残響
曇天と少しの雨音。耳障りな蝉の鳴き声。踏切と電車の擦れる音。メッセージの受信音。
すべてが彼女の声を僕に届かせまいと邪魔をする。彼女は何か一言残しこの世を去った。
この時、僕には彼女が何を言っていたのか分からなかったが、いやむしろ理解をしたくなかったようにも思えるが、彼女の一片の後悔すらないような、笑顔だけが今でも脳裏に焼き付いている。
僕も今なら彼女が何に苦しみ、何を求めていたのかもぼんやりとだがわかる。
彼女は裕福な家庭に生まれ何不自由なく生活をしてきた。腰のあたりまであるストレートの黒髪が特徴的で容姿はとても整っていたと思う。いつも数多くの友人に囲まれ楽しそうに過ごしていた。僕は彼女のいちクラスメートというありふれた存在であり、いつも教室の隅でひとり読書をしていた陰湿な人間であった。彼女と違って友人と呼べる人は誰一人としていなかった。日々無気力で過ごしていた。数少ない楽しみといえば虫の標本作りとふとした瞬間に彼女に現れる無の一面を見ることであった。そして、無が彼女を塗りつぶすとき決まって僕に視線を向けているのだ。これは僕の思い上がりや、気味の悪い妄想などではなく事実である。彼女は僕が同じくこの世界を窮屈に思っていることにうすうす気が付いていたのだと思う。
彼女は高校に入学してから日に日にその表情を見せることが増えていった。
そして今日。空には分厚い灰色の雲が覆われており一雨来そうな空模様であった。僕のマンションは学校から歩いて二十分ほどにあったため、雨が来る前には帰宅できるだろうとバスを使わずに歩いて帰ることにした。十分と少しほど歩いたところで小雨が降りだした。傘は持っていなかったので早足で家まで急ぐことにした。家の近くの踏切に近づくと同じ高校の制服の女子が傘を差さず踏切の前で電車が通り過ぎるのを待っていた。
僕がそれが彼女だと気がついたのはやはり彼女の纏う空気からであった。彼女は僕を流し見した後視線を前に向けた。
しばらくして電車が通り過ぎた。しかしまだレールは下がったままであった。おそらく次の電車が近かったためだあろう。仕方なしに僕は制服が肌に張り付く嫌悪感を我慢しながら待つことにした。その間に彼女の様子を数回うかがったが、依然として視線は前方に向けたままピクリともしていなかった。
電車が遠くのほうでこちらに向かってくるのが見えようやく帰れると思い視線を戻すと、なぜか彼女がこちらを見ていた。しかしそれは青春の恋物語のように恥じらいなどは一切ないあの虚無であった。そしてあの時僕が見た彼女の表情はひどく苦しそうでまるで救いを求めているかの様であった。
数秒ほど記憶が確かではなく、気が付けば僕は彼女のからだを力いっぱい突き飛ばしていた。彼女はレールの上に投げ出されしばらく驚いた表情を見せた後、晴れやかな笑顔で何かをつぶやいた。
彼女のからだと電車が衝突した。鈍い音が響いた後、鮮やかな赤い色彩が世界の染めた。絵具やクレヨンなどでは決して表すことのできない究極の美しさであった。この時ばかりは雨音やセミの鳴き声などという陳腐な音は全て消えていた。
僕は安堵した。僕は歓喜した。なぜなら彼女はつまらないこの世の中から解放されたのだから。そしてそれを手伝ったのは何のとりえもない僕であったから。彼女を本当の意味で幸せにできたのはこの世界で僕だけだったのだから。
幸福な気分のまま家に帰り、ぐっしょりと濡れた制服のままリビングを通り過ぎベランダへ出た。
今はこの雨すら心地よい。彼女はどのような世界へ行けただろうか。彼女がたどり着いた場所はきっと素晴らしいにちがいない。僕もすぐに行くから。今行くから。
僕はこの窮屈な世界に別れを告げ飛び立った。
薄れゆく意識の中でコンクリートで跳ね不規則なリズムを響かせた水音だけが聞こえた。