきたくなかったから、どうにか解決策を見つけようとしていた。

それが無意味なあがきだということは分かっていた。

それでも、私は解決策を探そうと必死に頭を回した。

でも始める前から、すでに知っていた。

解決策などは存在しないということを……。

私には何もできないということを……。

それでも、私は考えるのをやめなかった。

何の成果もなく、ただひたすら無意味に脳を酷使させるのを繰り返し続けていた。


だって目をそらしたかったから……。


そんな事実など受け入れたくなかったから……。


だけど、その一瞬、無意識のうちに考えるのをやめてしまったその一瞬、ようやく私はそれを正しく認識した。

もう受け入れるしかなかった。


私、白沢昭真しらさわそうまは今から死ぬ。


今日までかろうじてつかんでいた、その細くてか弱い生命線が今、切れようとしていた。

その夜はあらゆる考えにとらわれ、どうしても眠ることができなかった。


両親からの金銭支援が切られた今、これから私はどうなってしまうのだろう?


一層知らなかったら、少しは気楽になれたのかもしれない。

けれど、私は長い闘病生活の中で、金がない者がどんな扱いを受けるのか、誰よりも近いところで見守れなければならなかった。

どうしてあの時は、自分は彼らとは違うと思ったんだろう?

そんな愚かさを後悔しながらも、ただひたさら目の前の恐怖を消すために祈っていた。

医者は神だ。

少なくとも、他に頼る場所のない患者たちにおいては、救いと癒しをもたらすという点で、ここ、病院から医者とは神に限りなく近い存在かもしれない。

そして、彼ら医者は、そうした患者たちの信頼に応えるため、心を尽くして患者を世話し、まるで神がほどこす慈悲のごとく慈しみ深い微笑で、患者が安心できるよう最善を尽くす。

しかし、私たちは時にとても大事なことを見落として生きている。

彼らが親切にするのは、あくまでも患者に限る。

そう、あくまでも彼ら医者は、患者にだけ親切にすればいいのだ。

そんなこと、何が重要かと言うかもしれない。

自分が痛いとき、助けを受けられれば、それで十分じゃないかと、そう言うかもしれない。


だって、私たちは、痛い人を患者だと勘違いして生きてきたのだから。


確かに、痛いということもまた、その条件のうち一つであることは否定できない。

だけど、病院、いわゆる医療業も結局は業であり、事業の一環である。

腹が減る人に金をもらい、食事を売る食堂のように、病気の人から金をもらい医療サービスを提供する事業であり商売、それがこの時代の病院であり、医者の本質だった。


金がなくても、患者として治療を受けられる世界?

そんな夢物語は、70年前、月とともに幕を降ろしている。


だからこそこの時代、病院は患者に変わらず親切だが、金のない者はもぉ患者ではない。

ネズミと同じだ。

それをハムスターと呼ぶなら、私たちはそれを愛玩動物と呼び、愛情と愛を注ぎながら世話するけれど、

それを野ネズミと呼べば、私たちはそれを汚いと嫌悪し、伝染病防止や食糧保護などの名目の下に、それらを一匹でも多く駆除するために全力を尽くす。

そして、それがハムスターか野ネズミか決められるという点において、やはり医者は神だ。

その時突然と、頭の中に今日の朝冷淡に立ち去る医者の後ろ姿が思い浮かぶとともに、今の私が彼らにとっての何かを改めて思い知らされた。

全身に悪寒が走った。


そういえば、今月の最後の治療は二日後だった。


そしてその頃に、来月の病院費もまた振り込まれる。

つまり、両親からの金銭支援が途切れた今、私が追い出されるのは二日後だという意味だった。

でも病院である以上、私をただ道端に捨てるはずもなかったけれど、

それでもなお、彼らの対応は目に浮かんだ。

まず私を親のところへ送ろうとするけれど、

そもそも私はすでに両親から見捨てられた身。

両親が私を探しに来ることなどあるはずがない。

そもそも海外へと行方をくらましたはずの両親に連絡が届くかさえも未知数だった。

なら、病院側は自動的に私を施設などのところへと送ろうとするだろう。

そして、多分、これはもうすでに決定事項のはずだった。

この時代は徹底的な個人主義と資本主義の時代で、

慈善団体のようなものは、歴史の教科書にしか登場しない遠い夢物語に過ぎなかった。

だから、当然なことに施設で親切に私の病院費を支払ってくれるはずがなかった。

いや、もしかしたらそれ以前の問題かもしれない。

私は病院の医療機器なしでは、一日だって生きていられない。

今この瞬間でさえ、管を通した外部装置を通してかろうじて命をつないでいる状態だった。

だから、私が送られるのは施設などではなく、葬儀場かもしれなかった。

もしかしたら、家族がいない分、そうした手続きさえ飛ばされ、手早く火葬された後、処分されるかもしれないことだった。

結局、遅かれ早かれ二日後には私の命は終わるということであった。

私はまるで超能力者にでもなったかのように、鮮明に未来を見通すことができた。


そうか、そうなんだろうな……。


あまりにも明らかな未来だったので、理解するまでそれほど長い時間は必要じゃなかった。

それでも、そう簡単には受け入れられなくて、走馬灯のように流れる過ぎた時間の中で、ひたすら自らに問い続けた。


私は一体何をそこまで間違えたのだろう?


何をそうも間違えて、こんな目に遭わなきゃならない?


ふと、世界中が憎らしかった。

自らが果てしなくしがなく、哀れに感じられて、そんな自分に怒り同情することを繰り返した。

また、突然自分を捨てた両親が恨めしかったし、また憎たらしく思えた。

だけど、やがて押し寄せてくる罪悪感に、怒りも恨みもその場で挫折した。


一体、私に何の資格があって、彼らを恨めるというんだ?


私という存在が、一体今までどれだけ両親を苦しめていたのかを分かってはいながら、そんなことを抜かすのか!

たかが30代前半の両親なんだ。

孤児院から育てられ、ほかに頼るところもない両親だったんだ。

そんな両親が、言葉さえできない息子なんかのため、10年間休む暇もなく受け続けなければならなかったはずの苦痛とストレス。

それが繰り返され、積み重なる無惨たらしさ。

私では到底測り切れない。

きっとそれを理解すると言いながら、慰めの言葉をかけることさえ、私にはおこがましいことであろう。

心から愛した子を投げ出したくなるほど追い詰められた親の心情を、その痛みを……。


私なんかが分かるはずがない。


ふと幼い頃、転んだ私を優しく抱きしめてくれた母の姿が思い浮かんだ。

どうして今そういうことを思い出したのかは分からなかったけど、この瞬間、私の中は楽しかった頃の思い出であふれていた。

共にはしゃぎ笑いながら川辺で水遊びを楽しんでいた家族の姿から始め、父の手を握り幼稚園から帰る道の上で見つけた夕焼けの思い出や。

遅い夜、星空の下でブランコに乗った私の背中を押してくれた母の姿まで。

振り返ってみたら、楽しいことばかりだった。

それを思い浮かべていると、思わず心の奥深くから微笑みがこぼれてきて、温かくて切ない気分になった。


お二人ともとてもよく笑う人だったんだ。

私たちはあんなにも幸せだったんだ。

どうして忘れていられたのだろう?


その瞬間、あの春の日、花びらを赤く染めながら、桜の下へ埋まっていくあの冷たい景色を思い出した。

その中のどこかで、かすかにひびが入るような音を聞いたような気がした。


ああ……そうか。


流れるように次に思い出したのは、慌ただしく手術室へと運ばれながら見上げたかすかな病院の天井だった。

虚空にはっきりとひびが入るのが見えた。

そのひびはどんどんと崩れ大きくなり、どうしようもなく広がり始めた。


全部、私のせいだったんだ……


私が全部壊してしまったんだ……

何から何まで全部、私のせいで…!


私さえいなければ……

あのとき、私が痛くさえなかったければ……

みんな、みんな!幸せになれたんだろ?!

笑って生きられたんだろ!!


生まれて初めに海を見た日、両親の手を握り、初めて海に足を入れた瞬間を思い出した。


あれも…!


父の肩に登り、秋に染まった楓を撫でた時を思い出した。


あれも!


母と一緒に雪だるま家族を作りながら遊んだ姿を思い出した。


あれも!!


そうやって記憶をたどりながらたどり着いたそこには、父と母が私を優しく抱きしめてくれた瞬間が待っていた。

あまりにも優しく温かくて、なぜか泣きそうになったことを覚えている。

だけど、やがてそれさえひびに飲み込まれ、バラバラに壊れてしまった。


あれも!!これも全部!!!

私じゃなかったら!

他の誰かだったら!!

誰も苦しむことなく、幸せに暮らせたんだろ!!

何から何まで全部、私のせいで壊れてしまったのだろ…

なんで今までそんな簡単なことさえも分からなかったの?

いや、違うよね。

そうだろう、昭真?

お前は全部知っていたんだろ。

そうなんだろ?

全部分かっていたくせに、知らんふりしてきたんだろ!

知らんふりしながら、背けたかっただけじゃないか!

明芽が訪ねてくれる日常に安堵して、それだけで楽しくて、無責任に知らんふり。

私はただの被害者です、何も悪くありません!

そう、自分からを言い聞かせながら正当化しては、ただその幸福を何の代価もなしに楽しみたかっただけじゃないか!!

結局、お前は自分だけ大切だろうな…!

だから、その背後で父が、母が!

どれだけ苦しかったか、全部知っていながらも平気で目をそらし、知らんふりしてこられたんだろう!!!

そうなんだろう?!!!

何が 「 世界中が憎らしかった」だ。

何が「自らが果てしなくしがなく、哀れに感じられて」だよ……

全部お前のせいだろうが!!

死ね!

死ね!

死んじまえ!!!

お前なんか死んじまえよ!!!

なんでもっと早く死ななかったんだよ?!なあ?!!!!

お前さえ早く死んでいたら……誰も……

...

.....

なあ、昭真、頼みがある。

泣いてくれ……

今はもう何もいらないから、泣かせてくれ……

お願いだから、泣かせてよ……


涙の祈った。

どれほど切なく願おうとしても、どれだけ切迫したとしても、結局できることとは願うだけの枯れ果てた祈りだけ。

壊れた身体からは、涙は流れない。


なら、このか弱い祈りにはなんの意味があるのだろう?


どれだけ懇願に祈っても、ただ祈るだけの願いに神は耳をささない。

いつだって奇跡を与えられるのは、自らの足で動き挑戦する者たちだけだ。

祈りだけじゃ、何も変わりゃしない。


ならば、一体私はどうすれば報われるというんだ?

動くことさえ、挑むことさえ許されない私は、一体、どうやったら救われるというんだ?


その答えを得られないまま、その日はただただそうやって終わらない祈りを続けた。

それが叶うはずのない祈りだということは、知っている。


それでも……


ただそれだけが許されていた。


その夜は、祈るたびにうるさくなってゆく心臓の音に邪魔され、どうしても眠ることができなかった。

そうやって長い夜を明かしたにもかかわらず、哀惜にも時間は容赦なく流れすぎ、あっという間に二日が過ぎてしまった。


....


目覚めた瞬間、私は布をかぶされ、断頭台へと引き連れていく死刑囚の心を理解した。

廊下を貫く駆け音が響くたび、冷や汗が流れた。

執行の瞬間が目の前にいるとき、断頭台へと向かうその最期の時間の中で、罪人は何を思い浮かべるのだろう。

後悔し、自らの罪を反省するのだろうか?

それともただ、ひたすら目の前にあるすべてを恨み、見物人たちをあざけるのだろうか?

この時、私は彼らが感じる最期の気持ちを理解した。

解脱したかのように吐き出す反省の言葉も、恨みや怒りが混ざったほぼ呪いに近い嘲りも、すべて虚勢に過ぎないということに気づいた。

今、私の中にあるものは、死にたくないという恐怖、ただそれだけだった。


トガク...トガク...!


遠くから硬い大理石の廊下を打つ角ばった足音が聞こえてきた。

それはどう聞いても普通の足音だったけれど、それでも今日はなぜかそれがより鮮明に聞こえる気がした。

神経が張り出し、聞こえてくるすべてが薄気味悪く感じられ、目眩がした。

耳を塞ぎたくても塞げなくて、ただ耐えるしかなかった。

耳に力が入り、頭が割れそうに痛み始めた。

その瞬間、死がもう一歩、私に向かって近づいてくる音が響き出した。


トガク、トガク、トガク!


次第に鮮明になっていく足音から、あの扉の向こうから何かが近づいているのを感じることができた。

血が凍りつくような耐えがたい恐怖の前に、心臓は激しく荒れ波打ち、発作するように呼吸は不規則に乱れ、歪んでいった。

投身自殺する人は、地面に落ちるより先に恐怖によってショック死すると言われている。

死ぬことより先に死ぬことが怖くて死んでしまうアイロニーな動物、それが私たち人間なのだ。

息ができなくて、意識が遠のいていくその時、改めてそれに気づいた。

そんな最中にも関わらず、胸の片隅では「違う、違うよね、違うはずだろ」とか抜かしながら、避けられない運命から逃れようとしていた。

だけど……

叶えない夢だからこそ、人はそれを現実逃避と呼ぶ。

そして、もうすでにその運命は目の前まで来ている。

もうどこにも逃げることはできない。


トガクトガク、トガク...!.....ドカン!!!


徐々に近づいてくる足音が扉の前で止まった瞬間、まるで爆弾でも地面に叩き込まれたかのような衝撃に、思わず意識が遥かにふっ飛んでしまった。


違う。

そんなはずない。


これらすべてが自分の勘違いであることを願った。

少しの間止まっているだけで、再び歩き出すと、そうなってほしいと心から祈っていた。

だけど、本能的に気づいてしまった。


死神が来た。


足音が消えるとともに訪れた静寂は、まるで心臓を鋭利な刃物で擦り下ろすかのような、身の毛がよだつ感覚を孕んでいた。

そして、目が合った瞬間、静寂は瞬く間に私を深淵へと引きずり下ろした。


いやだ……!


死にたくない……!


悔しさや無念が恐怖と交わり、涙が流れそうになったけれど、壊れた肉身はそれすら許してはくれなかった。

そして、その瞬間、死神が扉を叩いた!


トクッ トクッ、ドゥルルッ!


心臓を直接殴るような重いノックの音と同時に、開かれる扉の音へ、息が止まりそうになった。

いや、もうとっくの前に恐怖のおかげで息は止まっていた。

しかし、それでも扉を開けて入ってくるそれが私のもとへと近づいてくるその足音は、恐怖や緊張感にはまだより高い段階があることを示してくれた。

彼は無心に近づいてきて、私の目の前で立ち止まり、一度沈黙した。

呼吸困難によって耳が遠くなり、脈拍のバイタルが激しく波打った。

しかし、死神はお構いなしに私の耳元へと落ち着いた口調で囁き始めた。


「白沢昭真さんですよね?私は今日、マクドウェル先生の代わりにこれからのことを伝えするため参りました、春咲雪陽彦(はるさきゆきひこ)と申します」


冷たく無味乾燥な男性の声。

それは普段の担当医の声ではなかった。

しかし、ある意味それが当たり前かもしれない。

死刑を宣告するのは判事だけど、その執行を下すのは警察、その中でも末端職の人であるように。

今から追い出そうとする者がどう暴れるかもさえ分からない状況に、大偉い方たちが直接現場に乗り出すはずがない。

汚いことは、権力という大義名分の下で他人にやらせればいい。

だから彼らは、彼らの代わりに私に死を与える代理人を送った。

そして彼は、今死神としてその役割を着実に果たしていた。


「調べた結果、現在昭真さんにおいては医療費の負担が大きい状況であることは理解しております、しかし、病院の方針上、治療費をお支払いいただけない場合、規定により追加入院や治療を継続することが難しくなる可能性があります」


彼は自らの役割を果たそうとするかのように言葉を続けたけれど、残念にも目の前まで迫っている死の前では、もはやどんな言葉も私には届きやしなかった。

彼が何を言おうが、私は……

ただ......ただ......!

生きたかった......!

死にたくなかった......!

こんな体だけど、いつか急に死んでしまうかもしれないこんな体だけど、死にたくはなかった。

まだやってみなかったことたちが、見たこともないものたちが山ほどあった。

何よりも、まだ明芽にお別れを言っていない。


明芽....


幼い頃からずっと一緒で、こんな体になってからもそばに来てくれる唯一な人。

叶うはずのない想いだとゆうことを誰よりもよく知っている、伝えてはいけない想いだとゆうことも分かっている。

抱くすべてが、私にはあまりにも勿体ないもので、それを望むことさえ手に余る欲だということを誰よりもよく知っている。

だからこそ、今まで精一杯自分の心を押し殺してきた。

だから、今抱いているこの感情は、恋人になりたいという出過ぎた恋心でも、一生そばにいたいという贅沢な望みでもない。

私はただ、彼女の声をもう一度聞きたい。

時々訪ねて聞かせてくれる彼女のささやかな物語が好きだった。

彼女の声から時折にじみ出る寂しさに胸が詰まるようになるときもあったけれど、それでも軽く振り払って立ち上がっては、強く生きようとする彼女の声に引かれて、私もまた生きようと誓えた。

だから、まだ……。

まだ死にたくない。

死にたくはなかった。

それがどれほど贅沢でわがままな願いか、今はもう分かっている。

それでも、私は……!

まだ生きていたい。

生きて、たった一瞬だけでもいいから、もう一度彼女に出会って、私の本当の気持ちを……。

最後の別れを言いたい。

生きていたいけど、また昔のように彼女のそばを歩んでいきたかったけど、もうあの場所には戻れないと知っているから……。

私は彼女にちゃんと最後の挨拶がしたい。

今までありがとうだと、もうさようならだとちゃんと伝えたい。

それでいい。

もうそれでいいから。

これ以上欲張らないから……。

もう少しだけ、もう少しだけでいいから私に時間をください。

全部終わりにするから……。

もう一度だけ、彼女を待たせてください……。

私はまだ彼女に何も……何も伝えていないのに……。


「 しかし、病院の方針上、治療費をお支払いいただけない場合、規定により追加入院や治療を継続することが難しくなる可能性があります..... しかし、偶然か運命か、本来ならありえない話だけど……、まあ、混乱を避けるために単刀直入に言います、私の本社、ホワイトペーパーから昭真さんの病院費である30万円を代わりにお支払いしました」


私が混乱する隙もなく、男性は私の手の甲に注射針を突きつけた。

一般的な薬物注射用とは明らかに異なり、中身が見えない機械式の注射器。


「ただし、これは今月限りの取引、次はいない、本来ならありえない話、例外中の例外、すでに満席はとっくの前に超え、あなたにもあの子にも戻るはずもない機会、だから、もしあなたがこれからも生きたいと願うなら、その意思があるとするなら、今度は自分の手でそのチャンスを掴んでみてください」


男性はそこまで言っては、私の手の甲に注射器の中身を注射した。

すると手の甲の中で何かの機械が定着したかのように、皮膚の中でひし形の青いほのかな光が漂い始めた。


「それでは、昭真さん、もしあなたがこの機会を活かすことができたなら、また来月お会いしましょう、幸運を祈ります」


そう言った男性が注射器を抜くと、手の甲の中で機械のようなものが作動し始めたかのように、青いひし形の中から真っ白な円形の光が輝き始めた。

そして同時に、突然頭の中が膨大な光で染められ始めた。


「看護師の真似は疲れる……」


男性がため息とともに再び口を開けたとき、もはや以前のような丁寧さは見つけられなかった。

その声は冷たくて厳重だったけれど、どこかすごく疲れているようにも感じられた。

私が状況を理解するにも前に、男性は言葉を繋いた。


「あの子が突如私のところに来たときは冷や汗をかくしかなかった、まさか今になって再び会うことになるとは思わなかったからな……」


男性は私の精神が完全に吹き飛ぶ前に最後に何かを呟いたように見えたけれど、このときの私には恐怖と混乱、そして何より突然頭の中がどこかへと吹き飛ばされるような感覚のせいで、どうしてもそれを聞き取ることができなかった。


「白沢昭真、まだお前があの子にとってどんな存在であるのか、どんな意味を持つ者であるのかは、あえて聞かないでおこう、だけど、お前に本当にあの子をあそこまで動かせるほどの何かがあるとするなら、お前はこの一か月でそれを証明しなければならない、だから、もし生き残りたいのなら、お前に本当にそういう価値があるとするなら、今度は自分の力で生き残ってみろ、応援はしないまま、待つことにしよう……」


彼の言葉が終わると共に、私の精神は膨大な光に溶け、次元の彼方へとの旅を始めた。

そしてその瞬間、遠い彼方から月を背にしてオーロラに染まる世界を見下ろしていた謎めいた男性は、何かを感じ取ったかのように顔を上げて何かを見つめた。

そのプリズムのような虹色の瞳は、まるで松明のように七色の白炎で揺らめいていた。


「つ...に...んだ、....界...大....提。」


彼は何かを言おうとしたが、激しいノイズによってその意味を知ることはできなかった。



-Say.2.病気.END.

-Next say.新しい世界.

-To be continued....






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