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割れた窓から下を覗き込み、息を飲み込んだ。
地上五階。普通に落ちれば大怪我間違い無しの高さだが、確かに大分ショートカットできる道でもある。しかし壁は凹凸一つも無い平らな造りになっており、降りるにはアミリアの出した案に従うしかなかった。
「反動で着地する……ううむ」
口にしてみると、本当にそんなことが可能か不安になってくる。
当然危険な上に、最悪の場合歩くことすらできなくなるかもしれない。状況が状況な以上リスクを負う必要はあるが、流石にこれは……
悩んで時間を潰すわけにはいかない。すぐにアミリアを説得しなければ。
「なぁ、アミリア。やっぱり別の―――んん!?」
「イチノセさん」
止めさせようとした矢先のことだった。あろうことかアミリアが、突然俺に抱き付いてきたのだ。
ほんのりと甘い香り。そして全身に感じる温もり、柔らかな感触。五感のいくつかが幸福感に満たされる。
幸せのあまり、俺の頭はこの行動が意味することをちっとも考えようとしていなかった。
体が窓に向かって思い切り引っ張られた時には、既に遅し。
「行きます!」
「え、ちょ、待っ!? あああ!!」
待ってなどくれないアミリア。俺達の体は地上五階の窓から外に放り出される。
当然剣と魔法の世界にも重力はあり、そのまま俺達の体は地上へと落下していった。
アミリアが下で、俺は上。アミリアは左手で俺を掴みながら、右手に魔力を溜め始める。
「もう少し、もう少し……」
アミリアが提案した無茶苦茶な案。それは氷塊を俺に当てて落下の勢いを殺し、着地すること。
早すぎれば俺が痛みで持たないし、遅すぎれば思い切り地面に叩きつけられてしまう。
タイミングが命。叫ぶ俺とは裏腹に、アミリアは地面を見ながら俺の腹に右掌を近づけた。
「アイスマス!」
分かった。きっと、ここぞの場面というときに彼女は魔法名を唱えるのだ。
そんなどうでもいいことを考えながら、俺は彼女の魔法を受け止めた。
いくら凍らないとはいえ、当たれば痛いし、それも腹に食らうのは二発目。最初よりも強烈な嗚咽感に襲われ確信した。
今日は、厄日だ。
「痛ぇ!」
「きゃっ」
体がフワリと浮かびはしたものの、氷塊一つでは二人分の落下の勢いを殺しきることは出来なかった。
それでも、痛みだけなのは不幸中の幸いだろう。体のどこにも骨折や打撲は感じられない。
ただ、何かに首を締め付けられている。温かい、布みたいな、これは……
「ちょっと遅かったですね……痛てて」
「い、いいから。どいてくれ、苦しい!」
「へっ? イチノセさんどうして……って、いやああぁぁ!?」
「あがっ! ちょ、待て! 首が締まる!」
俺が仰向けに倒れ、アミリアが俺の首を股で挟むかのように座り込んでいる体勢。
どうして最初俺が上にいたはずなのに位置が逆転しているのか、考えれば当然のことだった。
俺がアイスマスを後ろに受け流せるよう、アミリアがわざとずらして撃ったのが裏目に出たのだ。
アイスマスの命中と共に、なるべくして俺達は回転した。結果、運悪くこんな体勢に。
耳まで真っ赤にしながら、ようやく立ち上がるアミリア。ヤバい、そんな傍で急に立たれるとスカートの中身が。
「イチノセさん……」
「うっ……と、とにかく急ぐぞ」
「は、はい」
今見えたものは心の奥底に封印しよう。これ以上アミリアを動揺させるわけにはいかない。
とにかく、まだ走れるだけの余裕はある。このまま階段をゆっくり降りてくる鹿下さえ撒いてしまえば。
「?」
何かが地面に叩きつけられた、そんな衝撃音がした。
周囲に砂埃が舞い、後に残されたのは俺達二人。そして。
「悲鳴が聞こえましたよ」
「……は、ははは」
アミリアのものでは無い、その声。もう笑うことしかできない。
幻聴であてほしかった。本日何度目だろう。俺達の前で黒髪を靡かせる彼女を見るのは。
「イ、イチノセさん。あの人、今私たちが出てきた窓から飛び降りて……」
「バケモンかよ、クソっ!」
どうして忘れていた。彼女、鹿下加奈は人間じゃない。どんな高所から飛び降りても五体満足でいられるなんて彼女からしたらあたりまえじゃないか。
また魔法で足止めをしなければ、今度こそ殺される。しかし、振り返るとアミリアは尻餅をついたまま動けずにいた。
「アミリア!?」
「も、もう、無理。です」
ついにアミリアの魔力も底をついてしまったのだ。一旦魔力が尽きた体は、再使用のためにその運動機能をしばらく何割も削る。今のアミリアには立つことも難しい。
そもそも、たとえ走れたとしてもどうすればいい?
前は無機質な軍の基地を背景に近づいてくる鹿下。後ろを振り返ると……森を挟んでローティアの城がぼんやりと見えた、崖下に。
逃げ道は無い。ならば、アミリアが魔力を回復するまで俺が時間を稼ぐしかない。
鹿下に向かって正座をして、地面を頭に付けた。どうせ情けない男なのだから、これぐらい何ともない。
「鹿下、話を聞いてくれ。俺はこんな小っこい子供が拷問されて、他の国みたいに奴隷のような扱いをされるのが嫌なだけなんだ。別に軍に恨みなんてない。だから、見逃してほしい。この通りだ」
「……その少女に洗脳されているのですね。そうに違いありません。でなければそんなことあなたがするわけありません。大丈夫です、一之瀬さん。今助けますから」
「洗脳なんかじゃない! 俺は、俺は……!」
「俺は、何ですか」
顔を上げると、鹿下はすぐ傍まで迫ってきていた。
雪のような白い肌。冷たい黒目。軍の中で人格を持つロボットにのみ与えられるそれに、人間らしさは欠片も無い。
彼女は他のロボット同様に、命令があろうがなかろうが躊躇なく人を殺せる兵器。そんな奴に何を言えば納得してもらえるのか。
俺が言えるのは、本心だけだった。
「一目惚れだったんだ」
額についた土を払い落として、立ち上がった。やはり土下座なんて男のプライドが許さない。
目の前には少しだけ目を見開く鹿下の姿。驚いたのか、それともくだらない嘘だと思っているのか。それは分からない。
後ろで静観を決めていた少女が素っ頓狂な声をあげるのを無視して、話を続けた。
「子供だとか、やっぱりそんなのどうでもいい! 初めてアミリアに会って、その声を聞いて、その笑顔を見て、気づいたら全部好きになってただけだ! だから俺はアミリアのためなら軍だろうが全部敵に回してやる!」
「……それを、洗脳だと、私は言ってるんです。一之瀬さん!」
鹿下は声を張り、ライフルを構えた。しかし、その銃口にこれまでのような恐怖は感じない。
俺のメンタルが強くなったわけでは無い。ライフルを握る鹿下の手が、あろうことか震えているのだ。
ロボットのくせに動揺だなんて。おかげで少しだけ見えた彼女の隙をついて、俺は全力で走り出した。
「一之瀬さん!?」
崖に向かって疾走する俺を、鹿下は追いかけては来るもののライフルで撃ってはこない。
彼女には、少なからず今だけ俺を撃つことはできないようだ。ならば俺がするべきことは、残った唯一の手段に命を捧げることのみ。
「アミリア、目ぇ瞑れ!」
「ちょ、えっ、まさかぁ!?」
途中で脱力していたアミリアを脇に挟む。決してスピードは落とさない。
そして、そのまま両足に力を込め――
「一之瀬さん、待ってください! 行かないで!」
鹿下の叫びと同時に、俺達は崖上から思い切り飛び降りた。
アミリアはまだ魔力切れが続いているようで、先ほどのようにアイスマスで着地なんてできない。
今度やるのは、最初からアミリアが上で俺が下。それでただ俺がクッションになり、アミリアを助けるだけ。
いたってシンプルで、何も考える必要なんてない。俺は目を閉じると、なるべくアミリアと密着するためにその小さな体を両手で抱きしめた。
「……もしかして、イチノセさん!? 何で、どうして!?」
ようやく俺が何をしようとしているのか気付いたアミリア。その顔は、とても悲しそうなものだった。
せめて、最後は笑顔が見たい。しかし、そんな頼みをする時間すら俺には残されていなかった。
視界は一瞬森の緑に包まれ、大きく揺れる。やがて、眠りにつくかのように黒く染まっていった。
第一章、終わりです。