・『4』
ある程度の知能の高さを持つイルカやチンパンジーは同性愛に及ぶことも多い。
これは生存環境によって、子孫繁栄にとって必要な性交渉における男女という垣根以上の効果を及ぼす『個』としての特性、個性である。
しかしながら、もっとシンプルな生き物においては、オスとメスの遺伝学的な性交渉が多い。
これは生物的に性別とその目的を理解しているからである。
同性愛に比べて異性愛が率直な帰結であるということは、やはりというか、当然では有る。
脳かホルモンか、何によって生じるのかを問わず、微細な感情が生じる、ありがちな精神状態である。
「それって恋じゃん」
「わかってるよ……まさか、女になっただけであいつを好きになるなんて思わなかったんなぁ……」
そんな講釈で解決するものは何もない。
窓越しにイワシ雲は無責任に流れて行くのを眺めていても変わらない。
終わりに近づいた昼休憩の中で、結論は出ないが、出さなければならないだろう。
「で、どうするの? キョウちゃん」
「どうする、っていうのは?」
「女の子になるの? 男の子に戻るの?」
男になれば、変わらず野球をする。“変わらず”
女になれば、野球に対する者は変わるかもしれないが、この気持ちを失わずに済むだろう。
そもそも、この気持ちは、性別が男にすれば消せるものなのか? 同性愛はチンパンジーやイルカでも見られる。人間が人間になったところで消えるとは断定できない。
ならば、男としてこの気持ちを持ったまま、野球少年として清々しいとは云い難い軋轢を残すのではないか?
選択期なんて要らない。性別とは運命ではないのか? それを自ら選べることが幸せなのか?
運命とは変えるものだと安いJポップが癇に障る。
運命を変えないと生きるのが辛いなんて、だったら性別なんて選べない方が良いじゃないか。
自分で未来を選べる機会に、尻込みする自分が、キョウジにはどうしようもなく、腹立たしかった。
「俺……男らしくねえな、グジグジとよ」
「いいじゃない、今はキョウちゃん、女なんだから」
「良くねえよ、こんな俺……あさひだって幻滅するもんな……」
「――あさひくんに聞きましょうか」
「あ?」
「呼ばれて飛び出て、あさひでーす」
二回りは大きな男は、変わらない笑顔で現れていた。
心臓が止まらなくて良かったと思ったところで、キョウジの思考が追いついた。
「おま……なんで、ここに!?」
「ここは学校で、俺はここの生徒だぜ?」
「……いつから聞いてたっ?」
「んー……まあ、“まさか女になっただけであいつを好きになるなんて”辺り?」
……午後はサボろう。キョウジとあさひが決めた。
だが、姉の明日菜はテクテクと自分の教室に向かっていた。ニコニコと何の不安もないようで、ブンブンと手を振っている。
「じゃーね! キョウちゃん。選択肢はふたつだけじゃないかもしれないよ」
意味深な捨て台詞を背に受けて、ふたりはとりあえず、と野球部の部室に向かった。
授業中にサボるとうるさい教師や先輩方も、今日は全員、真面目に授業をしたり、授業を受けている。
いつもは後輩のバカ話と、同学年のバカ話と、先輩のバカ話が満ちている愛すべき空間だが、いやに静かで、その、なんというか、気マズイ。
「バットでも磨くか」
「……そうだな」
部室に居てなにもしないというのも、手が落ち着かない野球人のサガ。
部室から出てサボりを見とがめられるのも面白くないし、室内で出来る部活動ということで、ふたりとも言葉が続かないままバットを磨きはじめ、二本目のバットを磨きだした頃、キョウジが切り出した。
「……ビックリしたよな、あさひ。俺、ホモ……っつか、ゲイっつーか、そんなのだったんだわ」
「いやぁ。今は女だから、ストレートじゃないか?」
「言い訳だろ。俺、男だしよ。気持ち悪ィよな」
「別に」
「無理すんなよ。男に戻っても……その、やっぱりよ、気色悪ィだろ」
「……? あ? キョウ、もしかして忘れてんのか?」
「何が?」
「俺、昔は女だったんだろ? 選択期で男になったって、忘れてるか?」
……。
……。
……。
……。
「はっ!?」
「明日菜さんは覚えていたぜ? 俺、女だった頃……ジュニアリーグでお前と対戦してたこと」
「そんなこと……お前、全然云わなかったじゃん」
「云えるかよ。お前は俺のことを覚えてないのに、俺はお前が初恋だった、なんてよ」
ん? ん? ん? んんんん?
疑問符が疑問符に絡まり、キョウジの頭の中を埋め尽くしたところで、
――そういえば、あさひという名前。男女のどちらでも使える、名前だと気が付いた。
キョウジは男にしか使えない名前で、選択期があるなら親が考えて無さすぎると腹が立ったが、逆にあさひという名前なら性別を変えてもそのまま使える。
返す言葉の見付けられぬまま、キョウジはバットを磨き終わり、ボールに手を伸ばした。ボールの土汚れが気になる。
キズも気になるから買い替えたいところだが、部費はどれくらい残っているのか、三年生に訊かねばなるまい。
あさひもボールを磨きだして言葉を選んだ……、というより、今まで伝えていなかったことをやっと口にする、そんな様子で。
「キョウジが西区コンドルスのエースだった頃だよ。そんとき、俺は東区タイガーズのレフトやってた」
「覚えてないって! 云ってくれよ!」
「だーかーらァッ! 云えなかったんだろうがッ! 俺の方は一方的にお前に四三振させられたのに! お前は覚えてない! 俺だけ勝手にライバルだと思ってたってことだろ! カッコいいお前に一目惚れしたのによ!」
キョウジの視線と意識が、窓から飛び出していた。ネットの網目を数えだしていた。
あのネットはあさひが入学当時、ホームランの弾道が高すぎて増設されたものだったな、と思いだしていた。
小さくなった肩、大きくなり過ぎたバスト、大きな瞳、ああ、もう、これで汗臭い部室じゃなければ映画のワンシーンじゃないか。
「ちょっと待てよあさひ。なんで俺に惚れたのに男になってんだよ」
「男になってお前の球を打ちたかったからに決まってるだろ?
お前に三振取られまくってからすぐ選択期が来たしな。女としてお前に惚れてたけど野球人としてお前にはもっと惚れてたからさ。
そしたら、何の因果かお前が引っ越してきて同じチームになって、しかも、お前、ナックルフォークなんて覚えて。
取れるキャッチャー居なかっただろ? 元々の球だけで俺は打てないのに、それでも魔球をガンガン覚えだしてさ。すげぇと思ったよ。
……けどよ、キャッチャーは誰も取れなくって、じゃあ俺がお前のボールを受けてやらなきゃ、って思ったわけよ」
“だけどな。”そう云いながらあさひは磨き終わったボールを構えた。
捕手が盗塁を刺すときの、レーザーキャノンのような大砲の構えで左肩を大きく振りかぶってみせた。
もちろん、捕手の構えではあるが、それは捕手の構えではない。
野球は、打者から見て右側にある一塁に走るため、左手で投げると自分の右半身が邪魔で、右から左に走る走者が見えにくくなるため、捕手は右手でボールを投げる。基本的に左手でボールは投げない。
「……あさひ、お前……左利き、だよな」
「そうだよ」
珍しくは無い。野球では打者から見て右に一塁、左に三塁がある。
そのため、右利きと左利きに実用的な違いが有り、ポジションによって利き腕と違う腕でプレーする。珍しくもなんともない。だが。
「思い出した。その左構え……あのときの、レフトかがあさひっ! っで、女だったのか! アレ!」
「そーそー。髪もそのときから短かったし、ユニフォーム着てたら男に間違えられた」
「って、え? お前、あのとき、外野で一番キレイな返球してたじゃねぇか!」
「あのときは女だからって負けるのがイヤでなぁ。遠投は練習した。一番になったとき、マジで嬉しかったよ」
「なんで、キャッチャー、やってんだよ……! 打撃練習も減らしちまって……お前!」
「――何度も云わせるなよ。俺がやらなきゃ、お前がナックルを投げられないだろ?」
キョウジは、分かっているつもりで、何も分かっていなかった。
自分は、性別の変換で人生の岐路に立った。だが、あさひは小学生の頃に男に成る道を選択し、そしてそのあとも、自分のために外野手ではなく、捕手を選んでくれた。
人生だけじゃない、野球人生を掛けていた。注いでいるのにあさひはキョウジに恩を着せるでもなく、自分のナックルボールに賭けてくれた。
「キョウ、俺は何も後悔してない。お前が男を続けるならバッテリーを組んで甲子園に行く。女になったら……引き分けってことだな」
「女のお前が俺に惚れて、女の俺がお前に惚れたってことか」
「ん。それでお相子。だから……お前が決めろよ。俺も自分で決めた。お前のせいで男になったなんて云う気はねえ。だから……自分で、決めて良いんだ」
そういって、あさひはキョウジの小さくなった肩を抱き寄せた。
男が女にやるようになのか女が男にやるようになのか、それとも九回のスリーアウトを取ったときに仲間をそうするようにかは分からなくても、明日には、明日は今日になるのだ。朝日と共に。