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そのことがあってから和真は、のどかとどうにかなりたいというわずかにあった想いをほとんど全て捨てた。しかしのどかとの交流は続いた。二人は週二、三回一緒に空手の稽古をし、しばしば開かれる道場生間の飲み会で話をし、お互い暇な時にはごくたまに二人でランチをした。のどかが「作りすぎた」と言って手作りの菓子をくれたこともあった。しかしそれは手すら繋いだことのない、清潔な関係だった。
――そうして和真が光龍館を辞め、のどかと別れる時がやってきた。
「明日千歳台で最後の稽古だよね? 帰りに経堂○丁目○○―○番地へ寄っていただけますか? 待ってます」
最後の稽古の前日にのどかからそうLINEメッセージをもらった和真は、(なんだろう)と期待をふくらませた。
当日の夕方、稽古が終わってその住所へ向かうと、のどかが路地に立って待っていた。彼女の背中側にある、三階建ての赤レンガ風の外壁をしたマンションが香山夫妻の住処であるらしかった。和真が自転車を停めると、
「わざわざごめんね、私今日在宅の仕事の締め日でどうしても道場に行く時間が取れなくって」
とのどかが謝った。
何かと思うと、退会の餞別だった。手紙に、鉄製の亀の形をしたキーホルダー。包みを開けてみると、銀色をしたキーホルダーはずっしり重く、冷たかった。
和真はこの後に及んでも何かしらを期待しないではなかったから、ちょっと拍子抜けした。しかしそれでもうれしかった。
「就活がんばってね、それから早くかわいい彼女ができるといいね。別れちゃったんでしょう? 居酒屋の彼女さん」
「ああ、はい」
「良い人が見つかるといいね」
住宅の屋根に狭く切り取られた世田谷の空から、気の早い二月の夕陽が落ちようとしていた。
「でも俺――誰が相手でも香山さんと旦那さんみたいにはなれないと思うんです」
「え? なんで?」
「俺、前にも言いましたけど母の不倫が原因で両親が離婚してて。義理の母は俺に良くしてくれてますけど、自分が幸せな家庭を作るっていうのができそうにない気がするんです」
のどかは真剣にその言葉に耳を傾けた。
「そんなことないと思うよ」
「そうですか?」
「私もね、父と母がめちゃくちゃ仲が悪かったの、私が子供のころからずっと。でも、私自身は旦那と出会って、まあ……仲良くやれてるから」
「本当、仲良すぎなくらいですよね」
「ふふ、そうかな? まあ、ここ最近は微妙な部分もあるけどね。……とにかく、だから親のこととか、本人とは本来関係ないんだよ。逆にそんな経験をしてきた滝口さんだからこそ、家族を大切にできるかも知れないでしょう? だいじょうぶだよ」
そうのどかは結んで、和真の背中をぽんぽん叩いた。