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話が少し前後する。
のどかの夫の悟が光龍館に入会してきたのは和真が大学二年生の時のことだった。
悟が入会したのはもちろんのどかに勧められたからで、他の大人の道場生たちからは「仲がいいんですね」とよく冷やかされていた。
美人の部類に入るのどかに対し、悟は背こそ高いがパッとした見た目をしていなかった。アリクイを思わせる気の抜けた面長の顔に黒縁めがねを掛け、髪はしゃれっ気なく短く切って、着ている服もユニクロやイオンの洋服売り場で買い揃えているような、安っぽい感じだった。齢はのどかより五歳ほど上で、元々職場の同僚だったらしい。
空手の実力も、いかにも中年に差し掛かった男性が、普段動かしていない肉体を久々に運動させているといった感が否めなかった。技のスピードが無く、四肢のバランスが悪い。それでもまあ、妻に引っ張られる感じで練習にはいちおうそれなりに取り組んでいた。
悟の入会後のある時開かれた道場生間での飲み会で、和真は悟とのどかと一時的に三人で飲んだことがある。
その時は座敷で道場生たち皆で飲んでいたのだが、どういうわけか途中香山夫妻と和真しか近くの席にいなくなった時間帯があって、和真は二人を相手にしばらく飲んだのだ。
和真と向かい合って、香山夫妻が横並びに並んで飲んでいた。すると何かの拍子に、悟がのどかに向かって、
「ほら、横行っていいよ」
と言い、空いていた和真の左隣の座布団を指し示した。
「なんで?」
のどかがそう返した。ずいぶん飲んでいて、顔が赤い。
「行きなって」
悟はしつこかった。
和真は気まずさを覚え、なぜ悟がそんなことを言い出したのか測りかねていた。しかし酔った勢いもあって、そう言われるのがいい気でもいた。この頃にはのどかと和真の仲が良いことは道場内で周知の事実で、悟も知っていた。
(そりゃあこんな冴えないおじさんより、俺みたいな若い男の方が香山さんだって良いだろう)
くらいのことは思い、うぬぼれた。東京暮らしで経たいくつかの女性経験が、和真の男女関係に対するモラルを悪化させていた。和真はのどかがこちらに来るのを密かに待った。するとのどかは、
「いいから」
と言って、隣の座卓の下にあった夫の手を取った。
それからのどかは悟に少し甘えながら、良く馴染んだ夫婦でしか持ちえないような阿吽の呼吸の会話をはじめた。
(こんな夫婦がいるのか)
和真はそれを黙って眺めながら思った。てっきりのどかの方でも自分に好意を抱いてくれているのでは、と思っていたのだが、のどかは実際には悟一人だけをきちんと愛していたのである。そうして悟もしっかりそういうのどかを受け止めていた。子供のころ実母が不倫して父と離婚した和真にとって、それはあまり見たことのない「仲睦まじい夫婦」だった。
和真は嫉妬に近い感情を覚えた。悟その人にではなく、このいかにも幸せそうにしている香山夫妻の関係性に嫉妬を覚えたのだった。