コロナ禍でこの国が大騒ぎをしていたころの話である。
「とにかく、今日はもう帰ってくれるかな。お互い家庭が第一だって、前から話していただろ?」
リビングのテーブルに対面して座っていた男が頑としてそう言うので、彼女は(そっちから始めたことだったじゃない)と思いながらも面と向かってはそうも言い返せず、男の家を出た。狭い駐車場に停めていたミニサイクルに跨り、ペダルをワーッとこいで自分のマンションに向かってめちゃめちゃに疾走した。
数日前に男が機嫌よく「今度の勤労感謝の日、奥さんと子供が午後から二人で出かけるんだ。俺もちょうど一日暇だし、予定が無いならうちに来ない?」と電話をかけてきたので、この日彼女はベイクド・チーズ・ケーキを焼いて保冷バッグに入れ、それを手土産にのこのこミニサイクルに乗って出かけたのだった。
それがいざ男の家へ行ってみたらこの始末である。男の家を出た彼女はミニサイクルに乗りながら若干涙を零しそうになった。しかし泣くには彼女はいささか齢を取りすぎていた。
男の家は杉並区浜田山にあって、彼女の住むマンションは隣区の世田谷区経堂にある。浜田山からおおよそ真南に四キロほど南下した地点が経堂で、これら二つの街の間には「鎌倉街道」という名前だけは立派な道路が南北に通っている。経堂に行くためにはこの街道を南に向かう必要がある。彼女はこの通りを走った。
通りは車通りの少ない、左右に住宅が建ち並ぶ静かな道である。浜田山からしばらく南下すると、街道はぐっと下り坂になって、最も高度が低くなったところで神田川にぶつかる。神田川は東西に流れていて、鎌倉街道はその上に小さな橋となって交差している。川の両岸には歩道が敷設されており、その端に植えられた桜並木が、赤く色づいた葉を路面に散らせていた。彼女は橋を渡った。
――と、彼女から見て橋の奥側の川の歩道の、上流の方で、なにやら人が騒いでいた。彼女は自転車を停めた。
見ると、歩道の、橋から少し離れたところに相当な齢の老人が仰向けに横たわっていて、それを二人の男性が「だいじょうぶですか!?」などと言いながら抱き起こそうとしているところだった。老人は「だいじょうぶ……だいじょうぶ」と言っているようで、そばにもう一人、若い女性がスマートフォンで救急車を呼んでいる様子も見えた。その手前では、スーツ姿の青年が川の柵の上部に前腕の両肘のところまでを置き、こちらは騒ぎを気にせずぼんやり川面を見下ろしている。
この場に出くわした彼女は状況を見て、一瞬自分も救助に加わるかどうか迷った。しかし既に複数の救助者がいて、救急車も呼んでいる、それによく見ると老人は意識がはっきりしておりそこまでの緊急性も感じられない。このまま行ってしまおうと思った。そうしてペダルを再び漕ごうとした時、スーツ姿の青年がこちらを向いたのである。目が合った。青年はマスクをしていなかった。彼女はすぐ青年のことを思い出した。
「滝口さん?」
思わず声をかけていた。