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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

メビウスのタイムリープ

作者: 美月木壱
掲載日:2019/10/23



「安いと思うがな」

 都内某所の小さな喫茶店。

 人がいない寂れた店内で、制服を着た少女が向かいに座る青年に冷たく言葉を叩きつけている。

「一分で一万、一時間なら六十万」

 慄く青年の前で少女は指を一本、二本と出し、明らかに法外な金額を言い渡した。一見援交のようにも見えるが、真向いに座る青年はそんなものに手を出せるような身なりをしていない。少女の指先を恐ろしいものを見るように眺め、増えていく数字をただ呆然と聞いている。

「二時間で百二十万。お前が求める『時間』は——」

「わかってる。二週間と八時間だ。計算したよ……払えるわけがない」

 青年は肩を落とした。

「二週間で二億と百六十万だ……なあ、本当に前借はできないのか?」

「できない」

 少女は一瞬も間を置かずに答える。

「そもそも時間を巻き戻すなんて法外なこと、代償もなしにできると考える方がおかしい」

 どこにでもある喫茶店で、少女はあまりに非日常的なことを口走る。しかし、青年は顔色ひとつ変えなかった。 

「本当に心から願うなら、二億なんてはした金だ。そうは思わないか。明石」

 明石、と不躾に呼ばれた青年は、少女の言葉にさらに頭を抱える。

 量販店のパーカーにズボン、駅前のセールで買ったリュック。二億百六十万という桁違いの金額を払うには、彼の格好はあまりにも貧相だった。借金をしたってそんな金額にはならないだろう平凡な青年が、なぜ二億もの金を求められているのか。

「その二億でお前は二週間の時を遡ることができる」

 少女は表情筋をまったく動かさない。当たり前のことを何度も言わせるな、と表情に滲み出ていた。

「そうすればお前の婚約者が事故で死ぬのを回避できる。答えは簡単だろう」

「うう……」

 青年は目をぎゅっと強く瞑った。

 青年が少女と出会ったのは、今からつい一週間前のことだ。

 婚約者をバイク事故で失い、失意のまま廃病院の屋上から飛び降りた青年に、不躾に話しかけてきた少女がいたのだ。飛び降りてもギリギリで一命をとりとめた青年に、彼女はこう言った。

「お前には、何物にも代えられないものがあるだろう」と。

 そして、実際その通りだった。


 「……確かに、有希子の命には代えられない」

 洋楽が流れる中で、青年は葛藤の末にそう絞り出す。

「今週の土曜までに二億、必ず持ってくる。それで俺を二週間前に戻してくれ」

「四日後か。どうやって金を用意するかしらんが、持ってこれたら必ずやってやるよ」

 少女は太々しく宣言する。

 四日後、同じ時間にこの喫茶店で。そう約束して、青年は頭を抱えふらふらと街に出た。もちろん二億もの金の当てなんてないから、この後どうすべきかもわからない。


 青年はもともと医療機器の営業の仕事をしていた。だが婚約者がバイク事故で急逝してからは仕事も辞め、貯金だけで生活している。その彼が二億を手に入れる方法とは。

「これしかない……」

 青年は思い詰めた表情で包丁を握っていた。右手には包丁、左手にはモデルガン。

 彼は銀行強盗を計画していた。

 今の彼がたった四日で億単位の金を手に入れる方法など、犯罪を犯す以外にはなかったのだ。

「なに、大丈夫だ。何をしたって時間さえ戻れば帳消しなんだから……」

 青年は包丁をリュックに仕舞いこみ、モデルガンをコートの中に隠して外に出た。顔を隠すための装備はマスクだけである。とても銀行強盗に行くとは思えない適当な恰好だが、必死すぎて彼はそのことに考えが及ばなかった。


・・・


「金を出せ!!」

「きゃあああ!」

 青年はモデルガンで受付の女性を人質に取った。BB弾しか発射されないただの玩具でも、包丁と一緒に出すとそれなりに効果はある。その場にいたほとんどの人間が青年に恐怖の目を向けた。

「五千万……これだけか!?」

「て、店頭にあるのは……ひいいいっ」

 五千万じゃ到底足りない。

 けれど、もう引き返すことはできない。

 焦った青年は躊躇なく、包丁を受付の若い女性に向けて振り下ろした。

 包丁の切っ先が受付の女性の柔らかな首に刺さり、ずぶりと肉を裂いて血が吹き出る。たちまち銀行に悲鳴が何重奏にも響き渡った。受付の女性は少しだけ蠢いて、すぐに絶命する。

「美濃さん! 美濃さん!」

 銀行の店長が叫ぶ声を煩いと怒鳴り、青年は携帯を店長に渡す。

「……これで警察に連絡しろ。そして金を持って来させるんだ。二億……いや、三億」

 慌てて携帯をかける店長を見張りつつ、青年は女性にちらりと視線を移す。

 首からどくどくと血が流れ、光を失った瞳が人形のように青年を映している。目元のほくろが印象的な女だった。だけど、有希子には遠く及ばないなと彼は思った。

 金の他に逃走用の車を要求した。

 客として来ていた赤ん坊を人質に、赤ん坊の母親とたまたま居合わせた女子高生に先導させ銀行を出る。車に乗り込み、人質を伴って出発。青年は赤ん坊に血塗れの包丁を突き付けるのに忙しかったので、運転は母親にさせた。

 恐ろしいほど慎重な運転の車内で、青年はこれからを考える。大丈夫、時間さえ戻れば。

 人形のガラス玉のような目。

 今さっき殺した女の瞳が蘇り、青年は今更のように吐き気に襲われる。赤ん坊と包丁を抱えたまま前のめりに嗚咽し、隣で警戒していた女子高生が叫んだ。

「ちょっと!赤ちゃんが!」

 その叫び声に呼応して、ふああと赤ん坊がぐずり出す。張り詰めた糸のような空気に満ちた車内で、青年はパニックに陥った。

「おい……おい! 静かにしろ!」

「赤ちゃんにそんなこと言っても意味ないわよ!」

「うるさい!」

 包丁を女子高生に向けると、女子高生はヒッと息を呑む。

 緊張と恐怖で極限状態にあるのだろう、運転している母親の息遣いも荒い。それが明石には耳障りで仕方がなかった。

 金を持ってしばらく逃走し、待ち合わせのカフェの近くで停めさせる。まるでランチ前のジョギングのような気安さで、明石はその場の人質全員を殺した。

 その後服を着替えたり身体を洗ったりして、何食わぬ顔で待ち合わせのカフェに行く。カフェにいた少女は、様子がおかしい明石を見ても特に何も言わなかった。

 目視だけで紙幣の数を数え、今時珍しい卓上電卓をカタカタと鳴らし始める。

「一日分が千四百四十万円と計算して、っと」

 その様子を青年はそわそわと待っている。

 やがてタイピング音が止まり、

「よかったな。戻れて」

「それじゃあ……!」

「持ってこれたら必ずやると言ったからな」

「はい……え、でもどうやって」

 青年には答えず、少女はガタリと椅子を立った。テーブルを回り込んで近付いて来る。病院の屋上とはやり方が違う。青年は思わず目を瞑りかけ、そして。

 次の瞬間、会議室にいた。


・・・


「この資料を見ていただければわかる通り、弊社の業績は……」

 スーツを着た男が何かしらのプレゼンを行っている。暗い会議室はしんと静まり返っていて、変な洋楽の代わりに、空調の音が支配している。

「……っ!?」

 明石は驚いて声を上げそうになった。最初からそこに居たかのように、誰も自分がここにいることを怪しんでいない。

 こんなことが。本当に。

「この企画を行った場合弊社に齎せる利益につきましては、次のページを……」

「……あっ」

 青年は思い出した。そう、これは新事業の企画プレゼンだ。二週間前、彼が婚約者の事故を知ったその日、部署合同で行われたもの。

「本当に……戻ったんだ……なら、有希子はまだ」

「どうしました?明石さん」

 青年は時計を見る。暗くてよく見えないが、時刻は午後一時二十分を指していた。

 婚約者の有希子が事故に遭ったのは二時半。一時間後だ。今からなら間に合う。

 青年はその場を飛び出した。明石さん!?という驚いた声は無視して。


 タクシーを拾い出来るだけ飛ばしてもらったので、明石は事故現場である渋谷に三十分も早く着くことが出来た。

 まだ事故が起こった様子はない。間に合ったのだ。それで安心したのか、乗車料金を払いながらも明石の頭にはある一つの疑問が浮かんだ。

 有希子の職場は東京だが、結婚が決まった後有希子は退職している。だからこの時有希子は、本当なら千葉の新居にいるはずなのだ。

 事故の後はあまりにもいっぱいいっぱいで考える暇すらなかったが、よく考えれば不思議だ。

 一人で遊びに行くタイプでもないし、友達と遊びに行くなら一言そう言ってくれるはずだ。

考えればキリがない。もちろん言う義務があるわけでもないが、腑に落ちないままだ。

「有希子!」

 とりあえず叫ぶ。

 だが、周りの何人かにちらりと視線を向けられただけだった。

 腕時計を見た。二時五分。まだかなり時間はある。

 焦るな、と明石は自分に言い聞かせた。

 三十分なら、電車でもかなりの距離がある。今渋谷にいないかもしれない人間の名前をいくら呼んでも意味がない。

「……あ、そうだ」

 明石はスマホを取り出した。

 有希子に連絡するのだ。渋谷に来るなと、そう言えばいい。

 通話アプリを起動した。チャットでも良かったが、声を聞きたいと思った。仕事中の時間だが、急に話したくなったと言っても有希子は嫌がらないだろう。

 しばらくコール音が続いた後、相手が出る。

『もしもし? どうしたの明石君』

 その声に、胸がいっぱいになった。もう二度と聞くことはないだろうと諦めていた声。

 叫びだしたくなるのを抑え、出来るだけ冷静になるように

「有希子! 今渋谷にいるか?」

『……なんで?』

 久しぶりに聞く有希子の声は、不穏と疑念に染まっていた。

 平時なら不思議に思うその声も、今は愛おしくて堪らない。有希子、と声をかけようとしたその声が不躾に遮られる。

『なんで渋谷にいるって知ってるの……?』

「え、今渋谷にいるのか!?」

 明石は慌ててあたりを見回した。もうどこかに居るだなんて思わなかった。

「駄目だ有希子! とにかくそこは駄目だ! 早く帰って!」

『……』

 だが、答えはない。

 その沈黙に嫌な予感を覚え、明石は焦った。何故何も言ってくれないんだ?

 急に電話したからか? 不安になり声をかけようとすると、不意に受話器の向こうがざわざわとし始めた。電話を誰かに代わっている。

「有希子……?」

 友達と一緒にいるのか?

 不穏な気持ちのまま、もう一度呼びかけようとした時に、その男の声は聞こえた。 

『あの、有希子さんの旦那さんですよね?』

「え」

『初めまして。僕、有希子さんとお付き合いさせていただいてる武本といいます』

 何を言われたのかわからなかった。

 お付き合い?

 武本、って誰だ?

『僕達のことをご存知だったなんて知りませんでした。もう……隠してはいられないようですね』

「な……何を、言って」

『せっかくですから、お話しましょう。どこにしましょうか?』

 そこでようやく、明石に思考が戻ってきた。

 今、有希子が渋谷にいるのって。まさか若い男と二人きりなのか?

 膝から下の力が抜ける。身体中から体温が抜けていくようだった。それなら自分はいったい、何のために強盗までしたんだ。

『あの……大丈夫ですか?』

 無遠慮に声をかけてくる武本に殺意を覚える。そして気づけば明石は口走っていた。

「……玉川通りのファミレスに」


 そのファミレスに三人の男女が入店して束の間、店内は只ならぬ空気に包まれた。

 事情を知らぬ者でも明らかに感じ取れる殺意を放っている男が入り、続けてどこか居た堪れなさそうにしている男女が入店する。別のグループかと思いきや、三人は同じ四人テーブルにつき、二人と一人に分かれて座った。

「……どういうことだ有希子……」

「ごめんなさい」

「謝ってほしいんじゃない!」

 本気の怒鳴り声に、近くの客がびくりと肩を震わせる。だが明石は周りのことに構っている暇などなかった。

 目の前には、ほんの十分前まで婚約者だと思っていたはずの女。その右側に図々しく座っているのが、彼女と「お付き合いしている」と言ってのけた武本という男。

「どういうことだ!? 冗談だよな!?」

「怒鳴らないでよ……」

「有希子!」

 いよいよ激昂し殴りかかりそうな明石を、男が制する。

「すみません、僕が悪いんです。有希子さんに婚約者がいるのは知っていて……」

「タケちゃん! 違うよ!」

 タケちゃん、と有希子がそう呼んだことに、明石は大きな打撃を受けた。まだ自分をそう呼んでくれたことはなかったから。

 そんな明石の気も知らず、二人は茶番を繰り広げている。

「誘いに乗っちゃった私が悪いんだから! タケちゃんは悪くないって!」

「いや、君は二人で食事するだけだって思ってたんだろ? けど僕は……」

 バンッ、と明石はテーブルを殴った。

 手がジンジンと痺れる。痛かった。目の前の女のためにこんなに痛い思いをしたのかと思うと腹が立って仕方がなかった。

 まさか、有希子がこんなに自己中で魅力のない女だとは。可愛いと思っていた顔も、別にありふれたどこにでもいる顔だ。

「……もういい」

 固まっている二人に、明石は必要最低限の言葉を投げかける。

「お前みたいな女のために頑張ってたなんて馬鹿馬鹿しい」

 それに対し何か言おうとした有希子を、隣の男が遮る。

 自分達に何か言う権利はないということだろう。それすらも彼らの自己陶酔で、悲劇の主人公を気取っているだけだということは、明石にもわかっていた。

 出て行ってくれ。

 空気を察したのか、有希子が立ち上がる。

「ええと……もう会うことはないと思うけど、今までありがとう。部屋は私が片付けとくわね」

「ちょっ、有希子さん!」

 相手の気持ちを考えない一方的な離別宣言に、男の方が焦っていた。

 そんなことする必要ないのに。もう明石は、有希子などどうでもいい。ただ早く視界から消えてくれ。それだけだった。

 去る二人の後ろ姿に目を向ける。もう想いなどないとはいえ、かつては婚約までした女だ。これで見おさめになるのだから、見るだけでも見ておこうと思った。

「……?」

 どうも様子がおかしい。

「なんだ? なんか騒がしいな……」

 ファミレスの入り口で二人が慌てている。入れ違いに店に入ってこようとしている誰かから逃げようとしているのだ。

「何してるんだ?」

 呟いた瞬間だった。

「きゃあああ!」

 誰かの叫び声が響いて、そちらを見てみれば、目の前で有希子が血を噴き出し倒れたのだ。

「……ッ!?」

 ソファから立ち上がる。

 怒号が。

 絶叫が。響いていた。立ち上がった明石は、目元のほくろが印象的な男に胸を刺され斃れた有希子を直視する。

 有希子の人形のような瞳を見て一瞬目眩が襲い、そして。

 次の瞬間、銀行にいた。


・・・


「きゃあああ!」

「美濃さん! 美濃さん!」

 電灯の光の色が違って、まず一番に感じた違和感はそこだった。

 何かおかしい。そう感じた瞬間、絹を裂くような悲鳴が何十にも響き渡って、鼓膜を不快に振動させる。

 寝起きに大音量の音楽を叩き込まれた時のように、明石はその場で飛び上がった。

「な……えっ!?」

 咄嗟のことで状況が呑み込めず、明石は露骨に狼狽えた。

 たくさんの視線が自分に注がれていた。空気の匂いが変わっている。料理の匂いで満たされていた空間が、無機質な紙の匂いに変わっていた。

「銀行……!? なんで」

「美濃さん! 美濃さん!」

 銀行の支店長が叫ぶ。美濃さんと呼ばれた女性は、明石の腕の中で首から血をどくどくと吐き出し、少し蠢いた後息絶えた。

「……あ……!」

 ガラス玉のような瞳を直視し、明石はこの場所を思い出す。

 けれど、何故? 何故今、この場に戻った?

 説明と救いを求め、明石は辺りを見回した。

 有希子への想いが失われた今、これ以上何かしようという気にはならない。だが、ここで捕まるわけにはいかなかった。

 だから。

「……これで警察に連絡しろ。そして金を持って来させるんだ。二億……いや、三億」

 結局、明石は同じ行動を取った。

 客として来ていた乳飲み子の母親と女子高生を人質に、銀行を出る。警察に車を用意させ、自分に言い訳しながら母親に運転させたところまで、そっくり同じだった。

 ふああ、と赤ん坊がぐずり出す。一度あったことなので、明石は今度はパニックに陥らなかった。赤ん坊の柔肌を突き破ってしまわないよう、細心の注意を払い体勢を変える。

「……」

 明石にはどうしてもひとつ拭えない違和感があった。

 それは一緒に連れてきた女子高生だ。「以前」は、彼女はただ怯えるだけで、赤ん坊に突きつけている包丁を何度も気にしていた。どこにでもいる女子高生だったのだ。

 だが今度はどうだろう、毅然としていて、表情は乏しく一言も話さない。同じ人間とは思えなかった。

「お前……」

「美濃雄一郎」

「!?」

 女子高生の声は、あの時の少女のものだった。


・・・


「二週間前有希子を轢いたのは、今お前が殺した女の父親、美濃雄一郎だ」

「あ……貴女、な、なんで」

「この時間から二週間後、美濃は過去に遡り一ヶ月前のお前を殺しに行った」

「……!?」

 息が止まる。

 今放たれた言葉をどうにか呑み込もうとして、けど呑み込めなかった。単語や文法はわかるのに、言っている意味がまったくわからない。

 赤ん坊はいつのまにかぐずるのを辞めている。すやすやと眠り出した赤ん坊を抱きなおして、明石は口をあんぐりと開けたまま少女の言葉を聞いていた。

「お前がさっき殺した受付の女の父親が、お前の婚約者の敵なんだよ」

「ど……っ!」

 ようやく声が出た。

「どういうことだ!」

 包丁を少女に向けて叫ぶ。だが少女にとってそんなもの、玩具でしかないようだった。

 その顔が凄絶に歪む。

「今から二週間前。気付けのために酒を飲んでいた美濃雄一郎は、渋谷の玉川通りで有希子とデートしている別の男の後姿をお前だと勘違いした」

 二週間前、玉川通りで有希子は武本とデートしていた。

 美濃雄一郎は、復讐相手である明石の家族や恋人のことも当然調べていたが、有希子が浮気をしていたことまでは知らなかったようだ。

「そして男に突っ込んで行ったが、運悪くか、死んだのは有希子だけだった……これがお前のいた世界での事故の真相」

 なんでもないように言う少女に、明石は気圧される。武器を持っているのも、人質がいるのもこちらなのに、何故か強者を前にしている気分にさせられる。

「今度の時空では違ったんだな。お前が二人を呼びつけたから、美濃はバイク事故じゃなく直接襲うことにした」

「な、んでそれを……」

 もう明石はわけがわからなくなっていた。

 足を組み、少女は前を向く。

「お前が銀行強盗をしなければ、有希子が死ぬこともなかった。だがお前は有希子が死を回避するために銀行強盗をしたんだ」

 さらりと言われたその台詞の意味を明石が理解するまで、少し時間がかかった。

 全てのものごとには原因と結果が存在する。それは常に一方通行で、本来逆が生まれることはない。

 だが、ここに時間を巻き戻すという異常な要素が「二度も」加わってしまったことで、原因と結果がメビウスの輪のように絡み合ってしまったのだ。

「どう足掻いてもお前は有希子を殺す。有希子が死に続ける限り、お前はこの車に乗り続けることになる」

「待っ、待ってくれ!」

 明石は叫んだ。

「何言ってんのか知らないが、俺はもうあんな浮気女どうでもいい! だから、次に戻ってももう時間を遡ったりはしない! 下ろしてくれ!」

 次に「どこに」戻るのかは、明石にもわかっていない。だが、これは真実だった。

 恋の病から目覚め、胸に過ぎるのは後悔ばかりだ。時間が戻り全て元に戻るとはいえ、二度も人を殺したのは事実なのだから。

 明石は急いで車のドアを開けようとして、そして気付いた。

 いつのまにか赤ん坊がいなくなっている。

「!? どこに……!」

 はっと運転席を見たら、そこは無人だった。一瞬呆気にとられた後、明石はパニックに陥る。車は問題なく走っているのが恐ろしかった。

 車の中には少女と明石だけ。やけに静かな車内で、少女は嗤う。

「下りられないよ、明石」

 獲物を捕らえた蜘蛛のようだった。

「終わりなき時空間の旅路で狂気に溺れるといい」

 意味は相変わらずわからなかったが、そのあまりの恐怖に明石は失禁までしそうになった。

 何故、という思考がぐるぐるとまわる。こんなのあり得るわけがない、非現実的だ、と思いかけて、そもそも時間を戻すということ自体本来非現実的だということに思い至る。

「君は……何者なんだ……」

「私は『並行世界』そのものだ」

 少女は長い髪をふわりとかきあげて囁いた。

「人間が時間を遡った数だけ、私は生まれる。私は私の個体数繁殖のために、出来るだけ多くの人間を過去に遡らせる義務がある」

「……はあ?」

「だけどたまにお前のような奴が生まれるんだよ。無自覚にタイムパラドックスを生み出してしまうような奴が」

「だ……だったらなんなんだ!? もう遡らないって言っただろ!」

 怒鳴る明石を、少女は一瞬憐れみの目で見つめる。

「けどお前は同じことをした。有希子が守るに値しない存在だと知っても、同じように赤子と母親を人質にした」 

「ちょっ! おい! 消えないでくれよ!」

 少女の輪郭が薄くなっていることに明石は気が付いた。下半身が既に無い。上半身だけで、少女はいきなり年相応の、恋に破れた少女のような顔付きになる。

「まあ人間なんてそんなものだ。あまり気を落とすな」

 そして蝋燭の灯が消えるように、ふっと車から消えた。

 本当にたったひとりきりになった車内で、明石は恐ろしいものを見る。自宅近隣を走っていたはずの車はどうしてか渋谷の玉川通りにいて、車はまるで坂道を転げ落ちるかのように豪速で疾っているのだ。

 また悲鳴だ。

 車体を隔ててもわかる悲鳴をバックに、無人のアクセルは角度を踏み込んで速度を上げる。

 その車をどうにか止めようと、明石は運転席に乗り込んでハンドルを掴んだ。ブレーキを踏もうとした時、目の前に見知った顔が現れる。

「有希子」

 と、隣を歩く武本。

 車はまっすぐ有希子の方に走っていく。ブレーキを踏めば今なら間に合う。けれど明石は、その時だけ都合良くブレーキの存在を忘れてしまった。有希子があまりにも、あまりにも幸せそうな顔をしていたから……そして、衝撃。

 ゴムまりのように跳ねた有希子の視線が運転席を貫く。

 幸せの残滓を残した瞳は黒く透き通っていて、まるで人形のようだった。


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