羊がうるさくて眠れない
寝苦しい真夏の夜。俺はひとりベッドで唸っていた。汗はだらだらと垂れてくるし、服はべっとりと肌に張り付いていて気持ちが悪い。エアコンをつけようにも、万年金欠の俺にはそれすら重大な出費となりかねない。せめてもの抵抗として窓を開けてはいるものの、その効果も微々たるものだった。
「熱い……」
自分でも聞いたことがないくらい潰れた声が出た。厚さで喉がやられたらしい。俺は嘆息しながら上半身を起こした。時刻はすでに夜の一時。このまま起きていると明日に支障をきたしそうだ。
「……そうだ」
と、そこで俺の脳裏にある考えが浮かぶ。それは、寝る前に羊を数えるといういたってシンプルなものだった。確かにこれは古来から受け継がれてきた技だ。だとすれば、十分この状況を打開できるだろう。
俺は意気揚々とベッドにもぐりこみ、脳内で羊を数えはじめた。
羊が一匹、羊が二匹、羊が三……あれ?
俺は不意に首を傾げる。というのも、柵を飛び越えようとしていた羊の内の一匹がその手前でピタリと止まったからだ。見かねてか、俺の脳内にいる農夫の様な小人がけしかけるもその羊はいやいやと首を振っている。
マジか。これは想定外だ。
俺は唖然としながらその光景を見守っていた。
その時、不意にすでに策を飛び越えていたはずの羊たちがめぇめぇとなき始める。それは、まだ飛び越えられていない羊を励ましているようにも見えた。
『ほら、行け。大丈夫だから』
俺の脳内にいる小人もその愛くるしい姿からは想像もできないほど低い声で告げる。だが、件の羊は依然としてその場を動こうとしなかった。
このままいても仕方ないと思ったのだろう。農夫はそいつを引き連れてどこかへ行ってしまった。その代わりに、後続の羊たちが順調に柵を飛び越えていく。
やがて柵を越えたあたりだろうか?
再びあの羊が農夫に連れられてやってきたのだ。その子は少しばかり怖気づいた様子を見せながらも、勢いをつけて走り始める!
羊たちがめぇめぇと喚きたて、農夫たちもそれに合いの手を送る。
そうして――その羊はとうとう柵を飛び越えた!
やや着地は乱れたものの、仲間の元へとたどり着いた羊は楽しげに鳴いている。農夫は涙を浮かべながら拍手を送っていた。
……って、なんだこれ?
すっかり見入っていたが、俺は寝ようとしていたはずだ。夢、と言うわけではないだろう。俺の意識ははっきりしているし、体も動かせるのだから。
俺は嘆息しつつ頭を振り、そいつらを脳内から追い出した。そうして、今度は無心で目を瞑る。
――が、残党と思わしき羊が脳内に広がる牧場をうろつき始める。仲間を探しているのか、涙ながらに声を張り上げていた。
いや、やめろよ。俺は寝たいんだよ。本当に黙ってくれ。
その思いが伝わったのか、羊はグッと息を呑みこみ端の方に寄った。だが、それだけだ。しょんぼりと丸まっており、見ていていたたまれなくなる。
たまらず先ほどの農夫と羊たちを召喚させる。これは俺の脳内での出来事だ。自分のさじ加減で何ともなるのが面白いところである。
仲間と再会できた羊は嬉しそうに泣き喚いていた。かと思うと、そいつの体が一際激しく輝きだす。
やがてその光が治まるとそこには――羊角を頭に付けた一人の少女がいた。彼女は俺の脳内にいる農夫を見るなり、ポッと頬を赤らめてみせる。彼も同様に顔を真っ赤にしていた。
『あ、あの。いつもお世話してくれてありがとうございます』
澄んだ声で告げる少女。農夫は照れ臭そうに頭を掻きながらも続けた。
『い、いや、当然のことだから』
見つめあって頬を紅潮させている二人。
いや、待てって。だから俺の脳内の妄想なのにどうしてお前たちは勝手に動き出すんだ。今にもラブロマンスが始まりそうな雰囲気じゃないか。
まるでこちらの考えを読んだかのように、二人は自然にキスをした。何が悲しくてこんなものを寝る前に見なければいけないのだ。安っぽいメロドラマの方がまだマシだ。
農夫は手慣れた仕草で少女を小屋の方へと誘導していく。こいつ、意外にやるな。
こちらの考えなどつゆ知らず、二人は小屋の中へと入っていく。中は以上に簡素で部屋の中央にはベッドしかない。そして部屋の照明はピンク色で……。
「って、おい!」
思わず飛び起きる俺! いや、だがあれはそうなるだろう!
どうして夢でもない、ただの寝る前に羊を数えるだけでどうしてこんなものを見なければならないのだ。
最悪の気分になってしまった俺は一旦スマホをとって時刻を確認し――グッと顔を歪めた。ただ今の時刻は午前五時。もう寝たとしても一、二時間しか無理だ。
俺は乾いた笑いを漏らし、瞑目する。
「……まぁ、寝よう」
遅刻しようが、知ったことか。こっちには最大の免罪符があるのだ。
寝ようとしたら、羊がうるさかったのだ、と。
無論、先生からわりと本気で怒られたのは言うまでもないだろう。