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のどかと知り合ったのは五年半前、和真が大学に入学したばかりの春だった。
栃木の田舎町から上京した和真は、高校時代習っていた空手を大学でも続けようと思い、住みはじめた世田谷近辺で空手道場を探しはじめた。煩わしい上下関係が嫌いだったので、大学の部活やサークルには入らなかった。そうして見つかったのが光龍館空手道クラブだった。
光龍館は世田谷区で運営されている空手クラブである。定まった道場を持たず、世田谷区内の小中学校の体育館や公民館の集会室を曜日ごとに借りて稽古を行っている。それぞれの稽古場の近所に住む子供たちと、その親たちを中心に会員が形成されている、のんびりした町道場だ。アパートの近所で運営されているからという安直な理由で、和真はここに入会した。
確か入会して二度目の稽古だったはずである。日曜日の午前中に、世田谷の松原という地区にある地区会館の集会室で、その日の光龍館の稽古は行われた。
若く体力に溢れ、高校時代に他流派の初段を取得していた和真にとっては、いかにも物足りない全体練習が終わった後だった。集会室の隅で熱心に基本稽古の復習をしている、若い女性の白帯道場生が目についた。もう練習に飽き、立ち話などしている道場生が周りにいる中で、その女性は黙々と稽古を繰り返していた。
和真は前日参加した別の稽古場での稽古にもその女性がいたことを思い出した。
(若いな。二十三歳くらいかな)
実際にその女性はそれくらいの齢に見えたのだ。
和真は高校時代から女性に対して積極的な方だった。自分の容姿にもそれなりに自信がある。その女性が練習を終えるまでそれとなく待ち、声をかけた。
「香山さん」
「はい」
「この後良かったらお昼一緒に食べませんか」
のどかはちょっと戸惑ったようだった。しかしすぐ、
「いいですよ」
と返してきた。
地区会館を出、長閑な住宅街を二人歩いた。和真は乗ってきた自転車を押していた。のどかはバスに乗ってきたということで自転車などは無い。この時のどかはミディアムヘアーを茶色に染め、軽くパーマをかけてウェーブさせていた。その髪型がいかにも東京の女性らしく、和真にはあか抜けて見えた。
歩きながら何を話したか、それはもう和真の記憶にほとんどない。ただ間違いないのは、並んで歩いている途中でのどかが、
「滝口さんはお若いですよね? おいくつですか?」
と聞いてきたことだ。
「十九です」
「はあ……お若い」
「若いって、香山さんは何歳なんですか?」
和真がそう聞き返すと、
「二十九です」
と答えが返ってきた。
(二十九!?)
和真は驚愕した。東京の女性恐るべし、と思った。そうしてなんだか自分がひどく的外れなことをしているような気がしてきた。
道脇にあったこじゃれた中華料理屋に入った。話を聞くと、のどかも光龍館には先日入ったばかりだという。格闘技を習うのは初めてで、自分は運動神経が悪いから不安だらけだと言った。和真が高校時代に栃木の道場に通っていたことを話すと、これから色々教えてね、とのどかは明るく言った。
「でも、香山さんすごいですよ、あんなに個人練習がんばって」
お世辞でもなく和真が言うと、のどかは「そんなことはない」という意味のことを言って、恥ずかしそうに左手で鼻の頭を掻いた。するとその薬指には結婚指輪がはまっていたのである。
(やっちまった!)
和真は思った。
(……やっちまった)
やっちまった、やっちまったと、しばらくそればかり心の中で繰り返した。人妻を食事に誘ってしまったのは初めてのことだった。
若者らしい初心さからくる罪悪感に包まれて、後はほとんどしどろもどろに会話した。「香山さん、ご結婚されてるんですか」ということすら気まずくて聞けなかった。
食事が済むとのどかがさっと伝票を取って、二人分会計してしまった。和真はひたすら慌てふためいていた。
料理屋を出てしばらく歩くと、標識だけが立っているバス停があって、のどかはそこからバスに乗って帰ると言った。
「そうですか。あの、ごちそうさまでした」
和真はやっとそれだけ言って、自転車に乗った。途中振り向くと、のどかはバス停のそばに立って、こちらに軽く会釈した。